君の髪を撫でたい。

幾瀬 詞文

第1話

僕の彼女は、僕に頭を撫でてもらうのが好きだった。


頭をポンポンと撫でるだけで、その透けるような白い頬に朱色を走らせる。もう何回もやった行為なのに、彼女は慣れるということを知らず、いつも初々しい反応を見せた。それが僕をたまらない気持ちにさせるのだと彼女は知らないだろう。


勿論、僕は彼女の頭を撫でるのが好きだった。


烏の濡羽色の髪は、滑やかで蜘蛛の糸のように繊細だ。触るだけで心が安らぐ。


「僕、村田さんの髪の毛好きだな…とっても綺麗。」


一歩間違えば変態的な発言だが、彼女は恥ずかしそうに身を縮ませ顔を一層赤く染めた。幸せだった。とてつもないほどに。だから、いつかバチが当たるんじゃないかと、不安になった。



僕らは同じ時期に転校してきた。


僕の両親が他界した後、色々あってとあるお婆さんの家に預けられることになった。そのお婆さんが住んでいる片田舎に、僕は引っ越した。


僕はクラスで浮いた存在だった。大きな理由は僕の容姿にあった。


僕の髪は栗色で、肌は白人よりの白だった。その髪色と肌色は特に田舎で目立った。


元々内向的な性格で口数も少ない。その上、僕は潔癖症だった。いつもぶかぶかなラテックス手袋を付けるだけでも悪目立ちしていたのに、所有物を一切他人に触らせないので、クラスメートはおろか担任まで僕を敬遠していた。友人と呼べる関係が築けず、教室の隅でひっそりと息を殺して過ごしていた。


僕が転校してきて一週間後。


まるで僕を追いかけるように、とある女の子が転校してきた。彼女の名前は村田 小百合。村田さんは僕とは何もかもが違っていた。


烏の濡れ羽色の髪に、比較的色白の肌。そして、慎ましくも人を惹きつける性格。


村田さんはすぐにクラスに溶け込んだ。まるで、昔からそこにいるかのように地位を築いていった。クラスの中心までいかなくとも、クラスメートは彼女に一目を置いていた。


村田さんはびっくりするほど人が良かった。

小さい子の面倒目が良く、同級生とも上手くやれていてお淑やかな女子だった。勿論、先生からの覚えもめでたく、控えめながらもクラスでは目立つ存在だった。


僕の小学校では生き物係という役職があった。名前の通り、生物を世話する係だ。学校の中庭に小屋があって、うさぎが五匹飼われていた。


生き物係は8名ほどいて、僕も村田さんもその中の一人だった。僕らはクラスの係り決めが終わった後に転校してきたので、自動的に人手が足りてない生き物係になった。潔癖症の自分が雑菌まみれの動物を世話する係になるなど、控えめに言って拷問だった。生き物係は週交代制でペアを組み、うさぎの世話をする仕事だった。


ある週、僕と村田さんはペアになった。


僕が小屋へ行くと、彼女はすでにいてウサギに餌をやってきた。


ほんの出来心だった。なんだか、彼女に意地悪をしたくなった。それは自分より後に転校してきた彼女が、クラスに溶け込めている不満、嫉妬心がごちゃまぜになって生じた衝動だった。所謂魔がさしたというやつだ。


「ねぇ。村田さんっていつも係押し付けられているよね。イジメられてるんじゃない?きっと、みんな内心では君のことが嫌いなんだよ。」


僕はラテックス手袋を下へ引っ張りながら言った。村田さんはきょとんとした顔で僕を見上げる。

彼女のペアになった女の子は、いつも習い事や塾など言い訳をして彼女に仕事を押し付けて帰っている。彼女はその嘘っぱちな言い訳を真に受けて、いつも「いいよ。任せて。習い事頑張ってね」言い相手を気遣うのだ。


彼女は非常にお気楽な人間だった。確かにクラスではそこそこの地位につけているが、それは表面上の話。特に女の子たちが裏で色々言っているのを知っていた。僕は人間観察が趣味で彼女よりかは人の本性が見えていた。その点においてのみ、彼女より優っていると胸を張れる。

そんな憐れでお気楽な彼女に、現実を突きつけてやろうとしたのだ。


「そうかな?みんな優しいし、私の友達だよ。」


村田さんは薄く笑いながら言った。村田さんが持っているキャベツをうさぎがもしゃもしゃと食べている。


「それは表面上の話。裏では皆んな君のことを見下してるんだよ。使い勝手のいい道具程度にしか思ってない。悪口だって平気で言う。そんな人間を君は友人だと呼べるの?」


彼女は微笑んだ。それは汚い世界を知らない無垢な笑顔ではなかった。全てを許容し受け入れている大人びた笑顔だった。彼女は、裏で自分が都合のいい人間と笑われていることさえ知ってきるのかもしれない。それでも、彼女は笑い続けるのだ。


僕は言葉を失った。彼女は、僕が思っているよりも周りが見えていたらしい。そんな汚い思惑が分かっているのに、なぜ毅然としていられるのか。僕には不思議でたまらなかった。


彼女はちらりと僕の手元を見た。


「三浦くんって潔癖症?」


僕はその言葉にたじろいだ。


彼女が潔癖症だなどという難しい単語を口にしたことに、驚愕し意外性を感じた。


僕は、自分の不可解な感情と行動を知ろうと書物を漁ったので既知だった。だが、縁もゆかりもない村田さんが何故知っているのだろう。


僕は、戸惑いながら頷いた。


「そうだけど‥」


「なら、動物苦手でしょう?」


「うん。できることならその雑菌まみれの毛玉に触りたくない。」


僕は、村田さんの近くにいるうさぎを睨め付けながら言った。


村田さんは苦笑を浮かべる。


「私がお世話しておくから、三浦くんはしなくてもいいよ。」


その言葉に僕は眉毛を吊り上げる。彼女は確かに優しい。だがその優しさが鬱陶しかった。憐憫混じりの彼女の優しさに反発心を覚える。


「別に。手袋してるし。」


僕は肩を怒らせうさぎの餌入れにキャベツと人参を入れた。


村田さんは僕の後ろ姿を見て、微笑を浮かべる。


「三浦くんはさ、潔癖症だけどちょっと矢印が違うよね。」


「はぁ?どういうこと?」


まだ会話を続けるのか。

僕は訝しみながら、振り返る。


「外部への汚れを過剰に気にする性格が潔癖症と呼ばれているね。でも、三浦くんは少し違う気がする。矢印が逆なの。」


僕は眉に深い皺を寄せて、村田さんを睨みつけた。図星だった。


村田さんは肩を竦めて口を閉じる。そして、近くのうさぎに手を伸ばす。その拍子に肩から髪がパラリと落ちた。蜘蛛の糸のような細い髪が揺れる。僕は初めて髪の繊細さに目を奪われた。


それから、僕らは黙ってうさぎの世話をした。その時間が嫌じゃないと思えた。




一週間、僕は村田さんとうさぎの世話をした。相変わらず、うさぎは苦手だったけど、僕らの間に穏やかな時間が流れた。


村田さんへの印象は変わった。お気楽な女子から、人の思惑に塗れた汚い世界を知ってもなお気高く生きている強い女子になった。


そして物知りなこと。他人をよく観察していること。彼女はずば抜けて大人っぽかった。そんな彼女が不思議でならなかった。


それから僕は村田さんとだけ話すようになった。彼女の強さの秘訣を知りたかった。そして、意外にも彼女と話すのは楽しかった。ゆっくり僕らの距離は近づいていった。


そんな僕らの変化に気づいた人がいた。多感な年頃の子供は周りの変化に過敏だった。


クラスメートは、僕らの変化に気づき揶揄した。とりわけ、クラスのガキ大将とその取り巻きは酷かった。彼らはニヤついた表情で、俺に近づいては当てつけのように囃し立てた。俺は曖昧な笑顔を浮かべて、大体の言葉を聞き流した。


しかし、それだけでは飽き足らないようだった。彼らは人の恋心を無闇矢鱈暴き、おもちゃにしたいらしい。


ある日、黒板にデカデカと相合い傘を書かれた。登校して黒板に書かれた相合い傘に気づくと、怒りと羞恥心で全身が煮えたぎった。机で座っている村田さんを一瞥し、僕は荒々しく黒板消しを取った。後方で「あーあ。せっかく書いたのに。」「照れるなよー」「いっそ此処で告白しちゃえば?」などとガキ大将と取り巻きが大声でおちょくる。


僕は腸が煮えくり返りそうな怒りを押さえ、努めて冷静に振る舞った。ここで感情を顕にしたら、彼らをより一層喜ばせるだけだ。相合い傘を消して、いつも通りの表情を取り繕う。平然と席に向かう俺を見るとガキ大将はつまんなそうな顔した。それから彼らの興味は昨日発売されたゲームへと移る。僕は席に着くと、斜め前の席に座っている彼女の背中を窺う。村田さんは手元の本に視線を落としていた。彼女はガキの悪ふざけに傷つかないほど強かった。これが年頃の女子だったら、きっと肩を震わせて泣いていたかもしれない。ぼうっと彼女の背中を見ていると、窓から春風が吹き彼女の長い髪を揺らす。蜘蛛の糸のような細い髪がサラサラと揺れ波打つ。髪の内側から滴るような美しさがあった。僕はその時、はじめて彼女の髪に触りたくなった。



それから僕らの関係はぎこちなくなった。人がいる場所では会話をしなくなった。


そうして接点がなくなり、はじめの頃のような関係になった。


だが一つだけ違うことがあった。


僕らは放課後の図書館でひっそりと時間を共に過ごした。僕は本をあまり読まなかったけれど、彼女は本の虫でいつも沢山の本を読んでいた。


図書館の長机を挟んで向かい合うように座った。僕は図書館の本ではなく、自分で買った本を持ってきた。


5時ごろになるとランドセルを背負って、帰途につく。


この頃には僕にとって彼女は特別な女の子になっていた。もっと村田さんに近づきたい。そのために、彼女に触れたいと思う。触れれば、それだけ近づけるような気がした。だけど、それ以上に触れることへの恐怖心があった。


夕日で赤く染まっている髪を見つめていると、視線に気づいたのか村田さんが振り返る。


「三浦くんっていつも私の髪の毛見ているよね。そんなに珍しい?」


夕日に照らされた顔で、村田さんはクスリと笑いながら言った。


僕は慌てて否定した。


「別に!君の髪なんて興味ないよ!」


言い終わった後に、僕は言葉が過ぎたと後悔した。村田さんを窺う。彼女は少し悲しげに眉を下げ、笑っていた。


僕は焦って弁解しようと口を開く。しかし、上手い言葉が出てこない。金魚のように口を開閉させ、最後には口を噤む。


その時一陣の風が吹き抜けた。強風にあおられ、砂埃が目に入らないように腕で顔を庇う。


風が止み腕を下ろす。目の前にいる彼女は乱れた前髪を直していた。僕は彼女の頭についている葉っぱに気づく。小さな茶色の葉が、髪に絡まっていた。


「村田さん、髪に葉っぱがついてる。」


「え?どこ?」


「この辺。」


僕は自分の頭を指差して場所を教えた。しかし村田さんがその部分を手で溶かすと、葉っぱかより一層絡まった。


僕は手元に視線を落とす。ぶかぶかなラテックス手袋の感触をしっかり確かめた。


ー大丈夫。


僕は顔を上げた。村田さんは、未だに葉っぱが取れない様子で髪を手で解かしている。僕は彼女へ手を伸ばした。


村田さんが目を丸くさせ僕を見る。しかし僕は髪についている葉っぱに気を取られていて、気づかない。


無様に震える指先。頭の奥がじんと痺れる感覚。怯える自分を叱咤し体を動かした。


薄いラテックス手袋越しに、村田さんの繊細な髪に触れた。あまり感触はなかった。妙につるつるした感触はあった。絡まっている葉っぱを指を動かして取り除く。


手元の葉っぱを捨てると、ようやく安堵の息を漏らす。


そして、進んで人に触れることができた自分の成長を実感した。


村田さんへ視線を向ける。それは確認するためだった。彼女は珍しく口をへの字に曲げていた。


「意気地なしね。」


村田さんはそう言い残すと、僕に背を向けて歩き出した。僕は彼女の言葉に動揺した。次に怒りが湧いてきた。


村田さんの背中を追いかけ、隣に並ぶ。


「意気地なしってなんだよ。」


「意気地なしを意気地なしって言って何が悪いの?」


つっけんどんな口調に、僕はカチンとくる。


「僕は意気地なしじゃない!」


僕がそう叫ぶと、村田さんは足をピタリと止めた。そして、僕を静かに見つめた。


「意気地なしよ。‥‥そして、貴方は潔癖症じゃない。」


僕は言葉を詰まらせる。村田さんは今にも泣きそうな顔をしていた。

一体何が彼女に悲痛な顔をさせているのか、僕は分からなかった。

僕は顔を歪めて、苦しげに息を吐く。


「‥‥僕は、意気地なしかもしれないけど、潔癖症だよ。」


「認めるのね。でも、三浦くんは潔癖症じゃない。矢印が違うもの。」


「やってることは同じだよ。」


「‥‥‥違うよ。表面上はそうかもしれないけど、根っこの部分は違う。」


「‥もう、この話やめない?‥村田さんには関係ないでしょ。」


突き放すように言うと、村田さんは目に見えて傷ついた顔をした。


「…分かった。ごめんね。」


村田さんは無理やり笑った。その顔は引き攣っていた。その顔を見て僕の心がチクリと痛んだ。僕は彼女に謝らせたかった訳じゃない。


ーならどうして欲しかったんだろう。


僕には分からなかった。


僕らは気まずい帰り道を共にした。



それから僕たちは何時もの日常に戻った。教室では話さないけど、図書館では時間を共有した。けれど、別々で帰った。


僕は彼女とどうしたいのか、わからなくなっていた。


それから、半年後。


彼女が転校するという話を聞いた。


それは、クラスの休み時間に女子の会話を盗み聞きして発覚した。


その時は何を冗談をと一蹴した。


しかし、どこか引っかかりを覚えた。そして不安になった。


放課後、僕は彼女に尋ねた。


「引っ越すの?」


「うん。」


村田さんはあっさりと肯定した。僕は衝撃を受けた。なんで僕には言ってくれなかったのかと、怒りを覚えた。


「いつ?」


「3日後」


淡々とした答えが放課後の図書室に響く。窓から差し込んだ光。時計が時間を刻む音。目の前にいる彼女。いつも見ている光景なのに、遠い異国の地にいるような錯覚を覚える。


なんで教えてくれなかったのか。


問い詰めたい気持ちはあった。


同時に、言わずにいた村田さんの気持ちがなんとなく理解できた。


だから、僕は問い詰められなかった。問い詰めなかったのではなく、できなかったのだ。


もう3日後には縁が切れるのか。二度と会えなくなるのか。そんな考えが頭の中をぐるぐると回る。


「引っ越し先の、住所、教えて。」


僕は惨めったらしく彼女に縋り付いた。村田さんとの縁を切りたくなかった。


本当は引っ越しなんてして欲しくなかった。でも、それを言ったところで現実は変わらない。僕は代わりに彼女との関わりを望んだ。


「いいよ。」


村田さんの言葉に勢いよく顔を上げた。

村田さんは、僕を静かにじっと見つめる。いつかの帰り道を彷彿させる表情だった。


「ただし、条件がある。」


「条件?」


「私の髪の毛を撫でて。ラテックス手袋なしで、直接。」


僕はたじろいだ。先ほど上昇した気分が急下降し、頭が真っ白になる。僕は眉に皺を寄せ、視線を下げる。


「き、きみは、‥酷い。」


僕が最も恐れていることを平気で強要する村田さんを憎く思う。強く握りすぎた拳が、膝の上で白くなる。


「選択権は、三浦くんにあるよ。」


「殆ど強制だよ。」


「あら、そんなに私の住所が知りたいんだ」


村田さんの弾んだ声が耳朶を震わす。


「なんか、ずるくない?」


不満そうに口を尖らせて言うと、村田さんは苦笑を浮かべる。


「私の親が再婚するの。だから、引っ越すの。」


「‥片親だったんだ。」


「うん。四年生の頃、お父さんが事故で亡くなったから、お母さんの故郷に引っ越して、ここに来たの。それで、今度再婚する相手が隣の県に住んでいるから、また引っ越すことになった。」


「そうなんだ。僕とちょっと似てるね」


「三浦くんも片親なの?」


「ううん。僕の親は、僕が小学一年生の頃、交通事故で亡くなったんだ。‥母親は外国人で、父親は日本人。だから、僕の髪色は茶色なんだ。」


僕は髪をつまみながら言った。日に透かすとより一層色素が薄くなる。それを忌々しげに見つめてから、指で弾いた。


「葬式の時に、初めて父親の両親や兄弟にあったよ。そして、最初の第一声がさ、『汚い子』だった。

父親は、元々由緒ある華族の家の子で、父方の血縁者は父が母と結婚するのを反対したんだ。外国人と血が混ざるのが嫌だったみたい。その反対を押し切って、父は母と結婚した。だから、父親の家族は、外国の血が流れている僕を疎ましく、汚らわしく思ってるみたい。」


肩を竦めてなるべく明るく言った。そうしないと過去の亡霊に囚われてしまいそうだった。


あの頃は地獄だった。


預けられた家でいつも罵倒された。


三浦の面汚し、誰にも望まれていないのによくのうのうと生きていられるわね、汚いから近寄らないで。


三浦家は、外聞を気にして施設に預けなかったものの、やはり外国の血が混ざった僕は邪魔だったようだ。あの頃はその罵詈雑言をいちいち間に受け心が壊れてしまった。そして呪いのように「汚い」という言葉が付き纏った。

そして僕は自分が汚いのだと自覚した。僕の体内に流れている血も僕の存在も汚いのだ。


「だから、村田さんの言っていることは大体あってるんだ。‥僕は汚い子だから、僕が触るとその汚れが移ってしまいそうで、他人に触れるのが怖くなった。それがだんだん、物や動物も対象になった。」


ラテックス手袋なしに、物に触れられなくなった。風呂では血が滲むまで体を洗った。手がむずむずして何時間も洗った。


僕の体には、汚い空気纏わり付いているような感覚に襲われた。


洗った瞬間は綺麗になれたような気がする。しかし、すぐに身の内から汚さが滲む。洗っても洗っても満足できなかった。僕は一向に綺麗になれなかった。


その内、僕の体は傷だらけになった。体の皮が禿げ、空気に肉が晒され痛かった。


手はアカギレだらけで、まるで老人の手のようにカサついて皺くちゃだった。


今は優しいお婆さんのところに預けられ、平穏な日々を享受している。しかし幼い頃に言われ続けた言葉は深層心理まで侵入して、離れない。人はそう簡単には変わらないのだと知った。


頭では自分は汚くないのだと理解できていた。血液に綺麗も汚いもない。見た目が違うだけで、白人も黒人も黄色人も人間という種族にしかすぎない。


だが頭では理解できていても、心はそう簡単には変われなかった。今でもラテックス手袋なしに触れることに抵抗と恐怖を感じる。


そんな僕が、髪の毛とはいえ人の一部に触れることができるだろうか。汚い僕が触れたら村田さんまで汚くなってしまうのではないだろうか。いいや。そんな現象は科学的にありえないのだと頭では分かっていた。たが、否応なく恐れを抱く。


僕が不安に駆られていると、村田さんはふっと笑った。


「三浦くんは、汚くないよ。」


初めての言葉だった。僕は息を止め、村田さんを見る。村田さんは子供を安心させるような笑みを浮かべる。


今まで山ほど「汚い」という言葉を浴びせられてきた。しかし、反対の言葉は一度も投げかけられたことはなかった。


「三浦くんは、優しい。心が綺麗な男の子だよ。綺麗だから、他人の思惑に疲れるんだ。だから、三浦くんが私に触っても大丈夫なんだよ。」


「本当に?僕は汚くないの?‥君に触っても、君は汚れないの?」


脳内に汚物を見るような目がチラついた。過去の亡霊の目だ。僕を罵る時の血走った目。その亡霊の目を追い払い、目の前にいる彼女を見た。


「大丈夫だよ。」


その一言で十分すぎるほどの力をもらった。確かに、その一言で天地がひっくり返るほど価値観が変わったわけではない。だけれど彼女は僕に触れて欲しいと願ってくれた。僕も彼女に触れたいと思った。


初めて自分から触れたいと思えた髪に、触れられるだけの勇気をもらった。


僕は震える手でラテックス手袋を外す。アカギレだらけで、異様に乾燥していた。自分の年には見合わないくらいの老けた手だ。


立ち上がり彼女の側に寄った。彼女は黒曜石のような瞳で僕を見上げる。その瞳に吸い込まれそうになった。


震える指先を動かす。ゴクリと唾を飲み込んだ。彼女はじっと勇気づけるように僕を見つめていた。僕も彼女をじっと見下ろす。この時確かに僕らの心は通じ合い、一つになっていた。僕は震える指を叱咤し、彼女の頭に添える。カサついた手の表面に、繊細な髪の毛が滑る。その瞬間、心が震えた。


ー気持ちいい


心が震えるほど、それは滑らかだった。そして、彼女の温かみが伝わってくる。ずっと撫でていたいと思えるほど手触りがいい。彼女が嬉しそうに、そして恥ずかしそうに目を細める。


彼女との距離がぐっと縮まったのを実感した。


永遠と思える時間の末、彼女は僕に住所を教えてくれた。僕は彼女に手紙を出すと言った。




そして、3日後。彼女は引っ越してこの街から姿を消した。


僕より後に転校してきた彼女は、僕を置いて別の街は移った。






僕は無事中学生になった。彼女は、そのまま他県の中学に進学した。


僕らは離れた後も文通を繰り返していた。勿論クラスメートの奴らはその事実を知らない。知られたら、またおもちゃにされることが目に見えていた。それは僕らだけの秘密だった。


成長するにつれて色々変化が訪れる。


例えば、僕の潔癖症がだんだん治っていった。彼女の髪に触れたことがきっかけとなったのだろう。といっても、僕の場合は彼女の言う通り潔癖症ではないのだけれど。


手を洗う回数が減った。風呂に入る回数も同様に減った。ラテックス手袋は未だに外せないけれど、徐々に外す時間が長くなっていった。例えば村田さんの手紙を読むときは、必ずラテックス手袋を外した。手紙に直接触れれば彼女の体温が伝わってきそうだとか、そんな馬鹿な動機だった。しかしこれはいい兆しだと思う。村田さんのおかげだ。


それとは別件で、僕は段々不安になる。僕の世界には、男女間の恋愛モノのドラマや映画、雑誌で溢れていた。村田さんも彼氏を作るのではなかろうかと焦りを覚えた。その不安は日に日に増していき、とうとう二年の秋頃に僕は勢いでラブレターを書いた。大して見直しもせずに封筒に入れた。見直すと怖気付いて手紙を出せないだろうと思ったからだ。投函する際に、手が震えた。

時間が経つにつれ、やはりラブレターなんか書かなければよかったなどと、後悔した。日々悶々と悩んでいるとそれから一週間後に返事がきた。僕は飛び上がるような嬉しさと、書かれている内容に対する不安でいっぱいになった。日が暮れた夜に、僕はその手紙を開いた。そこに書かれている内容を見て頭が真っ白になる。何度も最後の文を読み直して、漸く沸き起こった歓喜に、「やったー」と叫んだ。一階からお婆さんが心配する声が聞こえてきて、「大丈夫だよー!」と返事をし、僕は口を噤む。しかしその口元には隠しきれない喜びが滲んでいた。


その日僕らは恋人になった。




それからも僕らは手紙を通じて、交流を繰り返した。そうして村田さんに会えない三年間が過ぎた。


高校は同じ学校に通えた。村田さんが帰ってきたのだ。


この頃になるとラテックス手袋を外している方が多くなった。未だに人に触れることに抵抗を感じるが、震えるほどの恐怖は無くなっていた。


久しぶりに見る村田さんは非常に綺麗に綺麗になっていた。手紙に入っている写真などで、村田さんの姿を確認していたが、実際見る彼女は数倍も美しかった。


色白の肌は陶器のようにきめ細かく、烏の濡羽色の髪は背中で切りそろえられている。人形のように小顔で、彼女の華奢な胴体から手足がしなやかに伸びていた。


高校生になるとクラスメートらはだいぶ大人になっていた。悪意のある揶揄はされず、僕らは受け入れられた。僕らは、慎ましく付き合った。


僕らは、学生生活を満喫した。


なにかにつけて待ち合わせをした。それは学校の行事である文化祭などや、世間の行事であるバレンタインなどである。僕らは恋人らが経験するであろうイベントを一通り熟した。


二年になると、文理に別れた。


僕は理系に進んで、村田さんは文系に進んだ。教室がある棟は理系文系で異なっていて、まず廊下ですれ違うことはない。しかし僕らは登下校を共にしていたので、学校で会えないことは苦にならなかった。休日は村田さんの家や僕の家で勉強をした。僕も村田さんも真面目な方で、勉強は好きだった。その際に勿論恋人らしく睦み合った。この頃には彼女の髪や体に自然と触れられるようになっていた。彼女ばどれだけ僕が触れても綺麗なままだった。だから、僕も安心して触れられた。深層心理にはまだ根っこの部分が残っている。しかし恐怖心や抵抗感を押さえつけられるようになった。他人にはなんとか触れることができるし、彼女には抵抗や恐怖をあまり感じることなく、自ら進んで触れた。それは全て彼女のおかげだった。


僕はとりわけ村田さんの綺麗な髪を撫でるのが好きだった。感触もそうだが、彼女の初々しい反応も非常に好みだった。僕は唇を合わせるよりも、彼女の艷やかな髪を愛でた。


僕は日々幸せだった。言葉では、 表現しきれないほどの大きな幸福感をはっきりと感じていた。あまりにも幸せだったので、そのうち報いを受けるのではないだろうかと不安になるほどだ。


―それは、強ち間違っていなかったのだが。


歯車が噛み合わなくなったのは、村田さんとの登下校がまちまちになった頃だ。それから、一ヶ月すると登下校時さえも会わなくなった。僕と彼女はすれ違うことが多くなった。


日がくれた夜。高校生になるのと同時に買ったケータイを使って、彼女にメールを打つ。


『今週の土曜日、一緒に勉強しない?』


村田さんの返事を待っている間に風呂に入った。首にタオルを掛けたまま自室に戻ると、机上にあるケータイが点滅していた。メールの返信を知らせるランプだ。


僕は急いでケータイを開く。


『ごめんなさい。その日は、習い事があるの。』


僕は肩を落とした。ケータイを投げてベッドに体を沈める。もう一ヶ月も彼女の顔を見ていない。彼女の家に行くことも、彼女が僕の家に来ることもいつの間にか無くなっていた。


ならばせめて弁当を一緒に食べよう。


僕は昼休みに彼女の教室を訪れた。


ガハハハと下品な笑い声が聞こえてきた。きっと品性の欠片もない女子が笑っているのだろう。僕は廊下から首だけだして、村田さんを探し始めた。彼女を見つけた時、呼吸が止まった。村田さんは隣の男子と楽しげに話していたのだ。本来は校則で禁止されているケータイを覗き、お互い笑っていた。


「じゃあさ、今週の土曜日とかどう?」


「うん。分かった。10時頃に、私の家に来て。」


その日は、僕が誘って断られた日だった。


僕は持っていた弁当を落とさないように指に力を込め、踵を返した。心がバラバラに砕け散りそうだった。


嫌なこととは度重なるものだ。


それから一週間した頃に、嫌な噂を耳にした。丁度委員会の帰りで、教室に向かっている時だった。


『五組の村田さんと池田くん付き合っているらしいよ。』


その声に足を止める。その声は、近くの使われなくなった階段から響いていた。


『え?村田さん、一組の三浦くんと付き合っているんじゃないの?』


『そうらしいけど、別れたんじゃない?最近あの二人仲良いし、この間村田さんの家に池田くんが遊びに行ったらしいよ。』


その後は、下世話な話題が続いた。僕は耳を塞ぎその場から去った。


村田さんの心は僕から離れてしまったらしい。書物やテレビやらで、女心は移ろいやすいと聞いていたが本当だと怒りながら思った。僕はこんなに真摯に向き合っていたのに、彼女は僕を裏切ったのだ。


だが僕はその事実を確かめることもなく、それ以上触れさえもしなかった。僕はできるだけその事実から目を背けて、日々を過ごした。


ある日村田さんからメールが届いた。僕はそのメールを見ずに、削除した。それっきり彼女からメールも電話も来なくなった。一度メールを無視した程度で、それ以上メールも電話もしてこない村田さんの軽薄な対応に、僕と彼女の思いの差をまざまざと突き付けられた。僕は彼女にもっと求めてほしかった。


それから何事もなく三年になった。僕は彼女への思いを振り切るように、勉強に打ち込んだ。その成果もあって第一志望の大学に合格した。そりゃそうだろう。寝る暇も削って、一年間勉強ばかりしていたのだ。これで受からなかったのなら心が折れてしまう。


卒業式まであっという間だった。勉強に打ち込んでいる時間が多かったので、三年生になってからの一年間は駆けるように過ぎていった。


卒業式を追えて、卒業証書の丸筒を手に持ち桜が咲き始めた並木道を歩いた。そう言えば彼女と再会を果たしたのは、此処だった。


「三浦くん。」


鈴が転がすような可愛らしい声が響く。何度も聞いた声だ。そして僕を裏切った人の声だ。僕はゆっくりと振り返る。そこには村田さんが立っていた。背中ほどもあった髪はいつの間にか短くなっていた。彼女の髪型を見て、池田は髪が短い女子が好きだと噂で聞いたことを思い出す。僕は苦々しく彼女の髪を見た。そこまで彼女が池田を好きだったとは、思いもよらなかった。彼女の短い髪が、池田への思いを表わしているようで胸が痛いほど軋んだ。


「何?」


冷たい声が出た。その声に村田さんは肩を竦める。春の匂いを含んだ風が走り抜ける。彼女の制服と短い髪が、風に揺れた。短くなっても、彼女の髪は内側から滴るほどの美しさがあった。


「どこの大学いくの?」


―君に関係ある?


そう言いたくなったが、言葉を飲み込んだ。多分これが村田さんと話すのは最後だ。そう思うとささくれた気持ちも少しは凪いだ。


「…☓☓大学。」


「すごいね。国立だ。隣町だね。」


「……村田さんは?」


「…私は…☓☓大学…」


「……同じ大学じゃん。」


池田と仲良くしながらも、勉強していたらしい。自分が必死になって勉強漬けの日々を送って勝ち取った合格を、村田さんも手にした。世の中の不平等さを否応なく感じた。


「じゃあ。」


「あ、の。」


「何?」


彼女は紙袋を持った手に力を入れた。桜の柄が入った可愛らしい外装だった。躊躇する素振りを見せた。そして、取ってつけたような笑顔を浮かべる。その顔にはもう躊躇いは無かった。


「なんでもない。じゃあね。」




大学生になって、彼女ができた。名前は小池。同じ学部の子だった。どことなく村田さんに似ていた。僕が好きになる系統は、清楚系なのだろう。


僕が小池と学内キャンパスを歩いていると、見知った顔がいた。その人物は僕を見つけると、必死な形相をして駆けてくる。側まできた人物を見て、呆然と名を口にした。


「…………池田…」


池田は乱れた呼吸を整えながら、アーモンド形の目で僕を見た。僕は苦々しい表情を浮かべる。横には小池がいたので、無視できない。


「はぁっ、はぁっ、……三浦。ちょっと聞きたいことがあるんだけど………」


「なに?」


―要件、さっさと言え。

僕は内心でそう呟いた。


「……あのさ、村田がどこにいるのか知っているか?」


彼女の居場所を尋ねてくる池田に、僕は訝しげに眉を顰める。


「はぁ?君ら付き合っているんじゃないの?」


「なにそれ。付き合っているのは、三浦だろ?」


「………僕たちもう付き合っていないから。僕が今付き合っているのは、彼女だし。村田さんの居場所なんか知らないよ。」


突き放すように言う。池田はちらりと小池を見てから、怒りで眉を吊り上げる。


「なんであんなに良い子と別れるんだよ!そう言って、俺から遠ざけるつもりか!?」


「僕だって、訳分からないよ!村田さんと池田が付き合っているのかと思っててさ。…それに村田さん髪切ったでしょ?…僕が好きだって言ったのに…池田が短い髪の子が好きだからきっと切ったんだ!」


「何バカなことを言ってんだ!あの子は、お前のことめっちゃ好きなんだよ!!」


僕は顔を歪めながら舌打ちをする。なぜ、池田から村田さんの気持ちを聞かせられなければならないのだ。彼の言っている言葉が、真実かどうか確かめるすべはない。


その上もう村田さんとは終わったのだ。これ以上、昔のことを掘り返さないでほしい。昔の気持ちが、ぶり返してきそうで怖かった。


通行人が何事かと好奇の目で見てくる。それも煩わしかった。


僕は一刻も早くこの会話を終わらせたかった。だから僕は切り札を切った。


「……村田さんの家に行っただろう?」


「!?………なんで知ってる?」


池田は目に見えて動揺した。僕は満足げに微笑む。


「年頃の男子が女子の家に上がり込むとか、関係性を疑ってもいいだろう?まさか、テレビゲームしに行ったとか、勉強を教えてもらいに行ったとか言わないだろうな?男女が私的な空間にいるんだ。そんな言い訳はまかり通らないよ。しかも、相手は村田さんだ。きっと君を好きだったんだよ。」


「…三浦…。誤解だ。」


池田は苦々しく言った。まるで間男が旦那に問い詰められているようだった。だが僕は旦那でもないし、池田も間男ではなく、その直喩が過ちであることを何より僕自身が一番知っていた。


「何が、誤解なんだ。」


「それは…俺の口からは言えない…。ただ、…村田は、お前が好きなんだ。…居場所を教えてくれ。」


「だから、知らないって。」


僕は苛立ちながら言い放つ。そして小池の腕を引き、その場を立ち去ろうとする。池田の横をすれ違う時に、空いた手を掴まれた。


俺は彼の手を振り払う。池田は決意を瞳に宿し、僕を見ていた。


「……分かった。…誤解を解くから、村田の居場所を教えてくれよ。本当は、村田に口止めされてるんだけど…」


「だから、知らないって…」


池田は俺を無視して言葉を続ける。


「…あの日、猫を貰いに行ったんだ。」


「…猫?」


確かに彼女の家には猫が一匹いた。


「引越し先で、猫を飼えないから、貰ってほしいって頼まれたんだ。」


高校生の時にケータイを覗き込んでいたのは、もしかして猫の写真を見ていたからか?楽しげに笑っていたのは、猫の話題で盛り上がっていたからか?


僕は池田から聞かされる事実に愕然とした。小池が反対の腕を引くが気づかない。


「…僕の誤解だっていうのか…ならなんで、髪を切ったんだ…」


僕は弱々しく言った。すると池田は鼻を鳴らし、腕を組む。


「知らねーよ。本人にでも聞けば?」


「…。」


「とにかく、村田の居場所を教えろ。」


「だから、僕は彼女が引っ越したことも今知ったばかりで、村田さんの居場所なんて…」


言いながら僕はとある言葉を思い出す。まだ桜が咲き始めた頃の桜並木道で、彼女が言った言葉だ。


「………大学か…」


気づけば僕は走り出していた。背後から池田と小池の焦った声が聞こえる。しかし僕は己のうちに沸き起こる衝動に駆られ、走った。彼女の掴めなかった部分が、漸く掴めそうな気がした。


僕は学生部に行き嘘八百を並べ立て、なんとか事務の年増から彼女の名前を探させた。事務の女性がパソコンをカタカタと打ち彼女の名前を探している。その間に池田と小池が来た。固唾をのみ待つこと五分。彼女の口から信じがたい言葉を聞いた。


「村田 小百合さんという生徒はこの学校にいません。別の大学だと思います。」


僕は頭が真っ白になった。戦慄く唇を動かし、無様にその言葉を否定しようとする。


「そ、そんなはずは…本当にちゃんと探したんですか?」


すると、女性は気分を害して、顔を歪める。


「間違いなく、村田小百合という女性はこの学校にはいません。あなたの聞き間違いだと思います。とにかく、この学校ではありませんから。…次の人どうぞ。」


後ろに並んでいた学生が僕らを押しのけた。僕はよろよろとその場から離れる。小池がそっと横に寄り添ってくれた。俺はそれをやんわり断る。小池が傷ついた顔をしたが気づかなかった。僕の頭は村田さんのことでいっぱいだった。


桜並木道で彼女が言った言葉は嘘なのか。


僕はもう村田さんのことがよく分からなくなっていた。いや、思えば彼女のことを分かった試しがない。元々僕は彼女のことをあまり知らなかったような気がした。そう思うとなおさら落ち込んだ。


池田は、「村田の居場所が分かったら連絡して」と言い、電話番号を書いた紙を渡して、どこかへ行った。


小池はバイトがあるということで、僕を心配そうに見ながらも学校を出ると別れた。別れ際、小池は「気にしないで方がいいよ。」と言った。多分慰めてるつもりだろう。


僕はトボトボとキャンパスの縁を沿うように歩いた。村田さんは嘘を付くような子ではない。だがそれは僕が知らないだけだったのかもしれない。本当は平気で嘘を吐くような人間だったのかもしれない。だが僕はどうしても彼女を信じたかった。長年見てきた彼女の人間性を、僕が作り上げた幻影だと思いたくなかった。


空を見上げると青空には白い月が浮かんでいる。その月の色に見惚れていると、いつの間にか足が止まっていた。すると、僕の肩に誰かがぶつかる。


「す、すみません。」


白衣を来た男性が駆けていく。その姿を見た瞬間、僕は思い出した。心臓がバクバクと嫌な音を立てて走り出す。頭の奥がじんじんと熱を孕んだ。自分の予想を否定しつつも、足が勝手に動き出す。


向かった先は、僕が通っている☓☓大学の付属病院。県内で二番目に大きな病院だった。自動ドアを通ると、病院の独特な消毒液が鼻を突いた。受付の女性に声をかけた。


「すみません。村田 小百合さんのお見舞いに来たんですけれど…」


お見舞いに来たと言う割に、手に品物を持っていないと気づいたのは後だった。受付の女性は、「少々お待ちください。」といい、パソコンをカタカタと動かす。


「…はい。五階になります。病室の番号は、その階の看護婦にお聞きください。」


女性は、ニッコリと笑顔を浮かべて、僕が恐れていた言葉を放った。その瞬間、頭が真っ白になった。





「久しぶりだね。」


病室に行くと、彼女は白いベットに横たわっていた。細い体は一層細くなっていた。その体を大きめな病院服に包んでいる。村田さんは僕を見ると驚いたように目を丸くさせて、被っているニット帽を恥ずかしそうに下に引っ張る。


言いたいことは山程あった。


なんで自分に病気のことを言ってくれなかったんだとか。


飼えなくなる猫を、なぜ自分ではなく池田に渡したのかとか。


なんで髪を切ったのかとか。


だけど口を突いたのは別の言葉だった。


「…まだ、僕のこと好き?」


「うん。」


村田さんは苦笑いを浮かべながら即答した。しかし、僕の想いを確認しなかった。彼女は、棚においてあるフルーツの詰合せからリンゴを取る。


「リンゴ食べる?」


僕は、静かに頷いた。




それから僕は村田さんの病室に通った。池田にはまだ連絡していない。二人の時間を壊されたくなかった。


だが小池には伝えた。わざわざ近くのカフェに呼び出して、話した。その後別れ話をどう切り出そうと躊躇している際に、小池は軽く息を吐いた。


「三浦くんが、私を誰かと重ねているぐらい、わたし知ってた。女の勘をなめないでね。…本命出てきたら、そりゃいっちゃうよね。」


気づいていたのかと最初は驚いた。しかし僕は慌てて訂正を入れる。


「最初は、確かにそうだったんだ。…だけど、…君は、その、村田さんとは似ても似つかない性格で…そこに惹かれてしまったのも事実なんだ。……でも…」


すると小池は苦笑いを浮かべた。


「まぁ。仕方ないわよね。私は、影のある三浦くんに惹かれてしまったもの。その影を落としたのは、本命の…村田さんだったわけで、もし、三浦くんが村田さんを好きじゃなかったら、私は三浦くんを好きにならなかったかもしれないし。…最近の三浦くん、吹っ切れたみたいか顔しているから、ちょっと微妙だったんだよね。私、影のある男性が好きみたい」


多分、強がりも含まれていただろう。そんな小池に惹かれてしまった。小池は最後まで僕を気遣ってくれた。彼女はいい女で、僕にはとても勿体なかった。彼女は僕らの終焉を綺麗に迎えさせてくれた。


僕はふと、卒業式で歩いた桜並木道を思い出す。あんな苦々しい別れは、二度としないと固く誓った。


小池と別れた後、 彼女の背中を見送りながら、彼女が幸せが訪れるように祈った。




村田さんはいつも可愛らしいニット帽を被っている。それが彼女にできる唯一のおしゃれだと思うと、胸が痛くなった。


彼女は日に日に痩せ細っていく。それを止める術は現代医療にはなかった。


ある日僕が村田さんの病室へ向かうと、彼女は寝入っていた。


僕は壁に立て掛けられている椅子を立て、村田さんの寝顔を見た。穏やかな寝顔だった。彼女の寝顔を見るのは初めてだ。


ふと、棚とベッドの間に紙袋があることに気づいた。引っ張り出して外装を見る。いつか見た桜の柄が入った可愛らしいデザインだ。


中を覗き見ると僕は息を呑んだ。


「……気持ち悪いでしょ?」


鈴が鳴るような声が聞こえて、心臓が跳ねる。顔を開けると、いつの間にか村田さんが起きていた。


「三浦くんが、綺麗だって言うから。…綺麗な状態の時のまま取っておこうって思ったの。お薬の副作用でどんどん髪の毛は抜け落ちていくし、食事も制限されていくから、髪の艶が無くなるの。」


ふふっと儚げに笑いながら、村田さんは僕ではなく窓の外を見ながら言った。僕は手元にある紙袋をじっと見下ろしてから、村田さんを見る。


「…だから、自分の髪の毛を僕にくれようとしていたの?」


「そんなところ。」


「…そうか。」


なんで、あの時渡してくれなかったのか。そんな無粋なことは聞けなかったし、なんとなく想像がついた。


僕は居住まいを正し、彼女を見つめる。


「……君の髪をなでたい。」


彼女の視線が窓から僕へと移る。彼女は苦々しく笑った。


「………綺麗な髪なら、三浦くんの手の中にあるじゃない。」


「そうだね。この髪も綺麗だ。だけど、君に触れたいんだ。」


村田さんは悲しげに眉を寄せた。そしてニット帽を深く被る。


「……ところどころ剥げていて、髪も薄いし…、何より艶が無いの…綺麗じゃない…」


「…君の髪だから、綺麗だと思うんだ。」


僕は腰を浮かせて、その細い手首に手を添えた。彼女の手首は恐ろしいほど細くて、少しでも力を込めたら折れてしまいそうだった。


彼女の丸い瞳が僕を見上げる。涙の膜が張っていた。


「本当に、………綺麗じゃないから。」


彼女は腕の力を抜いた。僕はゆっくりと彼女の手首から手を離し、彼女のニットを取り除いた。


彼女の髪は、子供の髪のように薄かった。確かに艶はなかったし、ところどころ地肌が見えた。でも紙袋に入った死んだ髪ももちろん綺麗だけど、彼女の生きた髪の方が数倍綺麗に見えた。多分彼女の髪だから好きなのだ。僕はそう思った。


「綺麗だ。」


僕は彼女の髪を撫でた。指先から彼女の体温が伝わってくる。柔らかな髪を刺激しないよう、葉の上を滑る水滴のように優しく撫でた。


「君も、君の髪も、綺麗だよ。」


彼女の双眸からポタポタと涙が溢れた。真っ白な掛け布団に、涙のシミができる。


「嘘よ。こんな‥‥みっともない‥醜いよ」


「綺麗だよ。他の誰よりも、世界で一番。君が自分の髪を醜いというなら、その倍、僕が綺麗だ言うよ。」


そうしていつか村田さんが自分の髪を綺麗だと思えるようになればいい。僕が自分を汚くないと思えたように。


「ありがとう。でも、もうここには来ないで。」


彼女の震える声は水を含んでいた。

僕は驚きのあまり手を止めた。村田さんは僕の胸をトンと押した。

彼女は顔を上げた。村田さんは泣きながら笑っていた。


「なん‥で?」


喉の奥が砂漠のように干上がった。ヒリヒリと痛む。


「もうね。辛いの。たくさんお薬飲むのも、こうして三浦くんと会うのも。だから、もう来ないでほしい。」


彼女は静かに涙を流していた。泣いているのに、どこか冷めた目で僕を見ている。奈落の底を彷彿させるその目。


生気のない彼女に、僕は何をしてあげられるだろう。僕を過去の亡霊から救ってくれた彼女に、僕は何を返せるだろう。返しきれないほど大きなモノを貰った。だから、返したい。だが僕になりができるか分からない。


考えて考えて考えた結果、心の奥底にあった浅ましい願い。僕はただ彼女の側に居たかった。


気がついたら、僕は村田さんの細い手を握っていた。


「村田さん。好きだよ。」


村田さんの目を見つめながら言った。彼女の目が僕の言葉で揺れる。


彼女も僕と同じくらい好きだと思ってくれている。そうでなかったら、髪なんてプレゼントしない。


そんな彼女が、僕と違う願いを持つはずがない。


独りよがりな僕は確信した。


だから僕は彼女の心に届くように、心を言葉にとかした。


「儚げな容姿なのに、意外と強くて、逞しい君の有様がすごく好きだ。汚い人の思惑の中、毅然と立ち、笑っている君にどうしようもなく惹かれた。人ってここまで誰かに心を砕けるものなんだって初めて知った。池田と付き合ってるのかと誤解した時は、裏切られたような気がして腹が立ったけど、本当はずっと好きだったんだ。だから、自分ばかり村田さんのことが好きみたいで馬鹿馬鹿しくなって、酷いことしたけど、本当に心の底にはいつも君がいたんだ。だって今の僕は君のおかげで存在しているから。潔癖症が治ったのも、村田さんのおかげだ。


こんなに村田さんのことを好きな僕が、村田さんの側にいられないのはおかしなことだよ。僕は村田さんの側に居なくちゃいけないんだ。」


彼女に出会う前より、彼女に出会ってからの世界は色鮮やかだった。彼女が今の僕を作り上げたんだ。そして、例え彼女がいなくなったとしても、彼女と過ごした時間は変わらない。僕の中で、永劫に光り続ける。なかったことにはならない。彼女が生きてても死んでても、僕の思いは決して変わらないし、色褪せない。


「三浦くん。私も、三浦くんのこと、世界で一番好きだよ。この思いのままいなくなれるなんて、幸せなんだと思う。短い人生の中で、こんなに大切に思える人に出会えるなんて奇跡だよね。だけど、本当はね、もっと生きたかった。三浦くんと一緒に、生きたかった。もっともっと、この幸せを味わいたかった。三浦くんの側で。」


彼女が泣き崩れる。僕は彼女の痩せ細った身体を抱きしめた。骨と皮しかないその体。


気がつけば、僕も泣いていた。


「、でも、体の方が心についてきてくれないの。心はまだ生きたいのに、体の方はもうダメなの。どんなに生きたいって願っても、出来ない。なんで私は‥病気になったんだろう。だって、世の中には犯罪者とかいるでしょ?私は悪いことしてないのに、なんで犯罪者が生き延びて、私が病気にかからないといけないの?なんで、なんで、私なの‥。」


いつも気丈に振る舞っている彼女が、初めて見せた姿だった。触れれば壊れそうなほど、危うくて脆い。


彼女のどこにあの強さが潜んでいるのか、相変わらず不思議だった。


彼女は驚くほど人が良かった。

小さい子の面倒目が良く、同級生とも上手くやれていて、お淑やかな女子だった。勿論、先生からの覚えもめでたく、控えめながらも、クラスでは目立つ存在だった。


僕を過去の亡霊から救ってくれた。


だけど本当は悩み嫉妬して、世の中の不平等さに不満を抱く。それを上手に隠せるのが上手いだけなんだ。きっと彼女は、今まで沢山辛いことがあったんだろう。彼女を大人びいた雰囲気にするほど、悲痛な経験をしたのだろう。彼女の弱った体からは、今までの苦労と辛い経験が滲んでいるように見えた。僕はその経験や思いごと受け入れたかった。


大切な人だ。彼女以上に愛せる人はもう現れないだろう。


だからこそ、この一瞬一瞬を大切にしたい。宝物のように、後生大事に取っておくために。





黙々と煙突から煙が吐き出される。その光景を、呆然と眺めていた。その煙が彼女の一部だと思うと、一瞬たりとも目を離せなかった。


僕の祈りも虚しく、彼女はあっけなくこの世から姿を消した。


「いつまでそうしているつもりだ。」


低い声が響き、漸く我へと返る。いつの間にか煙突の煙は止み、血の滲んだような赤い夕焼けが西の空を染めている。小学校の帰り道を思い出させた。


振り返ると池田が佇んでいた。真っ黒なスーツに身を包んだ池田が僕の横に並ぶ。


「そういえばさ、なんで村田さんの居場所を聞きたがったの?」


池田は「なんだ、いまさら」と肩を竦める。


「あの時、村田から貰った猫が危篤状態だったんだ。…だから、村田にも知らせてやらないとって思ってさ。」


「…猫は大丈夫なのか?」


「一命は取り留めたよ。でも、寝たきりになってさ。世話が大変。」


池田はズボンのポケットからタバコを取り出した。「一本どう?」と差し出されたが、丁重に断った。


「…僕が引き取ろうか?」


「もううちの子なんで、手離したりしませーん。大変だけど、うちで世話するよ。…それに、村田もそれを望んでいる。だから、お前に猫を預けなかったんだよ。」


カチカチとライターの火を点け、タバコの先端を燃やす。じゅっと紙が燃える音がした。


僕は遠くの稜線を眺めながら息をつく。


「本当、変なところで潔い良いからさ、困る。…勝手に死を受け入れて、勝手に離れようとして、こっちの気持ちなんてお構いなし。」


「そうだな。」


「自分が死んだら、自分の事を忘れて欲しいって思われているのがさ、痛いほど伝わってきたよ。だから、猫も髪も渡してくれなかったんだよな。…猫は池田に取られるし。」


「ごめんて。」


夕方の冷たい風が吹いた。彼女が溶けた煙は地球の大気に分散して、溶け込んでいることだろう。


「だから、僕のために切ってくれた髪だけは貰う。」


「へーへー。勝手にしてください。別に村田の髪なんてほしくないし。」


「よく言うよ。好きだったでしょ?」


「あ、わかる?」


タバコの煙を吐き出しながら、池田がニヤリと笑う。


「同じ人を好きになったから分かるよ。」


「…そう。でも安心して。俺は、別の好きな人がいるから。お前は、さっさと親族へ会いに行って、頭を下げるなりして、『娘さんの髪をください』とか言ってくれば?」


「そうする。」


「この変態め!」


「変態で結構。」


僕は、歩きだした。彼女が唯一残してくれた、美しい髪を手に入れるために。


潔癖症の僕が誰かに触れたいと思えたのは、彼女の髪が初めてだったんだ。

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君の髪を撫でたい。 幾瀬 詞文 @yuuzcle

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