一章 一節 たのしいたのしい厭離穢土
鈍い音。鈍い衝撃。
目を開けるとそこは真っ暗で、なにか柔らかいものにくるまれていて、寒い。
寸時茫然としていると少しずつ入ってきた景色が脳味噌で処理されていく。
クリーム色の壁。そびえるマットレスと木製の足。左を向けば漫画本の山とななめ掛けのエナメルバッグ。
もぞもぞと体を起こして辺りを見渡す。そこは見慣れた空間で、どうやら自分はベッドから落ちたらしい。
一つ解せないことがある。ただ今頭の横の位置にあるマットレスは本来そこらの漫画のように横たわていないとおかしい。それが塗り壁のように垂直にそびえたっているはずがない。そもそも眠りについた時まで横たわっていたはずだ。だって寝れたんだから。
頭を掻きながら立ち上がる。視点が高くなって、そびえたつマットレスに手をかけて、その向こうに立っている少女を視界に収めた。
「自己紹介からはじめようか」
耳ざわりの悪い声で少女が語り掛ける。
国松は目を合わせたまま二歩じりじりと後退し、手を後方に延ばして壁をぺたぺたと確認し、スイッチを探り当てる。
光が一瞬で飽和して何も見えなくなる。
五秒六秒と経過して、そこにある人影がようやく鮮明に飛び込んでくる。
腰までは件の塗り壁で隠れており、その上に群青のパーカーを、ファスナーを几帳面に一番上まで締めて着込んでいる。肩、腰、肘のラインがスポーツ飲料のボトルのようにしなやかで、健康的な曲線が身軽さを想起させる。毛髪は首元でばらっと切りそろえられて、すっぽりと頭ごとフードに覆われている。
「急につけたらまぶしいよ」
そう言っておずおずと閉じていた瞼を開いていくも、まんまるに押し開かれることはなく、上瞼が真一文字でのしっと目にのしかかって、じとっと不快そうなありさまであった。鼻筋が綺麗に通り、小ぶりな口の端は軽薄そうに持ち上げられている。
「お前……」
堰を切って溢れる記憶が、ただでさえ混濁した意識を揺り動かす。
「思い出した?」
「何が何だかさっぱりわからない。あれは夢だったのかというのもあるが、それ以上に、この記憶をどう解釈しようとしてもお前がここにいるのが全く分からない」
心地よさそうに不遜な笑み浮かべる少女。
「君はトリップしてきたんだよ」
そう言うと、マットレスを蹴倒してベッドから降り、国松に歩み寄る。警戒する国松の意識をすり抜けたかのように腕を伸ばしてあっさりと左胸に指を突き立てる。
「これを使ってね」
国松の寝巻代わりのジャージの左胸、今しがた指でさされたところに、カードサイズの無機質なキッチンタイマーがくっついていた。生地ごと引っ張り上げて覗き込むと、どうやら動いている。ボタンらしきものはない。刻々と崩れる数字は現在三十分と十五秒。
「なんだこれは」
「ながいながい夢という話を知っているかな」
「聞いたことにこたえろ」
「さてどちらが果たして夢なのか。夢とは何か、についてだが」
国松は室内の観察を再開する。配置や漫画本の内容をうろおぼえながら確認していく。
「君自身が考えてくれ。幸いにして時間はたくさんあるし、なくなればそれはそれで考えなくてよくなる」
「聞いたことに答えないなら黙っていろ」
いつの間にか学習机に収まった回転椅子を引き出して座っていた少女。
「さて、大分脱線してしまったが、先ほども言ったように自己紹介から始めよう。さあ、どうぞ」
国松は大きく振りかぶって、手中の週刊少年誌を力いっぱい投げつける。
少女は顔面でそれを受け止めながら、意に介す様子もない。
「国松君というのか。十七歳。キミキミと言い続けるのもなんだしこれからは君を国松くんと呼ぼう」
「お前はなんで俺の部屋にいるのか先に答えろ」
「私の名は『モマ ナカセ』。水草の藻に、中間の間、中、『瀬を早み』で藻間中瀬という」
「なんで時計が動いてねーんだ。おかしいことだらけだ」
「さて、我々の目的だが、簡単に言えば『対象人物の打倒』となる。打倒とは死に至るダメージを与えることだ」
回転椅子の前に歩み寄って、丁度いい高さにあるその腹部に前蹴りを突き立てる。イスごと十数センチ後退した藻間は、しかし、やはり、何事もないかのように言葉を続ける。
「逆に君が打倒された場合、死ぬ。さて、ではそれぞれが目的のためにどのような手段を行使するのかについてだが」
「おいなんだそれ」
「相応の手札が天からギフトされている。全て説明したら日が昇るほどにな。我々はとても恵まれている」
「頭おかしいのか。俺がおかしくなったのか?」
「さて、私の手の上を注目してほしい」
藻間は掌を上に向け、両手を胸の高さに掲げる。
「日本刀というものを知っているだろう。大体一メートルないくらいの、うっすら弧を描いている。鋭利な切れ味と耐久性を兼ね備えた逸品だ。ずっしりと鋼の重みもあろうな」
掘り起こされるようにして国松の脳裏にもそのシルエットが浮かび上がる。
『刀』
藻間は変わらぬ平坦な声でそう発した。なにごともおきない。音も光も風もない。ただ、その両手の上に、鞘に収まった日本刀が存在している。間断なき時間の中で、既にそこに存在していたものが巧妙に隠蔽されていたかの如く、それが当然というたたずまいでそこに在る。
「やっぱ夢みたいだなこれは」
「このように、強く意識して言葉にすればどこからともなく刀がでてくる。なかなか便利だろう。やってみろ」
「ホントにできんのかね」
「与えられた手札だと言ったろう。当然、できる」
国松は鏡写しのように先ほどの藻間と同じ構えをとる。
『刀、出ろ!』
空気が弾けるように風がたつ。反射的に閉ざした瞼のままでわかる手元の重量感に、頭の隅で訝しみながら目を見開く。
「うわ。すげ」
藻間が立ち上がり、無作法に鞘から刀身を引き抜く。白々しい蛍光灯の光に煽られて安っぽく煌めく。
「さて、これから君を切りつける。君はどうする」
手元を少し持ち上げて答える国松。
「これで防ぐ」
鞘を足元にポイと投げ捨てながら首を二度三度左右に曲げる藻間。
「しまった。順番を工夫すればよかったかな。まあいい。刀はないと思ってくれ。それか、到底それでは受け止められないような重量感たっぷりの鈍器に脅かされていると仮定してほしい」
「またなんか出せるのか」
「ここに」
空いてる左手でパントマイムのように目前の空間を撫でつけながら話し続ける藻間。
「半透明の壁だ。透明度の低いガラス板のような外見でいて鋼鉄の強度。大きさは比較的自由だが、ここでは畳一畳くらいとしよう」
半歩下がりながら、呟く。
『シールド』
視界の真ん中、微妙なスモークがかかったように景色が変化する。
国松は手中の刀を鞘から引き抜き、右の手首を小さく揺らして藻間の目を見やる。
藻間が小さく頷く。
刀が大きく振り上げられ、前方に急加速。しかし振り下ろされることはなく、ぎらっとした不協和音をあげて空中に停止する。半透明の壁に進路を阻まれていた。
「これも出来るってことか」
「その通り」
藻間が腕を伸ばして半透明の壁に人差し指の腹を押し付ける。そのままくるり円を描いてなぞると音もなく壁が空間に溶け落ちる。
「とりあえずこの二つが最低限だ。都合もあるからそろそろ行こう」
いつの間にか手ぶらになっていたようで身軽に国松の前を横切って部屋の扉を開ける。
勝手知ったる様子で進む背中を見ながら階段を下り、靴を履いて外に出る。
「対象人物ってのはどこにいるんだよ」
「さあ」
「おいおい。目印はあるのかよ」
「タイマーくらいだね」
電灯に照らされた柔らかそうで汚い曇り空の下を真っすぐに歩く。
「上着着られたらどうやって判断するんだよ。深夜とはいえ無理があるだろ」
「大丈夫。人間がいればそれが対象だから」
「はぁ? じゃあ今から戻って隣の部屋の親父をどついてもクリアってことか?」
「いないよ」
「は?」
「君の父はこの世界において既に存在していない。ついでに言えば母も姉も弟も」
「姉はいたことないけどな」
規則的に揺れる後頭部がすこし速くなったように感じられる。
「どうせ夢だから意味ねえと思うが、一応聞くとどうして消えたんだ」
「回転して死んだ。誰も彼も次々と。およそほとんどの人がそうして消えていった」
「随分凄惨な世界だこと」
「さて」
住宅街沿いの通りから出て、開けた大通りの真ん中にたどり着く。どんな時間でも往来が途切れないはずの車道にも影一つない。
「目印はないが対象の情報を伝えよう」
しゃがみ込むと、ポケットから取り出したチョークでアスファルトに何やら書きながら説明を始める。
「対象人物は二人組。これをどちらも打倒しなければならない。相手もそれぞれ何らかのギフトを授かっており、それらを駆使してくる。ちなみに何らかの負傷をしても致命傷にいたらなければ向こうの世界に帰還する際にリセットされる。出血多量で死に至ることが確実な傷でも、先に相手を二人打倒できれば問題ないわけだ」
「生き残れば、何度も参加することになるわけか」
「その通り。私はそういうクチだ」
アスファルトの上を走っていたチョークが止まり、藻間の表情が変わる。
「私の右手側、君からしたら左にシールドを出してごらん。黒板くらいの大きさで私も包んでくれると手間が省ける」
国松は首を小さくひねって関節を鳴らして。薄く目を閉じ、開く。
『シールド、出ろ!』
一瞬の仄かな発光とともに不透明な壁が彼らの横に、道路の通りを丁度横切る方向で発生する。
数秒後。怪訝そうな表情を浮かべ口を開こうとした国松を、藻間が立てた人差し指を口元にやるジェスチャーで制する。
瞬間、轟音と共に火柱が立ち上る。砕けた黒き地が礫となって舞う。濃い煙に包まれる。
しかしそれらは壁の向こう側で完結していた。焦げたような嫌な臭いが二人を包むころには壁の向こうの景色が開ける。
「直撃しなくてよかった。うん。ついてるね」
二人と、それを守る不透明な壁の手前にその爆発物は着弾した。余波は壁が防いだものの、ビリビリと振動するアスファルトがその威力を何よりも雄弁に物語っていた。
「気付いてたなら余裕ぶっこまないで動けばよかっただろ」
「何を言う。一メートルくらいの分厚さで展開しない君が不用心なんだよ」
立ち上がった二人の視界の先、車道沿いの背の高い生垣から、二人の男が悠々と歩み出る。
一人は迷彩服を身にまとい、亀の甲羅のように頑丈そうなヘルメットを装着した、中肉中背の男。
一人は国松同様、ジャージに全身を包んだアスリート体系の大男。
「二人か。面倒だ」
言葉なく藻間の顔を覗き込む。
「分業しよう。私は迷彩」
「オーケー」
藻間は手中の塊を口内に放り込み、クッキーのようにガシガシかみ砕いて不敵に笑った。
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