「社内フリマ?」

 僕がそう問いかけると、下松と萩はそろってうなずいた。僕はコンビニの惣菜パンを口に詰め込む。平日の昼下がり、研究所に併設されている公園は人で賑わっている。やや気温の低い気持ちのいい天気だったので、僕たちのように昼食を外でとっている社員も多い。

「そう、フリーマーケット。うちの社員が自宅でいらなくなったものを持ち寄って、良心価格で売るらしい。毎年開かれてて、けっこうな数の商品が出回るんだと」

 萩が愛妻弁当をかき込む。彼はこの三人のなかで唯一の妻帯者だ。

 白米を飲み下した彼は、手許にあった一枚の紙を渡してきた。話題にしている社内フリマのチラシのようだった。

「なに買うの」

 そう訊くと、萩は眼鏡の位置を整えながら言う。

「洋服かな。服装にあんま興味ねえから、なるべく安いもんにしろって」

「なるほど。おまえの奥さん怖そうだもんな」

 下松が茶々を入れる。そうなのか、萩の奥さんには逢ったことがないので知らなかった。ただひとつ、下松も逢ったことないのにどうして知ったかぶりするのか、というのが不思議な点である。萩が下松をにらみつけた。

「で、下松はなにが目当てなんだよ」

「パンツかな」

「え、マジ?」

「おまえフリマでパンツ買うの?」

 萩とふたりで、下松の発言に引く。中古と未使用品の区別はあれど、フリマは他人の買ったものが売られている場所だ。

「なんだよ。俺がフリマでパンツ買っちゃ悪いかよ。安いんだからいいだろ」

「べつに悪くはないけど……よく他人の買ったパンツなんて穿けるよな」

「布であることには変わりねえだろ?」

「お、おう……」

 下松の奇妙な性癖は置いておいて、僕は渡されたチラシに目を落とす。別段ほしいものがあるわけではないが、冷やかしに行くのもありかもしれない。

 それに、なにかいいものがあればいいな、という思いもあった。

 きらきらと青白く輝くブレスレットが脳裡に浮かぶ。潤沢な給与や貯金があるわけじゃないし、それに見合うような大したものは用意できないかもしれないけれど、彼女の想いには応えたかったのだ。

「きょうの業務時間外に一〇階会議室だ。周防も行くだろ?」

 ふたりにそう訊かれて、僕は鷹揚にうなずいた。ちょうど所内に響くチャイムが聞こえ、昼休憩の時間が終わったときだった。


   ◯


 僕自身、この社内フリーマーケットに来るのははじめてだったが、研究所での歴史はそう浅くはないらしく、室の所員のうちけっこうな割合の人たちがこの催しものの存在を知っていた。萩や下松といっしょに行くと先輩たちに言うと、「ほんとうにいいものは買わないでおけよ、俺らがあとで買いに行くから」と送り出される始末。「掘り出しものは発見しだいすみやかに報告するように」という厳命を受けて、僕たちはフリマの会場に向かった。

 催しものは、意外にも盛況だった。

 広い会議室にたくさんの長机が並べられ、色とりどりのクロスがかけられて、その上にところ狭しと商品が並べられている。商品の種類はさまざまで、萩や下松たちが狙っている洋服はもちろん、本やまんがや雑誌、家庭で使わなくなった家電製品や子どものおもちゃ、価値のよくわからないアンティーク用品など、多種多様な商品が取引されていた。

 来客数も多く、研究所の大半の人たちが代わるがわる訪れているようだ。長机に挟まれた会議室の通路は人であふれかえり、前に進むのもやっとのことだった。

「じゃあ、俺はあっちのほう行くから。各自終わったら解散で」

「熱気に飲まれるんじゃねえぞ、周防!」

 眼鏡の位置を整えながら何喰わぬ顔で消えていった萩と、「うおおおお」と叫びながら人ごみに突っ込んで飲まれた下松に置いていかれる形になった僕は、目の前の人熱(ひといきれ)にたじろいでいた。この研究所内でこんな催しものをやっていたのか……と、三年たってはじめて知る事実に震えながら、気を取り直して前を見据える。こんなところで尻込みをしていてはいけない。レイネの想いになにかしらの形で応えてあげたい。このフリマという場所でいいものが見つかるかはわからないけれど、はじめから諦めていては彼女のよろこぶ顔なんて見られない。

「……よし」

 意を決して、僕は足を踏み出した。そのとたんに人ごみの波に飲まれて転びそうになったが、なんとか踏ん張って持ちこたえる。僕はその荒波のなかを、一心不乱に突き進む。気分はさながら、嵐に猛り狂う大海原へと一隻の小舟で漕ぎ出す、若き海洋冒険家のようだった。

「待ってろレイネ、伝説のお宝は、ぜったいに僕が見つけてやる!」

 どこか遠くで萩の快哉と下松の悲鳴が聞こえたような気がした。



 結果は惨敗だった。

 ふだん大した運動もしていない研究詰めの身体は、フリマに集まった歴戦の猛者たち(?)に敵うはずもなく、なすすべもなく退散せざるをえなかった。商品なんてじっくり見ているひまもない。通路に行き交う人の波にもまれ、ぐるぐると会場内を漂いながら、若き冒険家の舟はぼろぼろになって戦場をあとにした。

「ていうか、たかが社内フリマであんなに盛り上がるのかよ……」

 いちど人の手に渡っているものとは言えど、その商品はすべてまだ使えるものだ。それが市場価格の何分の一かで買えるのだ。下松のパンツじゃないが、あまりこだわらないものであれば安く買えるのならありがたい。そういう人たちが研究所内からたくさん集まっているんだろう、会場内に山ほど置かれていたフリマの商品は、あっという間になくなっていった。

 しかし僕も、ただ商品がなくなっていくのを指をくわえてぼおっと見ていたわけではない。なけなしの力を振り絞って、たったひとつ、戦利品があった。

 それは、ネックレスだった。

 彼女はブレスレットをくれたから、僕からあげるものも、なにか身につけられるようなアクセサリーがいいなあ、と考えていた。ぐるぐると漂いながら血眼になって会場内をにらみまわす僕の目に入ったのは、飛ぶように売れていく商品のなかでかろうじて残っていた、このネックレスだった。

 白銀色のそのネックレスは、繊細なチェーンに貝殻をかたどったちいさなチャームがついている。人魚に貝殻なんてベタすぎて笑われるかもしれないが、レイネには似合うと確信していた。

 スマホにはふたりからのメッセージが入っていた。「終わったから先に帰ってるぞ」「周防、生きて帰れんのかねえ」「知らん」と言いたい放題だが、実際に満身創痍ほうほうの体で抜け出してきたことは否めないので、文句を言うのはやめておくことにする。「俺も終わった。いまから戻る」と返信。そのあといくつかメッセージのやりとりをしながらエレベーターを待つ。

 ふたりは無事お目当てのものを手にすることができたようだ。下松の送ってきた中古パンツの画像を見ながら、萩とわあわあからかっていると、エレベーターが到着する。扉が開いてなかに入る。すでに先客がいたようで、その人影にろくに目を向けないまま、僕はなんとなく会釈をして身体を翻し、自分のデスクに戻る階のボタンを押した。

「周防くん」

 凛とした声がエレベーターのなかに響く。聞いたことのある声だ。振り返ると、突き刺すような切れ長の眼が僕に冷ややかに向けられていた。なにかを見通すような、なにかを探るような、するどい視線。

「……遊佐さん」

 彼女はふと相好をくずし、視線を僕の顔から外した。それは僕の手許に向けられる。彼女がかすかに目を細めたように見えた。ネックレスを入れたビニール袋が彼女の目に止まったんだろうか、ただ少し視線の位置が高いような気もする。エレベーターはしずかに下の階へと高度を下げていく。

 ふと遊佐はエレベーターの階数パネルへと歩み寄り、階数ボタンを操作した。すると、僕がさっき押した階のボタンのランプが消えている。

「あっ」

 僕は思わず驚きの声をあげた。メーカーにより違いはあれど、エレベーターの階数パネルは、とある操作をすることで点灯させた階数ボタンをキャンセルできるのだ。僕が降りるはずだった階数を過ぎ、僕と遊佐のふたりはさらに高度を下げていった。

「ちょっと、遊佐さん」

 抗議をしようとすると、彼女は右手の指でなにかを挟み込む形をとり、それを口許に寄せた。煙草の合図だ。その動作をしているときもなお、彼女の瞳はするどく僕を見通している。

「……わかりました。一本だけですよ?」

「ありがとう。だいじょうぶ、今日はちゃんとライターを持っているよ」

 不敵に微笑む遊佐を見て、僕はまた視線を逸らしてしまう。

 なにかとてもいやな予感がしていた。このままついていってはいけない気もしたし、遊佐の誘いを断るのもよくない気がした。僕にはもう、どうすることもできない。高度を下げていくエレベーターがまるで僕を地獄まで引きずり込んでいるような思いが浮かんで、僕は必死にその予感を振り払った。さすがに大げさ、考えすぎだろう。遊佐は本社から来たただの査察官だ。過去に一度だけ、ライターの火を貸し借りしただけの仲だ。

 エレベーターはやがて速度を落とし、遊佐が押していた階数へと到達する。喫煙所のある階だ。

 ドアの開いたエレベーターを降りて、僕たちは喫煙所へと向かった。

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