サザンクロスのせい


 ~ 十二月七日(金) 黄玉 ~


   サザンクロスの花言葉 願いを叶えて



 テストは、できる人にはできる人なりのプレッシャーやドキドキがあると。

 渡さんならともかく、六本木君が言うのですが。


 そんな持てる者の義務。

 持てない者にとっては贅沢でしかありません。


 とは言えテストが終われば。

 ようやく好きなことが出来るという気持ちは同じようで。


「よっし! ようやく自分のやりたい勉強に戻れるな!」


 …………同じじゃありませんでした。



 教室を、上からぎゅうっと押さえ付けていた風船が。

 口からぷしゅうと空気を抜くと。


 何かを始める前にまず。

 誰もが終わったあと口に出します。


 帰り支度の手際も早く。

 普段と違って、挨拶をしない人までまた来週。


 俺も机の中に教科書をしまい込み。

 この土日は、君たちと会わないことに決めました。



 俺が待ちに待っていたものと言えば。

 手に入れたはいいけど触ってなかった本。

 お花の歴史の本を読みたいのです。


 ベッドに横になりながら。

 床に置いたお盆からお茶を飲みながら。

 眠くなったら寝る。


 夢のような週末です。


 そんな俺の肩をつつくのは。

 現在の予想得点では、ほぼとんとんの藍川あいかわ穂咲ほさき


 軽い色に染めたゆるふわロング髪をおさげにして。

 耳の横へ、ピンクのサザンクロスをつけています。


 今週は頓狂な髪形が多かったので。

 実に可愛らしく思うのですが。


「おねがいを、一つ叶えて欲しいの」


 静かなつぶやきで俺の耳をすっと撫でると。

 そのまま歩き出すのです。


 手を後ろに組んで。

 穂咲にしては珍しく、指をぐっぱと遊ばせて。


 揺れる三つ編みが階段を上ると。

 薄暗い行き止まりから、重い扉を開いて。

 広い広い鈍色の空へと転がり出ました。


 そしていつもとは違う、山を臨む側へ足を運ぶと。

 フェンスにちょっぴりだけ指をかけて。


 俺を、ちらりと見て。

 慌てて山の方を向いて。


 口元に、不器用な笑みを作るのです。



 …………最後の、なに?



 『おねがいを、一つ叶えて欲しいの』



 いまさら思えば、随分と意味深な言葉です。


 いつもは、さも当たり前と言わんばかりに俺を使うくせに。

 なんですか、それは。

 ドキドキしちゃうじゃないですか。


 とは言え、さすがにこのパターンには慣れました。

 どうせひどいオチなのですよね?


 クレープをご馳走しろとか。

 お金を貸してとか。

 遊園地へ連れて行けとか。


 どうせそんなろくでもないお願い…………?


「遊園地?」

「ん? 何か言ったの?」

「いいえ、なにも」



 遊園地。

 デート。

 …………デート、したいですね。



 変な道久君なのと笑う穂咲は。

 金網をポンポン叩いてクリスマスの鈴にすると。


 えへへとタレ目を細くさせて。

 俺を見上げたままリズムを奏でます。



 白い息は、赤くなった頬を染めるファンデーション。

 かじかんだ手を、セーターの袖からちょこっとだけ出して。


 しゃんしゃんしゃん。

 しゃんしゃんしゃん。


 一足お先のサンタさんが。

 俺に笑顔をプレゼント。



 ……でも、俺は分かっているのです。

 絶対に騙されません。



 そんな赤鼻のサンタさん。

 驚くほどの視力で何かを見つけると。

 演奏をやめて、フェンスに顔を押し付けます。


 急にどうしたの?

 あと、十センチくらい頑張ったって意味無いから、フェンスから離れなさいよ。


 穂咲が見つめる先へ向けて目を細くさせると。

 そこはどうやら、にゃんこ大橋。


 男女がぽつんと立っているように見えますが……。


「晴花さんなの」

「え!? ……いや、言われてもよく分からないのです」


 でも、穂咲が言うのならそうなのでしょう。

 そうなると、遠くの知り合いまで声が届くか試したい衝動が沸き上がったのですけれど。


「……なんか、もめてるの?」


 穂咲の言葉に思いとどまって。

 俺もフェンスに顔をくっ付けてさらに目を細くさせました。


 ――男性が、トレンチコートの腕で晴花さんを掴みます。

 それを振りほどいた晴花さんが、男性に何かを叫んでいます。


 そして、強引に落ち着かせようとしたのでしょうか。

 男性は晴花さんの両腕を掴んで引き寄せると……。




 チューしたっ!!!????




 ……はっきりと見えたわけではありませんが。

 その後、晴花さんは男性の胸をついて。

 家の方へ走って行ってしまいましたので。


 間違いない気がするのです。


 さすがは、元社会人。

 大人なものを見てしまった俺と穂咲は。


 フェンスのひし形が赤くついた顔を、真ん丸にした目で見合わせて。

 そして、お互いに。


 唇へ視線を落とします。



 世界は静かなはずなのに。

 俺の耳には、きーんという耳鳴りと鼓動が、うるさいほどに響きます。


 ちゅう。

 キス。

 接吻。

 ガーゼ。


 ……最後のだけ、ちょっと自信は無いのですが。

 あんなのが、テレビの中じゃなくて身近にあることを知って。

 俺は、言葉すら発せないまま。

 身動ぎすらできぬまま。


 呼吸すら忘れて、ただ立ち尽くしていました。


 学校を包む冬枯れは。

 自然の全てが筆をふるった壮大なアート。

 そんな真ん中で、俺達の視野は。

 たったの数センチ四方。


 激しい鼓動が止まらない。

 あとちょっと、なにかが起こったら。

 破裂しちゃうかもしれません。


 でも、そのちょっとがあったせいで。

 ほんとに破裂しちゃうかという思いをしたのです。


「あのね、道久君。……あたしのおねがい、今のシーンに関係あるの」


 視線を泳がせて。

 時々目を見て、また逃げて。


 今、俺は何をお願いされても。

 それを叶えてあげることはできないでしょう。


 だって、指の一本すら動かせない体。

 九九すら間違えそうな頭。


 きっと何もしてあげることが出来ません。



 あるいは逆に、君のおねがいが。

 俺が動かずに叶うものだったならば。


 それを防ぐ手立てが。

 恋愛初心者の俺にあるはずも無いのです。



 ――そんな時に、ほんと勘弁して下さい。

 君のポッケから響く振動。


 穂咲も、びっくりし過ぎて声すら上げられず。

 いつもはスムースに操作する携帯が、手の中で暴れます。


 でも、ようやくメッセージを目にすると。

 震える息をながくながく吐き出して。


「あ、おねがい、叶ったの」


 え?


 ……変なことを言い出しました。


「おね、おねがいって、なにでしょ?」

「さっきのシーンに関係あるの」

「そでが、かか、かなったとですの?」


 ろれつすら回らない俺に、穂咲はにっこり微笑むと。


「道久君、明日っからバイト入るの」


 ……途端に、いつもの調子に戻ってしまいました。


 ちきしょう。

 やっぱり騙されたのですっ!


「それ、前にもやりやがりましたよね!? 絶対嫌なのです!」

「あたし、テスト終わったらバイトしなきゃって思ってたんだけど、どうしてもやりたいことがあって……、ダメ?」


 小首をちょこんと傾げたお願いに。

 怒りたいところですが。


 まだドキドキとする胸のままでは。

 上手に怒る自信がないので。

 渋々了承しておきます。


「仕方ないです。いいですよ」

「わけ、聞かないの?」

「聞きません」

「良かったの。ドラマを見ながらゴロゴロしてたいって言ったら怒られると思ってたから」


 …………怒りたい。

 でも、失敗してひどいことを言ってしまうかもしれない。


 大人になったら。

 こういう時、上手に怒ることができるようになるのでしょうか。


 そんなことを考えていた俺の耳に。

 いつも父ちゃんが口にする言葉がよみがえります。


 『あきらめろ』



 …………なるほど。

 大人にも無理なのですね。


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