冥府の入り口

 計器モニタに映る数値はめまぐるしく変化していた。

 AIが安全数値化どうか緑・黄色・赤の三色で表示してくれるので、目視で監視できるが、それがないと肉眼で判断することは到底出来ない。


「さあ、実体化よ」シューカはそう言うとメインモニタを通常画像にするべくタッチパネルのアイコンに触れようとしていた。

「さあ、行くよ」

「ニチェヴォー!」

「ちょっ、ちょっと待って!」知子が慌ててシューカに手を伸ばす。


 ホーキング空間に入った時の実画像を思い出し、知子は恐怖に襲われた。

 視神経から伝わる狂乱の映像。自然界ではあり得ない光と色の爆発。

 そして強烈な頭痛と吐き気、脳天から脊髄の末端まで響く電撃。

 あの苦痛はもう沢山だった。


 しかし、一瞬遅く、シューカはアイコンにタッチしていた。


 途端にモニターに実画像が映しだされた。


 ビュー〜〜ッ、という異音が聞こえてきたようだった。


 画面の中央から放射状に尾を引きながら広がる無数の星々。そして、それが虹色にボオっと滲み光る。

 まさに息を呑むような光景だった。

 鮮やかな色、くすんだ光、様々な色の光芒が遥か彼方のぼんぼりのように輝き、膨らみ、やがて萎んでいった。


 モニターの真正面には一際大きな星が輝いていた。


 冥王星とその衛星カロンだ。


чудесноチュデースナ(素晴らしい)!」ネビュラがバイコヌールで覚えたロシア語で呻いた。


 地球から見る月よりはずっと小さいが、薄っすらと茶色い帯が見えるほど、冥王星は近かった。


「急速減速」知子はシューカの許可を待つまでもなくスロットルを絞った。

「遮蔽フィールド、レベル五に上昇」

 ネビュラの声とともに操舵室がガクンと揺れた。


「カロン軌道上まで十一と四分の一標準時」シューカが焦ったような声を出した。「地球観測より冥王星に近いわ」


「計算内よ。AIの計算では緑に近いイエローよ」ネビュラが冷静に報告した。


 ほんの僅かではあるが、注意すると天体が少しずつ大きくなっているのが判った。つまりは、まだ高速で接近している証拠だ。


 二つの天体はかなり近い距離で回っていた。


「光学カメラのズームを最大にして」と、シューカ。

「ラジャー、キャプテン」知子はメインカメラの望遠を最大にした。すると、モニター画面一杯に冥王星とカロンの姿が映った。


 これほど太陽から離れているのに、まるで明星のようにギラギラと眩しく輝いていた。アルベドが高いせいだ。

 アルベドの高さは既に解っていた事だが、信じられないほど眩しい。


 二つの天体が月より眩しいといえるほど煌々と輝いていた。


「減速率六十パーセント。探査プロープ発射」シューカが冷静な声で命じた。

「了解」知子は短くそれだけ言うと、無言で一ダースの探査プロープを発射した。

「再減速開始」シューカは呟くように言った。


 ブリッジ内はしんと静まり返った。


 緊張のせいもあるが、各種レーダー観測でもストレルカⅠアディーンの姿も救命信号も一切探知できなかったからだ。


 カロンは惑星の地軸を中心に回るのでは無く、冥王星の地軸よりカロンよりの空間を中心に回っていた。丁度、ハンマー投げの選手がハンマーを投げるように絡み合って回っていた。

 冥王星とカロンは同期回転しているため、いつも同じ面を見せ合って回転してるので、まさに絡み合って回っていた。


 ダンスを踊るカップルのように。



 

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「お借りしました♥」香織は儀一郎と手を繋いで戻ってくると、まるで借りていた文房具を返すように、その手を知子の方に差し出した。


 儀一郎が照れときまりの悪さを隠すようによろめいて知子の隣りに座った。

 周りからは割れんばかりの拍手が響いていた。


「二人共、ダンス習ってたの?」

「まさか」香織は上気した顔をシニカルに歪ませた。

 儀一郎は無言で首を横に振り、顔を真赤にさせた。


「そんな訳無いでしょう!」

 まだ鳴り止まぬ拍手喝采。二人のタンゴに見とれていた知子に嫉妬心猜疑心が顔を覗かせていた。


「本当だよ。香織ちゃんがリードしてくれたんだ」

「私も只のノリよ。映画やビデオで見たのを真似しただけ」

「そうは見えなかったけど……」


 知子は自分だったら儀一郎とあんなに華麗に踊れただろうかと思った。儀一郎とだったら息をぴったり合わせて踊れたような気もしたし、そんなことは絶対できないとも思えた。


「問題はね」香織が手拭いで額の汗を拭いながら言った。「上手い、下手じゃないの。舞台アリーナに立てるかどうかなのよ」



 知子にははじめその言葉の意味が判らなかった。


 その意味が分かったのはケープ・カナベラルの訓練所からバイコヌールのツープ訓練タンターに派遣が決まった時だった。

 軌道飛行と数回の月飛行を経験した六十名の訓練生がツープに推薦派遣されることになり、その送迎会が行われた。


 勿論、知子も香織も儀一郎も一緒だった。


 ケープ・カナベラルの訓練生なら誰もが尊敬するハインライン空軍大佐がスピーチした時に彼が言った言葉だ。


「『批判はどうでもよい。つまり人がどれだけ強くつまづいたか、

 行動力のある辣腕の人にやらせたらどこがもっとうまくできたか、

 粗探しはどうでもよい。

 名誉はすべて、実際にアリーナに立つ者にある』


 これはセオドア・ルーズベルトの言葉だ。勝利はアリーナに立ったものにある。君達には勇気と誇りを持ってアリーナに立って欲しい」



 量子船の乗船クルーに選抜されるのはまさにアリーナに立つということだ。


 そして香織と儀一郎はそれをやってのけた。


 アディーンが消息不明になり誰もが尻込みする中、知子がストレルカⅡドヴァのクルーに立候補したのもその言葉のお陰だった。




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 ゴツゴツした岩場を何度も乗り越えながら知子は前進した。

 靴底のしたで僅かにザクザクする感覚は、冥王星が近日点に達した際に気化したメタンや窒素、一酸化炭素が再び固形化して積もったものだろう。


 ハァ、ハァ、ハァ。息が切れる。全身の筋肉も関節も悲鳴をあげていた。


 岩より硬い氷の原野を歩くのは想像以上にキツイものだった。


 それにしても寒い。


 完全断熱と謳われていたEVAスーツの設定温度を十度も上げているのに、僅かな隙間から冷気がスーツ内に入り込んで来て、ガタガタと震えが止まらない。


 左手のコントロールパッドで外気温を計るとマイナス二百五十四度と出た。

「もうすぐ、絶対零度じゃない」知子は左腕に毒づいた。


 坂を登り切ると、前方にまた黒い枯れ木の森が見えてきた。

 炭素繊維が樹木のように結晶化したものだ。大きい物は低木くらいの大きさがあり、恐ろしいほど硬い。


 また、地面を青白い稲妻があちらこちらに走っていた。

 カーボンの木からも電光が放たれていた。


 静電気かプラズマか原因は分からないが、超電導を起こしているらしい。

 電流が走っているのは、足元のガラスコーティングした鉄板のような大地の遥か下を走っているので、全く危険はないが、時々表層近くまで上がった来るので、ドキリとしてしまう。


 また寒くなってきた。アンダーウェアが汗を急速吸収しているせいでスーツ内の温度低下が早いせいだ。

 スーツ内温度は十七度を切っていた。


 設定をさらに五度上げた。



(はっ!)

 また、前方のカーボン結晶の樹の後ろに何かの影が隠れた。


 幻覚だ。

(身体の前に精神の方が先に死にそうね)


 地面の超電導は段々激しくなってきた。今や蜘蛛の巣のように縦横無尽に走っていた。


 ピカッ、と光るとまたあの影が視界の隅に踊り、すっと隠れる。

 典型的な幻覚だ。


 今ではその影が生き物のように見えてきた。


(こんな環境で生命体が存在できる可能性は全く無い)

 そう考えることが出来た事に、知子はまだ理性だけは失ってはいないと少しだけ安心した。


 疲労はかなり激しくなっていたが、非常用の覚醒剤の使用はまだ使わないようにしようと思った。


 これ以上幻覚が酷くなったら堪らない。



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