実体化
宇宙飛行士になりたがっている人々の多くは目立ちたがりの人間が多い。人類初の栄誉を得たいと熱望して宇宙飛行士を目指している人は数多い。
しかし、知子は違った。寧ろ、ひっそりしていたかった。
知子が望んでいたのは、純粋に星界に近づきたかった、それだけだ。
アームストロング船長のような「人類初」の栄誉を期待したことは一度もなかった。只、バックアップスタッフではなく、クルーとして大気圏を出てみたいと思った。
それにはいろいろ苦労が多かった。成績はもとより、宇宙開発は男性社会で女性には不利な点が多かった。
女性や外国人をロケットにのせるのはパフォーマンス的な意味合いが多く、決して「同等」等と誰かが考えているわけではない。
だから、女は人一倍努力しなければならない。人一倍努力したって、宇宙にはいけない女性は山ほどいる。
知子も香織や儀一郎のサポートや運がなかったら、量子船のコクピットに乗り込むことは無かったろう。
知子は、香織や儀一郎がいとも簡単にJAXAに入り、NASAへのパスポートを得られたことに感慨していた。しかも、それだけではなく、自分も牽引してくれたのだ。
知子は特に香織の恩恵に感謝していた。香織は言葉少なげであったけど、常に明確なアドバイスをしてくれた。
香織が幼いころに両親を喪っていると知ったのは、高校三年になった後だった。
母方の叔母に育てられていたそうだ。
「叔母さんは金持ちと結婚したから、ラッキーだったのよ」と、香織は言った。「うちの両親は貧乏だったみたいだから」
そう言って、香織は悲しげに微笑んだ。
香織は望む物をなんでも手に入れる天賦の才能をもって生まれたようだ。
彼女のおばさんの資金力だけではなく、彼女の才能や美貌のお陰で。
香織が本当に手に入れたいのは何なのだろうかと、時々知子は考える。
手に入れようとすれば、ちょっと手を伸ばせば手に入れられる彼女の本当の望みは何なのだろう。永い付き合いだが、知子には未だ判らなかった。
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星系内でのホーキング・ジャンプには危険性が多かった。
ホーキング・ドライブとは通常星系外での航行に使われるものだ。
特に惑星などの天体が星系内に複数ある場合等は、星系内の重力場バランスを乱してしまうおそれがある。
地球から冥王星までのホーキングドライブはギリギリの最低距離だ。これ以上短い距離のホーキング・ジャンプは危険すぎて不可能だ。
本来なら、アルファ・ケンタウリ当たりに初ジャンプの目的地を設定すべきなのだが、人類は未だ、無人探査船を除き、土星の衛星軌道上以遠に進出してはいない。
もし、ホーキングエンジンに問題が発生した場合、アルファ・ケンタウリでは救出は不可能だ。問題を起こしたホーキングエンジンを使わないかぎり。
事実、
例え、
ホーキング空間に突入して、早くも二時間足らずで再び”実体化”の準備に忙殺された。実体化の準備で既に六時間が経っていた。
メインモニターは、視神経から大脳皮質に大きなダメージを与える影響があるため、CG化された簡略画像が映されていた。
「トリプル・チェック終了。異常なし」知子がリストを見つめながら言った。
「遮蔽フィールド良好。現在、レベル三」と、ネビュラ。
「よし、準備OKね」シューカが額の汗を拭いながら呟いた。「アポロ計画だってこんなに慌ただしくなかったでしょうね」
「1G環境なんだから、こっちの方がマシじゃない?」ネビュラがモニターを見つめたまま言った。
「確かに。まだ宇宙船の中にいるのが信じられないよ」知子が答えた。
「遮蔽フィールドがない宇宙船なんて、ジャングルジムみたいなものね」シューカがシニカルな笑み顔に浮かばせた。
『実体化』
香織達はこれを本当に体験したのだろうか?その証拠はまだない。この実体化が成功して、自分達が無事地球に帰還できれば、これが初のホーキング航行となる。
知子もシューカもネビュラも緊張のため、無駄口も出なくなった。
「実体化、十秒前」知子がモニターの数値を読み上げた。
「さあ、実体化するよ!」シューカが額に汗を滲ませながら言った。
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JAXAでの訓練もそこそこに、新設されたコーヴァス・クリスティーの予備課程訓練学校に進学が決まり、儀一郎と一緒に訓練することとなった。
この訓練をやり遂げると、ようやくケープ・カナベラルの訓練学校に進むことが出来る。
コーヴァス・クリスティーの生活は、ケープ・カナベラルの「肉体強化訓練」に比べれば、楽なものだった。
しかし、その当時は本の虫だった知子にとってはかなりキツイものがあった。
殆どが、「航空宇宙大学」で取得した専門課程の学位を強化するための論文執筆だったが、夕刻には必ずストレッチやジョギング等の簡単な肉体強化プログラムがあった。
スポーツ好きの人間なら何でもない「肩慣らし」の運動でしか無かったが、知子のように運動音痴の人間にはキツイものがあった。
知子だけではなく、他の訓練生も一日が終わると、汗みどろになってヘタっていた。
一日の訓練が終わると、訓練生達は酒保のバーで寛ぐのが日課となっていた。
研究棟は鉄筋コンクリートの洗練された学術棟だったが、研究が終わり、学術棟から訓練棟に戻った後、開発が間に合わないのか、西部開拓時代のようなみすぼらしいバラック作りのバーとレスランが並ぶ酒保に繰り出すのが訓練生の常だった。
知子は専攻課程で航空力学を修めるのがやっとだった。
儀一郎は、航空力学の他、軌道力学を修めていた。
それに引き換え、香織は惑星地質学、量子力学だけでなく外科医師の学位を航空宇宙大学で得ていて、更には空間幾何学までコーヴァス・クリスティーで学んでいた。
その日も知子は儀一郎と香織とともにオープンバーの「ウエスト・コースト」に来ていた。
傾きかけたオレンジ色の太陽に照らされながらカクテルに唇を寄せた。
客としてきたスペイン人訓練生の何人かがギターやバイオリンで即興の音楽を奏でていた。
三人は相変わらず口数が少なく、緊張を解す飲み物を口に運び、そこにいるだけで満足していた。
気だるくまったりとした夕刻。
太陽に熱せられた大地からは熱気が吹き上げてくる。
乾いた大地。
熱風に吹き上げられて土埃が舞い上がる。
単発装填式のリボルバーを腰につけている人がいても不思議には思わなかったろう。
突然、ギターの音が激しくなった。タンゴのリズムだ。
拍手や口笛、はしゃぎ声がどっと湧き出した。タンゴの踊り手を誘っているのだ。
拍手に導かれて、知子もよくっているサウス・カロライナとアラバマ出身の候補生カップルがオープンスペースに出てきて、踊りだした。
そのダンスはギクシャクしていて、とてもタンゴとは言えるものではなかった。
スペイン出身の候補生カップルがダンスに加わった。こちらは流石に上手かった。情熱的で、華麗で素人はとても思えなかった。
一曲目が終わっても、拍手は収まらなかった。二曲目のイントロが流れ、オーディエンスは次のダンサーを誘い、リズムに合わせて手を打ち合わせた。
イングランド出身の男とフランス南部出身の女のカップルが手を取り合って、不慣れなタンゴを踊りだした。
(よくやるよなぁ、まるで道化じやないの)と知子は思った。
周りの男女は二人の無様なタンゴを見て腹を抱えて笑っていた。
「面白そうね」香織が突然言い放った。「知子、踊らないの?」
勿論、知子は首を激しく振って断った。
「そう、じゃあ、借りるわよ」そう言うと、香織は儀一郎の手を取り、広場の中央に歩いて行った。
広場の中央に着くと、香織は突然儀一郎の両手を握り、身体を密着させて脚を彼の脚に絡ませた。
クイッと腰をねじって背を反らし儀一郎に体重を任せる。儀一郎はなすがママというように香織を支え、香織の導きに従い、身体を回転させた。
唇が付きそうなほど近づいたと思えば、パッと突き放す。
ギターの激しい旋律に合わせてクルクル回る。
香織が繰り出す熱情に儀一郎が侵食されていった。
完璧なタンゴだった。
知子は香織のタンゴに魅了させられた。
しかし、それと同時に強烈な嫉妬を感じた。
儀一郎が香織のタンゴに魅入られるようにダンスに没入していく姿を見せつけられて、嫉妬と屈辱をまざまざと感じた。
いや、それでは正確じやない。
羨望と嫉妬と友愛と屈辱の嵐だった。
Eine Widmung für unserem Chaos Klub
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