量子化
「核融合駆動発動ポイントまで五分」知子はスラスターを微調整した。
「ホーキングエンジンダブルチェック終了」シューカはチェックリストから顔を上げた。「トモ、トリプルチェックをお願い」
「了解。ユー・ハブ・コントロール」
「アイ・ハブ・コントロール」シューカがオムニコントローラーに手を伸ばした。
緊張と興奮が操縦室に充満していた。
ビデオ録画されたいたストレルカⅠの様子も同じようだった。だが、彼等は未だに帰ってきてていない。成功談はまだ一度も語られていない。
ホーキング空間がどのようなものだったのか、遮蔽フィールドは順調に機能し、重Gに晒されることはなかったのか、そういった事は全くわからない。
事実上、これも初めての超光速航行に違いないのだ。
「遮蔽フィールド、レベル1で安定」ネビュラがデータパネルを見つめたまま報告した。「レベル二十まで完全安定」
「しっかり、見ててよ。ミンチになるなんて嫌だからね」シューカが興奮気味に叫んだ。
その時、スピーカーから声が聞こえた。
「管制センターよりストレルカⅡ。安全宙域に入った。核融合加速を許可する」
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儀一郎が知子に告白したのは知子が大学二年を終える頃だった。
知子は少し躊躇したものの、儀一郎の告白を受け入れた。
躊躇したのは香織の気持ちを気にした所為で、知子は香織も儀一郎の事が好きではないのかと思っていた為だ。
知子は、自分が儀一郎と付き合ってもいいのだろうか、という卑屈な思いに囚われていた。
誰にも優しくて、大らかで、包み込んでくれるような大きな心を持っている儀一郎に自分は合っているのだろうか、と知子は自問していた。
何にせよ、儀一郎と香織は良く似合う。とても絵になるのだ。
知子が儀一郎と付き合うと伝えると、香織はいつもの様に飄々としていた。しかし、知子は自分に気を使ってそう演じているのではないかと思った。
香織が儀一郎のことを好きなのではないかということは知子の妄想や嫉妬心に過ぎなかったのかもしれない。
それでも香織との友情関係を失いたく無かったし、儀一郎との関係も発展させたかったので、香織の動向を慎重に観測した。
しかし、香織は持ち前のポーカーフェイスで、本心を知ることは儘ならなかった。
儀一郎は既に専門課程に入っていたので、普通の恋人同士のようにデートをする訳にはいかなかった。
儀一郎は宇宙飛行士となるために様々な資格を取らなければならなかったし、それは知子も承知していた。いずれは自分もその道を進むと考えていたからだ。
ホーキングエンジンの実用化が確実になっていくと、
四年生になった儀一郎は早々にJAXAに採用され、NASAの研修生に推薦され、知子と会う機会は更に少なくなった。
それでも、知子は不満には思わなかった。お互いに希望する進路へ順調に進んでいるのだ。
香織も含めて。
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「
ガクン、という軽い衝撃があっただけで、Gはまるで感じなかった。床方向に掛かる一Gだけだ。月面基地やそれまでのシャトルでの低重力や無重力を考えると、自分が宇宙空間にいるのが信じられない。
「九G、十G、十一G……」知子は外部重力の数値を淡々と数え上げた。
「遮蔽フィールド、安定度九十八%」ネビュラが囁くように報告した。
「量子化ポイントまで後、十秒」シューカが宣言した。
これから先は誰も知らない世界だ。
香織はここを乗り切ったが、それがどんなものかは誰も知らない。その記録が全く受信できなかったからだ。
知子の全身の筋肉が強張り、未知の世界への恐怖は心臓を叩き、血潮は全身を駆け巡った。
「量子化ポイントまで五秒」シューカの目は大きく見開かれていた。
「三・二・一、量子化……」
ブイィィィィンと船体が唸るものの、振動はまるでなかった。
「ホーキング空間に入った…」知子はあえぐように言った。
モニターに映る前方画面は真っ赤になり、不可思議な幾何学模様のフラクタルが舞いだした。その画像は視神経を刺激し、更に聴覚や嗅覚に異常をきたし、脳全体が揺らぎたし、頭痛と吐き気をもよおした。
「モニターを切って…!」知子が叫ぶと、すぐにシューカがモニターを切った。
ストレルカⅡの船内に沈黙が広がった。
コンソールパネルの光とデータモニターの文字記号だけが音もなく脈動していた。
「ホーキング空間に入ったのね?」知子は誰に云うでもなく、一人呟いた。
その問には誰も答えなかった。そんな余裕はなかったのだろう。
これでようやく近づける。儀一郎にも、香織にも…。
Eine Widmung für unserem Chaos Klub
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