稲妻トリップ 8 特別な人


 僕は巡回中に、AKIYOSHIさんの働くフロアに立ち寄っていた。


 婦人服売り場。客はまばらだった。昨日見た、常連だという老婆が、試着室の前の椅子に、ちょこんと腰を下ろしていた。


 眼鏡の従業員が、何事か、というように、興味ありげに見上げてきた。


 何も言わずに、僕はレジカウンターの前へ来た。


 AKIYOSHIさんは両手を自分の前で揃え、カウンター内に小さくおさまって立っていた。


「季節のアキに、大吉のキチと書いて、秋吉さん?」


 と、僕は尋ねた。彼女が「はい」と答えて、静かに微笑む。


 僕は一度、その場で大きく息をした。やっぱりそうか、という、悲しみを伴なう、残念な気持ち。


 僕は十年前に、僕が体験したことを、彼女に語った。


 秋吉さんは手の平を見せてくれた。所々に、皮膚の溶けたような、白い斑点の痕があった。


「もう、だいぶ治ったのよ」と、苦笑いする。


 なぜ笑っていられるのか、僕にはよく分からなかった。


 ただの強がりなのか、それとも、本当に強いのか……彼女は僕より年下だったが、とてもしっかりしているように見えた。


 きみのお父さんは、救急車で近くの病院へ搬送されたんだよ、けれどすぐにいなくなった、と、僕はできるだけ簡潔に話した。


 重症だったから、一人で歩けるわけないのに、失踪した。僕は、誰かが連れ去ったんじゃないかと思っている。


 そして、署長は僕に忠告していた。手を引け、と。この事件の裏には、大きな組織が関わっていた、ということ。


「今朝、ニュースでこれを読んだ」


 僕は取り出した携帯の画面を、彼女に向けた。秘密結社の最後、と書かれたニュースサイトだ。


「きみはまだ小さかったから、知らなかったかもしれないが、当時、この組織は、今よりずっと大きかったんだ」


 僕は自分でもどうかと思うほど、よく喋っていた。こんなに言葉が出てくるのは珍しかった。


 彼女の打つ相づちが、純粋に話を聞くその姿勢が、僕をじょう舌にさせていたんだ。


「各地でテロのように爆弾を放つ。人類を抹殺することが、その宗派の信念だった。けれど、最近になって、信者は減り、活動は抑えられていた」


 彼らを捕らえた今の警察は、優秀な人材の集まりになったのだろう……僕はそう思案していた。そう、思いたかった。


 秋吉さんは、僕の目をじっと見つめていた。僕の話が終わるのを待って、小さく口を開く。


「それで、あなたは、パパの行方を調べてくれるのよね?」


 心臓が掴まれたようにキュッとした。


 この事柄を彼女に告げて、僕はいったい、何をしようというのだろう。


 ただ真相を知りたかっただけなのか……いや、それは違う。


 僕は、先に進みたい、ここにとどまっていたくない……強く感じた。


「お昼に、屋上へ来て。それから、ありがとう。私を見つけてくれて……」


 彼女の言葉に、僕は頷いた。


 あの時、助けてあげられなかった少女……。忘れようとしても、心の底で、いつまでも考えてしまうんだ。


 ずっと事件から逃げていた。それだけじゃない。自分という存在からも、目をそらしてしまっていたんだ。


 助けよう、と僕は誓う。他の誰かではない。自分が動かなければ。


 自分を動かすことができるのは、自分の意志だけだ。


 僕は、目が冴えたような、世界が変わってゆくような、そんな不思議な気持ちで、彼女の前に立っていた。


 僕らが話をしている間、客は一人も、カウンターの前に並ぶことはなかった。




 ドアを開けると、小降りの雨が降っていた。


 屋上へ出るのを、屋根の下でためらっていると、階段を上ってくる、速いヒールの音がした。


 僕の横をすり抜けて、暗い空の下へ飛び出してゆく。持っていた赤い傘を、パッと開く。


 傘を持つ反対の手で、秋吉さんが手招いた。僕と彼女は、赤色の下に二人で並んだ。


「天気予報、見なかったの? 今日は昼から、雷を伴う雨になるんですって」


 秋吉さんの声は、頭上で跳ねる、雨粒の音に重なった。


「ほら、ビリビリしてきた……」


 片手の手の平を見ながら、彼女は言った。僕は傘の持ち手を掴んだ。彼女は両方の手の平を前に伸ばし、雨にさらした。


「私、今から、変なことを言うね。でも笑わないで。本当のことなの……」


 僕は彼女の横顔を見つめた。彼女の耳の横で、柔らかい髪が風に揺れた。


「こんな日はよく、トリップできるの。短い時間旅行……。私、タイムマシンに触ったからだわ……あの稲妻に……」


 何を言っているのか、正直、僕には分からなかった。


 秋吉さんは、意識を集中させるように、両目を閉じた。それから数分間、そこに立ったまま押し黙ってしまった。


 ねえ……、何度も声をかけようと試みたが、僕はやがて、無心になった。


 何か、神聖なものでも見るような、おごそかな感じがした。秋吉さんは、ただ前を向いて立っているだけなのに……。


 空に、素早い閃光が走った。すぐあとから、腹の底に響く重低音が、僕らの街中に広がってゆく。


 彼女が目を開けた。僕のほうを見上げ、きれいな瞳を細めて笑う。


「あなた、青村さんっていう名前だったのね。私、今、あなたの過去を見てきたの」


 子供のように、純真な眼差しを向けられた。僕は、どんな顔をしていただろう。


「礼儀に厳しいお父さん。専業主婦のお母さん。五歳下の妹さん。あなたは本を見ていたわ。国家試験……という字が見えた。警察官になる前かしら?」


 ああ、と僕は、よく分からないまま頷いた。彼女はスカートのポケットから、白いハンカチを取り出し、両手の雫を拭き取った。


 あなたに教えておきたかったの、と彼女は言った。あなたはもう、私の特別な人だから。


 頬の熱を僕は感じた。しかし、気づかれやしなかっただろう。


 この赤い、傘の下。


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