稲妻トリップ 5 溶ける時計


 初日はデパートの構造を調べるために、すみずみまで歩いた。


 非常階段に、裏口。各階の開けられる窓はすべて開け、逃走ルートを想像してみた。


 トイレ。社員食堂。救護室。エスカレーターにエレベーター。


 フロアをすべて巡ることで、従業員たちにも顔と名前が知れ渡った。


 新しい青い制服の下で、汗ばんだ体。


 昼になり、腰に付けていたトランシーバーから、交代を告げる先輩の声がした。


「了解しました。今、そちらに戻ります」


 防犯カメラからの映像が、大型モニターに分割して映る監視室。


 そこで待っていた中年の先輩が、食事を取るよう言ってくれたが、僕の目は、その画面の一部をとらえていた。


 屋上が映っている。まだ見回っていない場所だった。


 僕は先輩に一礼すると、足早に向かった。




 海を目にすると、僕の心に、何かが溶けていくような感じがした。


 チーズのように、とろけていく時計。有名な絵画のイメージが、頭に浮かんだ。


 行ったことなんてない場所。でも、なぜだか分からないが、知っているような気もする。


 まるで、記憶が上書きでもされているかのような、妙な気がした。


 そうだ、あの海辺に昔、小さな工場が建っていた……と、僕は思った。


 僕は高架橋の近くを、パトカーに乗ってパトロールしていた。そこへ署からの無線が入った。


「至急、工場へ向かってくれ。青村くん、きみが一番近いんだ」


 そう指示されたような気がした。


 僕は行ったのだろうか、だが、はっきりとした記憶がない……。


「あらっ、お婆さん」


 ベンチに座っていた彼女が、やってきた老婆に気づいて、優しく話しかけていた。


「ここは屋上ですよ。もう、また迷子になっちゃったのね」


 彼女、AKIYOSHIさんは、腰の曲がった白髪の老婆を、僕の手に預けた。


「この方、うちの常連のお客さんなんだけど、よく道を間違えるの。警備員さん、お願いします」


 僕は「はい」と頷いて、老婆の手を引いた。


「ごめんなさいね、お兄さん」


 年老いてはいるが、その声には品があった。手にシワもあまりなく、乱れのないキレイな服装をしている。


 ただ、目が悪いのか、濃いめのサングラスをかけていた。


「お兄さん、いくつ? あらあら、うちの孫と同い年。お名前は? へぇ、聞いたことないわ、新人さん?」


 屋上から、今来た階段を、老婆を支えて下りながら、僕は短い会話を交わした。


 けれど、その時僕が考えていたのは、彼女、AKIYOSHIさんのことだった。


 あきよし、か……。


 何かの縁だろうか。僕が十年前、警察官を辞めるきっかけになった事件の、被害者と同じ名前だった。




 あきよし。


 漢字は違うかもしれない。だが十年前。と、すると、歳は合う。


 繁華街の片すみで、泣いていた少女。傍らに、彼女の父親らしき男が、血だまりの中に倒れていた。


「何があったんだ? きみ、名前を言えるかい?」


 パトロール中だった僕は、救急車に電話をかけながら、少女に尋ねた。


 少女は恐怖に怯えていて、何も答えられなかった。僕は、父親の着ていた、緋色がにじんだ上着に、名札を見つけた。


「秋吉……。大丈夫だよ、お兄ちゃんが助けてあげるからね」


 少女は小さく頷いた。その両手は、なぜか焦げたように、真っ黒い色で染まっていた。


「今回の事件には関わるな」


 と、警察署長が僕に言った。


「忘れるんだ。組織がでかすぎる。このまま何知らぬ顔をして、お前が生きていくというのなら、ここで雇い続けてやる。しかし……」


 僕は、首を縦に振れなかった。


「お前、自分を誰だと思っているんだ? お前に何ができる。青村くん……お前が辞めたところでな、こっちには何の損害もないんだよ」


 署長は嫌な笑いを顔に浮かべながら、僕に低く呟いた。


「まだまだ青いな、そして馬鹿な奴だ。自分の代わりなんて、いくらでもいるっていうことが、どうやら分かってないみたいだな」


 ゴミを捨てるように、首を切られた。


 まぶたを開くと、見慣れたマンションの天井が見えた。


 ……夢か……。


 だが、それは現実だ。


 ベッドの中で寝返りを打ち、壁にかけてある時計を、薄目で眺める。


 あぁ、また……チーズのように、溶けてゆく……時計が落ちる……。


 もう一度、目を閉じた。


 夢の中に引きずり込まれる。


 それでもいい。


 僕は今、今の自分のことを、考えていたくないんだ。


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