稲妻トリップ 4 AKIYOSHI


 「AKIYOSHI」


 胸に付けた、金色のネームプレートには、しなやかなフォントで、そう刻まれている。


 私は更衣室で、従業員の制服に身をもぐらせた。


 白いシンプルなブラウスに、桃色の上着。


 膝丈のスカートは、同じく桃色で、細めのプリーツが入っている。


 紺のハイヒールは、昨日のかかとのカサブタを、上から強く押し付ける。


 スカートの後ろを押さえながら、エスカレーターで三階へ。


 「婦人服売り場→」、大きな看板が誘導している。


 頭上の明かりが、やけに眩しい。


 眼鏡のマネージャーが、同僚と何かの話で盛り上がっていた。


 私は自分の持ち場、レジカウンターの中へと閉じこもる。私はここの地縛霊、のようなもの。


 お客はそんなに多くない。けれど二十四時間営業の、長丁場な接客業。


 ぬるく、変わらない空調に混ざる、誰かの香水。小さいけれど、絶えることのない雑音の中。


 お金を貰っているとはいえ、なんて、タイクツ……。


 後ろを見る振りをして、アクビをする。この仕草を、私はマスターしたと自覚した。


「聞いてよ、秋吉さん」


 マネージャーが笑顔で寄ってきた。眼鏡が明かりに反射していて、いつも彼女の目は見えない。


「前の事件で、殺された警備員の代わりにさぁ……」


 嬉しそうな声色と、色づいた頬。殺人事件が同じ建物内であったのに、まるで彼女は他人事のよう。


「いい男が入ってきたのよ。歳は三十二、って言ってたわ。あら、あなたより十歳も上ね」


 そうですか、じゃ、あなたより十歳も下ね、なんて……言ってやりたい気持ちに、私は耐えた。


「育ちの良さそうな、キレイな顔をしてるのよ」


 私は無言で微笑んでみせた。


 ここでは、スマイルだけが意味を持つ。他は皆無でよろしい……そんな世界。


 それが、私のいる世界。




 腕時計の二つの針が、十二に重なる。


 一階にあるパン屋さんの、焼きたてを知らせるアナウンスが、軽快なメロディーと一緒に流れ始める。


 秋吉さん、先にお昼行っていいわよ、と、同僚が言う。


 ありがとう、と言って、私は俯く。


 固まった足を動かすのは、すごく重い。




 従業員以外、立ち入り禁止の屋上で、私は買ってきたパンを食べる。


 まだ熱々で、ふっくらしている。バターの甘い、いい匂い。それに、潮風。


 大好きな海が柵越しに見える。あの柵がなければもっといいのに。


 備え付けのベンチに食べかけのパンを置いて、私は柵のほうへと駆けた。


 肩まである柵の上から、両手をまっすぐ投げ出して、強い風にさらす。


 冷たい風、気持ちがいい。


 心や体が、軽くなる気がした。


 できるなら、このままさらってほしい。私を、オリの中から……。


「おい!」


 突然、肩を掴まれた。


「痛い!」


 私が叫ぶと、手は離れた。お互いの顔を見合わせた時、私たちの頭の中は、同じ疑問で埋まっただろう。


 あの人だ!


 なぜここにいるの、私は肩をさすりながら聞いた。


「今日から入った警備員だ。きみは……」


 彼が私のネームプレートを読み上げる。


「まだ死にたいのかい、AKIYOSHIさん」


 夜見たときは気づかなかったけど、とても繊細な眼差しをしている。憂いをおびたように、塞がれるまぶた。


 私ははっとして、思わず声をあらげてしまった。


「勘違いしないで! ただ、海を見ていただけよ! 昨日だって……」


 素直な丸い目をして、彼は「ごめん」と謝った。


 私も、なんだか顔が熱くなって、まだ名前も知らないこの警備員に、話題を変えて喋りだした。


「ほら、あっちに、海が見えるでしょ。小さい頃、父と二人で、私、あの近くに住んでいたの。今は灯台が建っているところ、あの辺りよ」


 彼は、私が伸ばした指先を見つめる。なんて長い、まつ毛だろう。その目の中に、陽の光が映り込む。


「幼馴染みと、浅瀬で毎日遊んだわ」


 話しながら、一瞬だけど、私の頭に映像が浮かんだ。


 それは十二歳の夏の日だ。同い年だけど、私より背の低い男の子が、リュウくん。黒く焼けた肌と、悪戯に笑った目。


「アキちゃん、ピンクの貝がら、見つけたぞ」「それって桜貝じゃない? いいなー、私にちょうだい」「何でだよ、見つけたのは俺だもん」「けち!」


 私は柵から離れて、またベンチに座った。それからパンを手に取って、再び頬張る。


 彼はまだ海を見ていた。


 何を思っているのだろう。


 新しい仕事場で、慣れない怖さ。誰かを助けるために、立ち向かっていく勇気、かな。


 食べ終わったパンの袋を、私は片手で握りしめながら思った。


 前の人は、万引きをした窃盗犯を、捕まえようと追いかけたのに、犯人の隠し持っていたナイフで、返り討ちにあってしまった。


 その殺人犯は、いまだに捕まっていないということ……きっと彼は知っているだろう。


 でも、私なんかより、彼はずっと大人に見えるし、そんなこと、気にしてなんていないかも。


 ……そんなこと?


 私は一人で首を傾げた。


 どんなに考えたって、分からないはずだ。


 同じ場所にいるけれど、私の世界と、彼の世界は違うのだから……。


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