――ああ、あんなにも人が忙しそうにしている。両の足は千切れそうなほどせかせかと動かしているし、両の目は人を殺せそうなくらいぎらぎらしている。あんなに忙しないのは、気狂いか蟻くらいのものだ。彼らはきっと蟻ではないから、気狂いに違いない。いや、もしかすると私が知らないだけで、彼らは蟻なのかもしれない。

 私はそんな益体のないことを考えながら、どんよりと濁り切った空の下を重い足取りで歩いていた。

 眼前の大通りでは、黒いスーツを着込んだ勤人たちが連々と列を成し、キャラメル色の外壁をした駅に向かって足早に歩を進めている。私はその光景に形容し難い、軽蔑のような感情を抱いたが、私自身がそれを構成する一部だということに思い至り、どうにもやるせない心持ちになった。

 駅にたどり着いた勤人たちは、吸い込まれるようにその中へ入っていく。その様を見ていると、駅という建物が何かとてつもない求心力をもって、人々を引き摺り込んでいるようにも思え、空恐ろしさが背筋を這う。

――私は罠にかかったのだ。恐ろしい毒牙を持つ捕食者をそのどん底にはらんでいる罠に。今や私は自身の意思で歩いているのではない。私をいざなう得体の知れない力に、抗うすべもなくただ従っているだけなのだ。

 またそんな益体のないことを考えているうちに、駅はもう目の前だった。私はまだ背筋を這い回っている空恐ろしさを押し殺し、駅の階段を上った。

 駅の構内は、人々の体臭が混じり合い、腐敗した果実のような、甘ったるい匂いが充満していた。その胸の悪くなる匂いは、脳髄にまで染み渡ってくるようで、私を一層鬱々とさせた。私はもうこれ以上一歩たりとも進みたくないような心持ちだったが、後からやってくる勤人たちの群れがそれを許さなかった。

 先を争う人波に押し流され、私は改札をくぐる。その瞬間私は、自分が蟻よりももっと卑小なものになるのを感じた。私は自らの卑小さを形容しようと言葉を探し求めて、その貧相な脳みそを掻き回した。ミジンコ? 蛆虫? 塵芥? いや、どれも違う。もっと薄汚くて浅ましい――。

 ああそうか、と私は嘆息する。

――人間。

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