AM03:00「夜海」
AM03:00「夜海」
「寒っ……」
車から一歩降りると、体を寒さが直撃した。夏に差し掛かるこの季節、薄着の僕には少し肌寒い程度なのが助かった。あのケースの中身ならまぁ耐えられるくらいの寒さだろう。
もちろん、海に入らなければの話だが。
「水温の確認、お願いします」
「了解です」
ドアをバタンと閉め、彼女と僕を遮断する。しばらくは中に入れない。なぜって、彼女が着替えるから。
坂をゆっくりと下ると、寒さが少し強くなった。
「……っ」
僅かに身震いすると、先へ先へと進んでいく。サクッ、サクッ、と砂浜を歩く音が耳に心地よい。
海の近くまで来た。満ち引きは比較的穏やかで、月が煌々と海を照らして、海は月光を緩やかに反射している。
今この瞬間、海はさながら鏡のようで、その中には月を……真夏の陽炎のように、朧げに映し出していた。
「綺麗だな。ほんとうに……」
思わず感嘆の声が漏れる。これを見れば、さっきまでの苦労が報われるというものだ。
水温計を水に入れる。指先から冷えていき、上の空だった感覚を現実に引き戻した。
「……17度」
口の中に苦いものが広がる。
ダメだ。例え入れたとしても少しキツイだろう。水泳部員はこの時期からプールを使い始める。水泳経験の乏しい、ましてや水の寒さに慣れていない彼女には耐えるのは少し難しいのではないか。
「……」
元来た道を引き返していく。周囲を注意深く見回して、誰もいないことを確認する。
なるべく人の少ない場所を選んだつもりだし、この時間だから誰もいないとは思うのだが。
幸いあそこには、車は一台も止まっていなかった。だから、多分大丈夫だとは思うのだけど。
そしてその希望的観測は、一つの叫びで粉々に打ち砕かれた。
「……!?」
甲高い叫び声。間違いない、彼女の声だ。
後先考えず、全速力で引き返す。
幸い1分もかからなかったが、坂で息を切らしてしまった。
「……大丈夫か!」
息を切らして車の助手席側に回る。そこにいたのは変質者でもなんでもなくて。
まず捉えたのは、純白のシルクの下にある肌だった。そのシルクは腕から胸、スラリとした足へと伸びて……。
そこにいたのは、純白のレースのドレスに白いカーディガンを羽織っていた彼女だった。
「良かったぁ。怪我とかない?」
「だ、大丈夫です……」
彼女は涙目になりながら頷いた。
「その格好って、ウェディングドレス……?」
僕の声に、彼女は難しい顔をしながら首を横に振る。
「すいません、私もドレスはまったく詳しくなくて……」
「大丈夫だよ、気にしないで。それよりも寒そうだけど大丈夫?」
生地が生地だからすごく風を通しやすそうだ。手を差し出すと笑って手を握ってくる。僕はそれを優しく、でもしっかりと握りしめた。
「……ヒールまで白。徹底してるな」
「そ、そうですね。それにしても少し寒いです……」
確かに、この生地なら尚更のことだろう。
先ほどの眠気など何処へやら。時刻は午前3時へ。
慣れないであろうヒールで、彼女は坂を下っていく。手を引いているとは言え、中々バランスを崩しそうで危なっかしい。
それなら。
「よっ……と」
「ひゃあっ!?」
彼女が軽い悲鳴を上げる。
ベタと言えばベタな、お姫様抱っこ。
しっかりとした重みとサラサラとした感触が手のひらに伝わって、なんだか嬉しくなる。
“キミは今、ここにいるんだね。”
「どうしました? 重かったですよね……」
「全然だよ。むしろ軽くなった?」
彼女がカアッと顔を赤くして、僕の胸を軽く小突いた。
「……い、言わないでください。気にしてるんですからぁ」
「ごめんね。でも、しっかりと食べなよ? 僕と一緒に食べる時以外でもね」
「は、はい。気をつけます……」
彼女がギュッと顔を埋めてくる。熱い吐息がかかり、くすぐったくて笑ってしまう。
「ふふっ……。くすぐったいなぁ」
「すいません。でも、なんだか安心します……」
「それはどうも」
声を弾ませ、ゆっくりと腕の中の彼女に気を遣いながら再び歩き出す。
穏やかな風に黒髪が揺れる。
涼しい風だ。それに、潮騒の音が小気味よい。
「あの、今日の話をして良いですか?」
突然、彼女が切り出した。その目は少し躊躇いの色を帯びている。
「え?」
僕は足を止めて、彼女を立たせた。
ありがとうございます、と笑って、月を映す鏡の海を眺めて言った。
「今日、ここに来たのはCDのジャケット撮影のためなんです」
「撮影? あぁ、なるほどね」
それを聞いて、彼女の服装を見て僕は合点がいった。
「つまり、被写体なんだね」
「そう、です。すいません、付き合わせた挙句大事なことを黙ってて」
深く、頭を下げてくる。最早彼女の癖になりつつあるそれを、僕は肩をやんわりと掴んでやめさせた。
「ここに来る前に言ったら反対されると思ったから、事後承諾にしたってトコロかな?」
「は、はい……」
上目遣いで僕を見てくる。図星だったようだ。でも怒りなんて全然湧いて来ない。
「……そんな事で怒らないよ。自分で決めたことなんでしょ? そもそも、僕がカメラマンで良かったの?」
「依頼主が、それで良いからって。コンセプトは決めるけど後は好きに撮ってくれって」
思わずその場にへたり込みそうになった。プロ意識も何もあったもんじゃない。自由過ぎやしないか、あの人。
「それは後で色々と抗議するとして。コンセプトって、何?」
「海に佇む女性、だったんですけど……」
「はぁ……」
季節感を考えれば、今の時期はまだ恩情だったか。これが冬なら僕は怒り狂ってたかもしれない。
「……」
上から下まで、じっくりと眺める。彼女が羞恥に身をよじらせる。
「あ、あんまりじっと見ないでください……」
「似合ってるよ。すごく……」
「あ、ありがとうございます……」
そう。とても似合っていて、綺麗だから。
CDのジャケットになって大勢の目に留まることに、少し妬けてしまっていた。
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