第6回 呉の滅亡

 漢文大系本、第3巻、79ページ。

 西暦280年。


 預分兵与濬合、攻武昌降之。預謂、「兵威已振、譬如破竹、数節之後、迎刃而解、無復著手処也。」遂指授群帥方略、径造建業。濬戎卒八万、方舟百里。挙帆直指建業、皷譟入石頭城。呉主皓面縛輿櫬降。封帰命侯。遂符庚子入洛之讖。自大帝至是四世、称帝者凡五十二年而亡。遡孫策定江東以来、通八十余年。


 預、兵を分かちてしゆんと合し、武昌を攻めて之をくだす。預、謂ふ、「兵威すでに振ひ、たとへば竹をるがごとし。数節の後、刃を迎えて解け、た手をくる処無きなり」と。遂に群帥に方略を指授し、こみちもて建業にいたる。しゆんじゆうそつ八万、舟をならぶること百里。帆を挙げて直ちに建業を指し、鼓譟して石頭城に入る。呉主かうめんばく輿しんしてくだる。帰命侯にほうず。遂にかうにふらくしんに符す。大帝よりここに至るまで四世、帝を称することおよそ五十二年にして亡ぶ。孫策、江東を定むるにさかのぼりて以来、通じて八十余年。


 は兵を分けておうしゆんに合流させ、(おうしゆんは)武昌を攻めて陥落させた。は言った。「我が軍の威力はすでに盛んであり、たとえるならば竹を割るようなものだ。いくつか節を割ってしまうと、刃を受け入れて裂けてゆき、後は力を加えなくともよくなるのだ」と。そこで将軍たちに作戦を伝え、裏道を通って建業に向かった。おうえいは、八万の兵を率い、船を百里にわたって並べ、その船を全部繰り出して一直線に建業を目指し、太鼓を鳴らし、ときの声を上げて、(建業の)石頭城に入った。呉主のそんこうは、手を背中で縛り、棺を車に載せて降伏した(抵抗を止め、生死を委ねるというポーズ)。そこで、かれを帰命侯に封じた。というわけで、「こうの歳にらくように入る」という予言の通りになったのである。大帝(孫権)からそんこうまで四代、皇帝を称した期間は合計52年(222年―280年なので実際は58年か)、呉はここで滅亡した。孫策が江東を定めたときから通算すると、80年あまりになる。

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