第29回 蜀漢の滅亡

 漢文大系本、第3巻、75~76ページ。

 西暦264年。


 ◯漢人不意魏兵卒至、不為城守。乃遣使奉璽綬、詣艾降。皇子北地王諶怒曰、「若理窮力屈、禍敗将及、便当父子君臣背城一戦、同死社稷、以見先帝可也。奈何降乎。」帝不聴。諶哭於昭烈之廟、先殺妻子、而後自殺。艾至成都。帝出降。魏封為安楽公。帝在位四十一年。改元者四、曰、建興、延煕、景耀、炎興。右、自高帝元年乙未、至後帝禅炎興癸未、凡二十六帝、通四百六十九年而漢亡。


 ◯漢人、魏の兵のにはかに至るをおもはず、城守を為さず。すなはち使を遣はしてじゆを奉じ、がいいたりてくだらしむ。皇子北地王しん怒りて曰はく、「し理きはまり力屈し、禍敗まさに及ばんとすとも、便すなはまさに父子君臣、城を背にして一戦し、同じくしやしよくに死して、以て先帝にまみゆべくして可なり。奈何いかんくだらんや」と。帝、聴かず。諶、昭烈のべうこくし、づ妻子を殺して、後、自殺す。がい、成都に至る。帝、出でてくだる。魏、ほうじて安楽公と成す。帝、位に在ること四十一年。改元する者四、曰はく、建興、延煕、景耀、炎興。右、高帝元年いつより、後帝禅の炎興に至るまで、およそ二十六帝、通じて四百六十九年にして、漢亡ぶ。


 ◯蜀漢では、魏の兵が急にやってくるものと思っていなかったので、城の守りをしていなかった。そこで使者を出してこくを捧げわたし、とうがいのもとに参上して降伏させた。皇子で北地王のりゆうしんは怒って言った。「たとい道理がなくなり力も尽き敗北がせまっていようとも、親と子と、君と臣とが、城を背にして戦い、皆で国家のために死んで、先帝に面目が立つようにしなければならぬものだろう。どうして降伏などしようか。」帝(劉禅)は聴きいれなかった。劉諶は昭烈皇帝(劉備)のびようで声をあげて泣き、まず妻子を殺して、それから自殺した。とうがいは、成都にやって来た。帝は出迎えて降伏した。魏はかれを安楽公にほうじた。帝は41年のあいだ帝位についていた。四回の改元をしたが、それぞれの元号を建興、延煕、景耀、炎興という。以上、高帝(劉備)の元年いつの年(紀元前206年)から、後帝劉禅の炎興の年(263年)まで、全部で二十六人の皇帝があり、合計469年で、漢は滅んだ。

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