満月の夜の再会
その日からメルは姿を現わさなくなった。残りの夏休みはあっという間に過ぎ去り二学期が始まった。何もかもこれまで通りの日々。メルと過ごした夏の一カ月はまるで夢のように思われた。
だが夢ではない。その証拠にボクの手元には黒いチョーカーがある。メルの描いた月と山の絵がある。間違いなく彼女は存在していたのだ。
「メルは完全に消滅してしまったのだろうか」
そうは思えなかった。黒いチョーカーの宝石は輝きを失っていなかった。月明かりに照らされると薄っすらと光るのだ。メルの力はわずかながら残っている、つまりメル自身も完全には消えていないはずだ。
「彼女はボクに何を求めていたのだろう」
唯一の手掛かりは三笠山だった。メルはいつも窓越しに山を見ていた。紙に描いたのも山と月だった。そしてボクを連れて行こうとした。全ての謎を解くカギはきっとそこにあるはずだ。
「行ってみるしかないな」
次の満月の夜、ボクは三笠山へ向かうバスに乗った。高鳴る胸を押さえながらあの日の事故現場を通り過ぎ、三笠山ふもとのバス停で降りる。周囲には民家も店もない。ボクの前にあるのは山頂へ伸びる薄暗い登山道だけだ。
「ひとまず登ってみるか」
この山のどこにメルの手掛かりがあるのだろう。月明りだけを頼りに山道を進む。
ボクはポケットから黒いチョーカーを取り出した。宝石が月光を反射して淡い光を放っている。あるいはそれは宝石自身が発する光かもしれなかった。
「メル、どこへ行けばいいのか教えてくれないか」
不意に宝石から一筋の光が放たれた。レーザー光のように細い光線が右上方へ伸びている。ボクは山道を逸れた。闇の中へと伸びていく光の行く先だけを見据えながら藪の中を進む。
どれだけ歩いただろう、やがて宝石の光が消えた。
「ここは……」
いつの間にか藪を抜けていた。雲が切れ、満月の光が周囲を照らすと、ボクの周りに一面の花畑が出現した。月夜草だ。夕方に咲き始め朝には萎む夜の花。だがこの場所の月夜草は一本も開花していない。どの草も白い花びらを閉じたまま元気なく頭を垂れている。
「あれは……」
花畑の中央に一際大きな月夜草があった。葉も茎も閉じた花びらも萎れている。近寄ってよく見るとアブラムシに似た虫がびっしりと付いていた。ふと、メルの虫嫌いを思い出した。ゴキブリは言うにあらず、蠅も蝉もメルは嫌がった。見ることも力を使って追い払うこともできなかった。
「これが君の目的だったのかい、メル」
ボクはしゃがみ込んで月夜草の虫を取り除いた。葉や茎を傷めないように丁寧に、しかし取り残しがないように確実に作業を進めた。草に触れていると、まるでメル自身に触れているような錯覚に襲われた。
「よし、綺麗になったぞ。これで満足かい、メル」
黒いチョーカーを月夜草に掛ける。満月の明かりが花畑に降り注ぐ。チョーカーの宝石が輝きを増し始めた。次第に大きく強くなっていく。その勢いに圧倒されてボクは数歩後ずさりした。宝石の輝きは月夜草を飲み込み、眩いほどの閃光を放った。たまらず目を閉じたボクが恐る恐る目を開けると、そこにはメルが立っていた。
「メルさん!」
メルはにっこりと微笑んだ。足元の大きな月夜草は大きく花びらを開いている。周囲の草たちも全て白い花を咲かせ、花畑はまるで雪に覆われてしまったかのようだ。
「これがボクにして欲しかったこと、そうなんですね、メルさん」
メルはいつものように大きく頷いた。全てがわかった。虫に蝕まれた我が身を助けるために、メルはボクに救いを求めたのだ。毎日ボクの元を訪れ、ボクの願いを叶えながら、満月の日を待っていたのだ。
「そうだ、会えた時のためにこれを持ってきたんだ」
ボクは袋からプリンを取り出した。メルは顔を綻ばせてプリンを一飲みにすると、両手を胸の前で合わせ口を開いた。声のない歌が花畑に響き渡る。口の動きに合わせて周囲の空気が揺れる。花畑を照らす月明りが揺れる。白い月夜草の無数の花が揺れる。
「聞こえる、聞こえるよ、メルさん」
ボクには聞こえていた。それは初めて聞くメルの言葉だった。感謝と祝福に満ちた言葉がボクの心を包んだ。両手を合わせたままのメルの体が浮かび始める。花畑の月夜草も地を離れて舞い上がった。夜空は満月の光で溢れている。その光の中へ吸い込まれていくメルの姿。二度と会えない予感がボクを襲う。だが、それでいいのだ。たとえ会えなくてもメルはいつでもボクのそばにいるのだから。この世から満月の光が消えない限り、ボクはいつでもメルを感じることができるのだから。
「ありがとう、そしてさようなら、メル……」
月夜草の歌 沢田和早 @123456789
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