満月の夜の別れ

「半分現実で半分夢。たぶんそんなところだな」


 翌朝、寝不足の頭で朝食をとりながらボクはそう結論付けた。

 公園でメルに出会ったのは疑う余地がない。コンビニのレシートにはお茶の他にプリン二個がしっかりと印字されているのだから。

 しかしその後、ボクの部屋で起きた現象は現実だったのかどうか疑わしい。動き始めたエアコンは五分も経たずに停止してしまったからだ。


「熱帯夜を回避したいという願望が、あんな非現実な幻覚をボクに見せたのかもしれないな」


 いずれにしても済んでしまったことだ。この件に関してはきっぱりと忘れることにした。その日は図書館で日中の暑さをやり過ごし、夕食後は昨日と同じく公園へ行ってアイスを食べた。


「今夜も暑くなりそうだな。あと二日の辛抱か」


 東の空を見る。月はもう昇っているが下半分は三笠山に隠れている。月の出は一日に五十分ずつ遅れていく。きっと明日は月を見ないままアイスを舐めることになりそうだな、そんな取り留めのないボクの思考は一瞬で中断された。半分見えていた月が女の子の顔に変わったからだ。


「メル、さん」


 昨日とまったく同じだった。何の前触れもなくメルは出現した。そして青い目でじっとこちらを見ている。ボクは立ち上がった。


「昨晩はありがとうございました。わずかな間でしたが快適な夜を過ごせました。それで、今日もプリンをお望みなのですね」


 顔を綻ばせてメルが頷く。大好物なのだろう。


「わかりました。買いにいきましょう。でもお願いがあります。一つで許してくれませんか。高校生の財布は一晩にバケツプリンを二つ買えるほど豊かではないのです」


 メルは少し残念な表情になったがそれでも頷いてくれた。胸を撫でおろす。


 それからは昨晩と同じだった。コンビニでプリンを買い、公園でそれを食べ、家まで二人で歩き、玄関で別れたはずのメルが二階の自室に姿を現わす。声の無い歌。動き出すエアコン。半分夢だと思っていたが、ここまで昨晩とそっくりでは全て現実と認めざるを得ない。


「メルさんって人間じゃないですよね。いったい何者なんですか」


 尋ねても答えてはくれない。愛らしい笑顔で首を傾げるだけだ。そして窓に近寄り遠くの三笠山と月を眺めている。まるでそれが自分の故郷であるかのように。

 ボクはボールペンとノートを持ってメルに話し掛けた。


「話すのが嫌なら字で書いて教えてくれませんか」


 メルは意外そうな表情をしたが、すぐに頷くと紙とボールペンを受け取って真剣な眼差しで何かを書き始めた。ようやくメルの正体と目的が明らかになりそうだ。期待しながら書き終わるのを待つ。やがてメルが紙を差し出した。


「えっ……」


 驚きと失望。そこに書かれていたのは文字ではなかった。下にはこんもりとした山。上にはまん丸い月、書かれているのはそれだけだ。


「これって三笠山と満月ですよね。どういう意味なんですか」


 と尋ねてももちろん返事はない。首を傾げて微笑むだけだ。言葉は知っているが文字は知らない、ということなのだろうか。


(何が言いたいんだろう)


 もう一度メルが描いた絵を凝視する。単純な構図ではあるが相当な画力だ。白黒写真のように正確で奥行きのある風景が描かれている。考えてみればメルが姿を現わすのはいつでも月が昇っている時だけだ。


「ねえ、メルさん。もしかして君と月は何か関係が……」


 紙から顔を上げて話し掛けたボクの言葉は最後まで続かなかった。メルの姿は消えていた。窓の外を見ると十六夜の月はいつの間にか雲に隠れていた。


 次の日の夜、ボクは公園に行かなかった。夕涼みしたくなるほど蒸し暑くはなかったからだ。


「まさか直接部屋へ来たりはしないだろう」


 今夜の月の出は昨日よりさらに五十分遅い。風呂に入ってネットをしながら短い夏の夜を過ごす。開け放しの窓の外を見れば三笠山の上に月が顔を出している。ぼんやりとそれを眺める。


「んっ、なんだ?」


 室内に低い振動音が響き始めた。同時に冷風が吹き付けてきた。エアコンが稼働しているのだ。


「まさか!」


 視線を窓から室内に向けるとそこにはメルが立っていた。胸の前で両手を合わせ、わずかに顔を仰向けにして唇を開いている。チョーカーに付いている宝石の輝きは徐々に鎮まり、いつものように大きな青い瞳でボクを見つめる。


「いきなり来るとは思いませんでしたよ。でも困ったなあ。プリンを用意してないんです」


 メルは少し怒った顔をすると指を二本立てた。


「明日、二つ用意しておけ、という意味ですか」


 メルは頷くとドアを開けずに部屋を出ていった。まるでドアに吸い込まてしまったかのようだ。慌ててドアを開ける。廊下に姿は見えない。窓の外の月は雲に隠れず空で輝いている。月光が消えずとも姿を消すことはできるようだ。


 それからもメルは毎日やって来た。来る時間はマチマチだ。深夜に来ることもあれば早朝目が覚めるとベッドの横に立っていたこともある。部屋ではなく昼間の図書館に現れたこともある。しかしいずれの場合も月の出から月の入りの間に限られていた。月が空に昇っている時間でなければ姿を現わせないようだ。


「いや、これ以上してもらうことは何もないですから」


 エアコンの修理が済んでもメルはボクにお礼をしたがった。断ってもあれこれ指差して、何かして欲しいことはないかと問うように首を傾げる。何かするまでは決して帰ろうとしないのだ。


 仕方が無いので本棚から本を取ってもらったり、ベッドの布団を整えてくれるように頼む。すると嬉しそうに両手を合わせ、黒いチョーカーの宝石を光らせながら声なき歌を歌う。そしてボクの願いを叶えると満足した顔で姿を消す。


 ただひとつ、メルにできないことがあった。虫だ。家が古いこともあって夏になると必ずゴキブリが出る。今日はメルに何をしてもらおうかと考えていると、見慣れた黒い楕円形が壁にへばりついていた。


「ではメルさん、あれを退治してくれませんか」


 とボクが頼むとメルの顔が一瞬で青ざめた。そしてこれまで見たこともない勢いで頭を横に振り始めた。よほど嫌いなのだろう。


「不思議な力を持っていると言っても、やっぱり女の子ですね。じゃあボクが始末しますから別のことを頼みます」


 安堵の表情になるメル。初めて可愛いなと思った。


 こんな日々が続くうちにボクはあることに気付き始めた。歌い終わったメルの体はまるで電圧が低下した豆電球のように薄く、おぼろげな姿になるのだ。


「メルさん、もしかして無理して歌っているんじゃないですか」


 メルは頭を振って否定するがボクにはそうは思えなかった。それがはっきりしたのは怪我をした時だ。趣味のペーパークラフトでカッターナイフを使っていたボクは、うっかりして左手を傷つけてしまったのだ。


「うっ、やっちまった」


 数分前に姿を現わしていたメルは慌ててボクに駆け寄った。結構深く切ってしまったようで血が溢れてくる。


「とにかく止血しないと」


 救急箱はリビングにある。急いで部屋を出ようとした。が、メルがそれを止めた。ボクの左手を両手で挟み、胸の前に掲げて無言の歌を歌い始める。チョーカーの宝石が輝く。痛みが和らいでいく。あの不思議な力で傷を治してくれているのだ。


「ああ、メルさん、ありがとう」


 だがボクの感謝はすぐに焦りに変わった。メルの顔に苦悶の色が浮かび始めたのだ。同時にこれまでにないほど姿が薄くなり始めている。


「メルさん、もういいよ。無理しないで」


 ボクはそう言って無理矢理左手を引き抜いた。傷口はほとんど塞がっている。メルの息が荒い。やはり怪我の治癒には尋常でないほどの力を使うのだろう。


「待っていて、すぐにプリンを持ってくるから」


 部屋を出てキッチンへ直行する。冷蔵庫にはスーパーで買いだめしておいたプリンが大量に貯蔵されている。その中から三つを掴んで急いで部屋へ戻る。


「食べて」


 三つのプリンは一瞬でメルの口の中へ消えた。若干メルの姿が濃くなったような気がした。


「ねえ、メルさん。いつまでもこんなことを続けているわけにはいかないよ。そろそろ教えてくれませんか。メルさんの目的は何? どうしてこんなになるまでボクに尽くしてくれるんですか」


 メルは窓の外をじっと見ている。そこから見えるのは三笠山。メルはいつでもその山を見ていた。


「三笠山へ行きたいんですか」


 頭を横に振る。当たり前だ。メルは神出鬼没。行きたいのなら自由に行けるはずだ。ということは三笠山へ行かねばならないのは、つまり……


「もしかして、ボクに三笠山へ行って欲しい、そう思っているのですか」


 小さく頷く。そうか、それならそうと、もっと早く言って欲しかった。


「わかりました。じゃあ今すぐ行きましょう」


 メルが頭を横に振る。行って欲しくないようだ。こうなると訳がわからない。

 困惑したまま黙っているとメルは本棚を探し始めた。適当に挟んである紙を引っ張り出す。それはメルが姿を現わして二日目に作った山と月が描かれた紙だ。ボクの前に紙を突き出すとまん丸の月を指差す。これが重要だと言わんばかりに。


「それは、満月?」


 メルが頷く。


「三笠山へ行くのは満月の日じゃなきゃ駄目、そう言いたいんですか」


 大きく頷く。やっと理解できた。ボクの元へ毎日通っていたのは、単に次の満月の日を待っていただけなのだ。ネットで調べると三日後が満月だ。


「じゃあ、次の満月の夜、一緒に山へ行きましょう」


 メルは満面に笑みを浮かべて頷いた。


 三日後、ボクとメルは三笠山へ向かうバスの中にいた。ボクらの他に乗客はいない。メルは窓の外に浮かぶ満月を眺めている。


(三笠山に何があるんだろう)


 不意にバスが揺れ始めた。今、走っているのはカーブの多い崖沿いの道だ。しかしそれを考慮してもこの揺れ方は尋常ではない。

 不安に駆られたボクは席を立って運転席を覗き込んだ。前を向いているはずの運転手はハンドルの上に顔を突っ伏している。


「ど、どうしたんですか!」


 急いで運転手の体を起こそうとした。しかし全てが手遅れだった。対向車のヘッドライトとクラクション。迫って来るガードレール。衝撃音、落下していく感覚。


「メル……」


 時が止まったかと思った。床に倒れたボクの目に映ったのは宙に浮かんで無言の歌を歌うメルの姿だった。黒いチョーカーの宝石は今までにないほど激しく輝いている。その輝きとは正反対にメルの姿は急速に薄れていく。ボクは窓の外を見た。崖の地肌がゆっくりと下へ動いている。落ちていたはずのバスが上昇している。メルが力を使っているのだ。


「メルさん、やめてください。こんな使い方をしたらそれこそ消滅してしまう」


 メルは歌を止めなかった。薄れていくメルの姿。チョーカーの宝石さえもその輝きを失い始めた。そうしてバスが元通りに崖上の国道に戻った時には、もうメルの姿はなく、ただ黒いチョーカーだけが床に残っていた。

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