月夜草の歌

沢田和早

満月の夜の出会い

 それは真夏の夜の公園だった。


 高校に入って最初の夏休み、電気料金など気にせず毎日エアコンをフル稼働させていたせいだろう。夕食後、自室で寛いでいると突然冷風がストップした。故障だ。メーカーに連絡した母親からはつれない言葉が返ってきた。


「修理は三日後ですって。それまで我慢しなさい」

「この熱帯夜に三日間もクーラー無しで過ごせってか! 無理だよ。熱中症になっちゃう」


 両親とボクの三人が住む我が家にはエアコンが二台しか設置されていない。ボクの部屋と両親の寝室だ。


「この機会にリビングにもエアコンを置こうよ。そうすれば真夏の昼食も快適に食べられるし」

「我が家にそんな余裕はありません。はい、これ」


 そう言って母がボクの前に置いたのは扇風機だ。仕方なくそれを受け取って自室に戻る。窓を全開にしてスイッチをオンにする。


「こんなものでもないよりマシか」


 扇風機の風が生温かい。窓からはそよ風ひとつ吹いてこない。しばらく我慢して読書をしていたが、一時間も経たないうちに我慢できなくなった。


「ちょっと涼んでくる」


 ボクは外へ出た。歩いて十分の場所にあるコンビニでアイスを買い、そこから二分の場所にある公園のベンチでそれを食べる。この時刻でも七月末の夜気は生温い。それでも部屋にいるよりは快適だ。


「今日は満月か」


 少し南寄りの東の空に真ん丸な月が浮かんでいる。その下に暗い影となって夜の闇に沈んでいる三笠山。ボクはアイスを舐めながら月の表面の模様をぼんやり眺めていた。その月の模様が不意に女の子の顔になった。


「えっ……」


 いや、違う。ボクと月の間に女の子が割り込んできたのだ。大きな青い瞳がこちらをじっと見つめている。


「あの、何か用ですか」

「……」


 尋ねても返事がない。彼女の姿をまじまじと眺める。年はボクと同じか少し上のようだ。公園の街灯に照らされた銀色の髪。白いワンピース。喉元に宝石を付けた黒いチョーカー。どう考えてもこの国の人間には思えない。


(どうやら外国人のようだな。きっとボクの言葉も通じていないのだろう。これは無視するのが一番だな)


 無言の少女をそのまま放っておいてアイスを舐め始める。彼女はじっとこちらを見ている。何も言葉を発しないのだが、アイスを舐めるたびに吐息のような声が聞こえてくる。


(食べにくいな)


 ボクは彼女に背を向けた。するとボクの正面に回り込んできた。そして口元に指を当てて、アイスを食べるボクじっと見ている。ここまでされては無視できない。言葉が通じないとわかっていても一応訊いてみる。


「えっと、もしかしてアイスを食べたいんですか」


 彼女はコクリと頷いた。言葉が通じたのか、あるいは言葉を介さずにボクの意図が通じたのか、この状況ではどちらとも判断できないが、とにかくアイスを食べさせてやれば満足してボクから離れてくれそうだ。


「じゃあ、付いて来て」


 アイスを食べながらコンビニへ向かう。彼女は素直に付いて来る。姿形は立派な大人だが、行動はまるで幼稚園児だ。


(変な外国人娘に目を付けられたもんだ)


 コンビニに入るとカゴにペットボトルのお茶を入れた。自分用だ。それからアイス売り場へ向かう。先ほど買ったアイスを手に取り、これでいいかと尋ねようとしたが彼女はいない。どういうわけかスイーツのコーナーにいる。


「あの、アイスはこっち……」


 と言いかけて絶句した。彼女は両手にプリンを持っている。内容量五百gのバケツプリンだ。それを左右の手に一つずつ持ってニコニコと微笑んでいる。


「アイスじゃなくてプリンがいいんですか」


 大きく頷く彼女。四百円のプリンが二個。もちろん金はボクに払わせるつもりなのだろう。この出費は痛い。どうしてこんなことになったんだろうと思いながら、会計を済ませて外へ出る。

 公園へ戻りベンチに腰掛けてペットボトルのお茶を飲む。彼女もボクの横に座ってレジ袋からプリンを取り出した。


「じっくり味わって食べてくださいね」


 と言い終わらないうちに彼女はプリンを食べ終えてしまった。いや、飲み込んだと言ったほうが正しい。呆れていると二個目も同様に一気呑みしてしまった。どうやら彼女にとってプリンは食べ物ではなく飲み物のようだ。


(これだけの大食漢でありながら、これだけのナイスバディを維持しているとは、基礎代謝が並外れて高いのだろうか)


 と、どうでもいいことを考えながらボクは言った。


「これで用は済みましたね。じゃ、ボクは帰ります。あなたも気を付けて帰ってください」


 飲みかけのペットボトルを持って立ち上がる。彼女も立ち上がる。公園の出口へ歩き出す。彼女も歩き出す。家へ向かって歩く。彼女もボクの後ろを歩いている。


「ちょっと、どうして付いて来るんですか」


 と言っても返事はない。やがて家に着いてしまった。


「今度こそさよならですよ。もう夜も遅いし、早く帰ったほうがいいですよ」


 素早く中に入りドアを閉める。そのままドアに耳を当てて外の様子を伺う。叩いたり、取っ手をガチャガチャする音は聞こえない。

 覗き窓で確認すると彼女の姿はない。見知らぬ他人にプリンを奢らせる厚かましさはあっても、さすがに家の中にまで押し入るような無作法な人物ではなかったようだ。


「無駄な金を使わせられたけど、そこそこカワイイ女子と一緒に時を過ごせたわけだし、良しとするか」


 それなりに納得して二階の自室へ戻る。暑い。いつものようにきちんと窓を閉めて外出するんじゃなかった。部屋の灯りを点ける前に窓へ直行して開ける。生温い外気が網戸を通して流れ込んでくる。


「今日の満月は明るいな」


 外気と共に月光も部屋の中へ流れ込んできた。窓からは三笠山が見える。その上に浮かぶ丸く黄色い月は彼女が食べていたプリンのようだ。しばらく月景色を楽しんだ後、部屋の灯りを点けようと振り向いたボクは息が止まりそうになった。


「う、嘘だろ……」


 彼女だった。ぼんやりと月明りに照らされた部屋の中に彼女が立っていた。いつ、どうやってこの部屋に入り込んだのか、さっぱり見当が付かない。


「どうしてこの部屋にいるんですか!」


 無駄だとわかっていても尋ねずにはいられない。そして思った通り彼女からの返事はない。が、今回は少し違った。口が動いたのだ。声を発することなく、ゆっくりと同じ動きを何度も繰り返している。月明りの中でその動きを読む。


「お、れ、い……お礼、そう言いたいのですか」


 彼女が頷く。どうやら言葉は完全に理解できるようだ。何らかの事情で声を出せないだけなのだろう。


「お礼って、もしかしてさっきのプリンのお礼ですか」


 またも頷く。厚かましい女子だと思っていたが、それなりに恩義は感じていたようだ。


「別にお礼なんていいですよ。それよりも出て行ってくれませんか。そもそもどうやってこの部屋に入り込んだんですか」


 返事はない。立ち去ろうともしない。アイスを舐めていた時と同じように、大きな青い目でこちらをじっと見つめているだけだ。


(いったい何を考えているんだ。何をしたいんだ、このは)


 エアコンが使えなくてただでさえ暑いのにますます暑くなってくる。息苦しさを感じながら愚痴るようにつぶやく。


「暑いなあ、今夜も熱帯夜かな。もう少し涼しくなるといいんだけど……」


 彼女の青い瞳が輝いたように見えた。両手が胸の前で合わせられ、赤い唇が滑らかに動き始める。


「これは……歌、歌っているのか」


 声は聞こえない。しかしボクは感じていた。部屋の空気が、差し込む月明りが、彼女の唇の動きに合わせて揺れているのだ。揺りかごで眠る赤子のような安らかな感覚がボクの体を包む。不意に、低い振動音が部屋に鳴り響いた。同時に冷風が肌に吹き付ける。


「まさか!」


 エアコンだ。壊れていたはずのエアコンがスイッチも入れていないのに勝手に動き始めたのだ。ボクは彼女を見た。もう歌ってはいなかった。先ほどと同じように大きな青い瞳でボクを見ている。


「エアコン、あなたが動かしたんですか」


 頷く。ボクはさらに尋ねる。


「あなた、いったい何者なんです」


 彼女の口が動く。め、る、め、る、その二語を繰り返している。


「メル?」


 頷く彼女。部屋が少し暗くなった。窓から差し込む月明りが弱くなったようだ。ボクは部屋を横切ると、入り口にある照明のスイッチを押した。室内が真昼のように明るくなった。


「それでメルさん、あなたの目的は……」


 ボクの言葉は途中で消えた。部屋の中にメルはいなかった。まるで最初からそこには誰もいなかったかのように。


「夢でも見ていたのかな」


 答えを探し求めようと窓の外を見る。三笠山の上に浮かんでいた月は雲に隠れて見えなくなっていた。

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