三章

《10》猶予

―君は何ができる?―


なんだ……?


―皆が君を必要とする。それは今だが、今だけじゃない。君がいるべき場所はここでは……―


何を言ってる……?どこだ?……暗くて、縛られてる。僕は……どうして?


―……キミは、生まれるべきじゃなかった……―






「何をっ!」


 跳ね上がった瞬間に脇腹が引き裂かれるような痛みが体を駆け巡った。思わずうずくまろうとしても体は背骨の隣に芯が通されたようにピンと伸び切って、両腕は後ろに回されて固定されている。叫び声と一緒に大量の息を吐きだして何とか痛みをごまかそうとあがいてみたが結果は芳しくは無かった。


 ……目が覚めたのか?だとするとどれくらい眠ってたんだろう?あの女の声が聞こえなくなってからずいぶん経つ気がする。周りには誰もいない。辺り一面灰色の壁に囲まれた小部屋の中に、僕は1人大仰しい椅子に座らされていた。腕の拘束以外は特に体を縛るものは無いみたいだけど、立ち上がろうと下半身に力を籠めると強烈な寒気を一瞬感じた後にまたあの痛みが体を通り抜けて声を上げる羽目になった。


 狭い室内に自分の声が乱反射する。痛みと騒音で強引ながらも脳内がクリアになってくると、自分がどのような経緯でこんな状況に身を置かれているかを思い出してきた。とはいっても内容は単純だった。誰かの銃口で突き倒された僕に、追いかけてきた警察官の1人が丸っこい何かを張り付けて、僕は意識を失ったというだけの事だった。


「お疲れ様です」


 部屋の中を見回していると角々毎に設置されたスピーカーから誰かが呼び掛けてきた。若い女性の様な声だ。口調の丁寧さと物腰の柔らかさだけで協力的な印象を受けたが、呼びかけから数秒後に入ってきた人物の格好の物々しさにそんな期待もどこかに行ってしまった。

 防弾チョッキの様な分厚い黒ベストを身に付け背中に担がれていたのはショットガン。そして腰に付けられた電磁警棒とインパクトナックルで警戒心の数値がビジュアル化されて直接伝わってくる。


「随分とお静かに過ごしていただいていたので必要ないかとも思ったんですが、念の為です」


 ベストにはエレベーターでも見かけた柊の腕章が付けられていたが、目の前の女性警官と思しき彼女の雰囲気はどことなく連中とは異なっているように思える。どことなくアマチュアというか、そうでなくとも心どこかに抱える困惑が浮き上がって見えているように。


「アンタ、警察の人なのか?」

「聞かれた事にだけ答えるようにしてください。今現在では貴方に対してあらゆる手段での聴取が認めらています。少しでも抵抗の意志が確認された場合、貴方のみの安全は保障できなくなりますので、そのつもりでお願いします……」


 頼まれなくったって行動なんかできる状態じゃないことくらい分かるはずだろ。と言ってやりたい気持ちだったが、そのように僕を脅す彼女の声や表情にはどうにも後ろ暗いものが混じっているように思う。素人が感じるのだから傍から見れば明らかなレベルなのだろうけど、何故かそんなことを考える余裕すら僕に生まれる程に、目の前の警察官にはが溢れていた。


「……僕に何が聞きたい?」

「今夜の東京抗団による襲撃の本隊。その位置と戦力です」


 人は驚いた際に「目が点になる」というが、質問を聞いた時の僕はさながら「耳が点になった」と言えるくらいだった。

 東京抗団とは何者だ?名前からして何かしらの危ない活動をしているグループだろうが、どうして一介の雑誌記者である僕がその団体の情報を聞き出されてるんだ。それもこんな暗がりの密室、こんな非人道的な拘束までされて。


「ハッキリ言ってゆっくり聞き出そうとは思っていません。その為にあなたをそんなもので縛っているんです。合図を出せば今度もまた身を裂かれるくらいの痛みを味わうことになりかねません!」


 正直に自分の現状を話しても理解してくれるとは思えない。だがまるっきり身に覚えのない事件の関係者として扱われるのは他人に心臓を握られていることと同じくらいに面白い事ではないのも確かだと思う。


「……っ!少し外します。どうかよく考えて……」


 粗雑なブザー音が部屋の中で響きそれを合図に彼女は退出し、狭くて鉄臭い小部屋の中で再び僕は1人きりにされた。

 くそ……唯一頼りにできるかもしれない子島は一回もこっちの呼びかけに答えない!通信用のグラスが残ってたのは幸運だったけど、どれ程コールを鳴らしても奴が出るとこは無かった。


 どうする……。今は何かしらの理由で監視されていないとしても、もし警察かそれらしい連中に捕まっていることが分かれば、多分僕は用済みだろう。さっきの彼女が部屋に戻ってきたときに見るのは感電死体になっているかもしれない。

 今得策なのは、僕の置かれている状況を素直に話して保護を求めるくらいだと思う。けど信じるか?向こうが(全く理解不能だが)僕の事をテロリスト的な連中の仲間だと思い込んでいるなら多分どんな身の上話も一蹴されて終わりだろう。どうする!


「……ってください!そんな処置を急ぐことありますか!」

「事態は一刻を争う!最悪の事態を招く前に、最善の方法を取るべきです」

「本当に何も知らない可能性だってあります。後になって間違いだったなんてことになったらどうするんですか!?」

「どの道、終業令後に配線区画をうろついていた時点で不審人物なんだ!どけここからは代わる」


 考えを巡らせていると部屋の外から何やら言い争う声が漏れ聞こえて近づいてくる。そして先に入室してきたのは先程とは違うスーツの男。腕章から判断して彼は特警の人間で間違いないだろう。目元を覆い隠すバイザーとマスクで顔全体を覆い隠し、手には耳あての様なものを持っていた。


「搬送ポッドと車両を手配しろ。上からの増援要請が激しい。生かしたまま連行する必要がある電圧は抑えろいいな」

「待って!!!」


 スーツの男の前に立ちはだかったのは先程のベストの彼女。視界の7割が彼女の背中に埋め尽くされてはいるがその正面で構えているものが拳銃である事は見えなくても分かった。何やら空気が怪しい。


「何の真似だ?」

「上にバレて後々面倒なのはお互い様のはずです。……こっちに時間をいただけませんか?」

「こちらは正規の作戦要項通りに行動している。お前の上司に確認してみろ!」

「ならその為にもまだ待ってください。撤収予定には余裕があるはずですよね……」

「……3分だ」


 渋々承諾した男が退出し室内は最初の構図に戻る。彼女は乱れた息を整えた後にこっちに向き直り口を開けるが言葉を発する前に再びその口を閉じた。そして「待って」と言いたいのか黙ってこちらに人差し指を立ててサインの様なものを送ると、目を閉じて考え事をするかのように黙ったまま動かなくなった。


「(皮膚電子通信?)」


 さっき言っていた上司への連絡なのだろうか?30秒くらいの間沈黙は続き、途中しわの寄った眉間が微かに動くのが見えるとそのすぐ後に彼女が目を開ける。少し疲れたような表情を浮かべつつ深呼吸を1つ。表情には多分に不安感が含まれていたが僕に視線を向けた途端にその表情はニュートラルなものに変わり、彼女が右手で壁の操作パネルを少しいじくると体をこわばらせていた背中の芯が急速に緩み、急な脱力感で崩れ落ちそうになった僕の身体を彼女は音が出ないようにそっと抱きかかえてくれた。


「……何したんだ?」

「静かに……。身動きは出来ますがまだ自由が効かないはずです。ここを離れます、離れないでください」


 こっちに囁きかけながらも動かす右手をそのまま操作を続ける。警告のブザーが小さく聞こえたような気がした次の瞬間、部屋全体が激しく揺れた後、上昇を始めたのか強い力で床に押し付けられた。


「何したんだ!?」

「落ち着いて!」


 おおよそ3メートル四方の部屋は明らかに3次元的な動きをしながらあちこちに進路を変えつつ移動している。ここはどこなんだ?僕をどうするつもりで彼女はこんなことをしてる?そんなことを考えているとなにやら天井の壁面越しに連続した強い衝突音が響き始めた。


「なんだ!?」

「威嚇射撃です!落ち着いて、中には届かないはずですから」


 女性警官の言葉通り衝撃音と同時に天井は点々と天井がこちら側に盛り下がってくるがどれも穴が開くところまではいかない。次々と生まれるは天井から壁面、そして床下からとこちらの進む方向に合わせて移り変わっていくが、次第にその数も大きさも少なくなっていく。


「そこにいて!」


 立っていられず床に這いつくばっている僕にそう呼びかけ、女性警官は操作盤の真下にあった赤いボタンを叩き押すと部屋は急停止する。慣性がモロに伝わって床を転がる僕の肩を抱え起こし、唯一の出入り口を開けて外に出てみると視界の先に広がる世界はとても古ぼかしいものだった。

 深い赤茶色で塗りつぶされた広大な空間。重鉄鋼用の移動式溶鉱炉が悠々と出入りできるほどの大きさのゲートがいくつも並んでいる。耐用年数落ちのクレーンアームとベルトコンベアが処分もされずに隅々に放置されていることから考えて、どうやらさっきまで乗ってきたのはコンベア駆動のレンタルコンテナだったらしい。


「少し走ります。付いてきてください」

「その前にこの腕をどうにかしてくれ!」


 背中側に回されて固定された両腕を彼女に差し出そうと後ろを向いた瞬間、こめかみの数十センチ横をシュッと横切る感触が伝わった。真正面のはるか前方に人影が数人分現れたのを見て僕の勘と彼女の知見は一致する。


「追手だ!」

「こっちに!」


 威嚇というには流石に危険すぎる弾道から今度は自分の足で逃げることになる。一緒に逃げる彼女に手を引かれて走っているがこれが尋常ではなく早い!100メートル走用の全力疾走の倍ほどの体感スピードを維持しながらクレーンの横や、停止したコンベアの通るアーチをくぐり、放置されたロボットアームを押し退け、さっきまでの広場から狭くて長い事務エリアに入ると、奥の奥に位置する一室に駆け込んで彼女は懐から取り出したペン状の小型トーチで扉を溶接した。


「じっとしてて下さい」

「行き止まりだぞ。どうするんだ?」

「安心して、大丈夫ですから」


 そう言って彼女は部屋の壁面に掌を当てる。何かを探るように慎重に壁を伝わせながら部屋の一番奥に行きつくと、何かを発見したような素振りを見せて再びトーチで壁を切り裂き始めた。


「もっと早く切れないのか?」

「明るさが増して目立っちゃうので、これが限界です。大丈夫ですよミスター、必ず助けますから」


 変な呼ばれ方が気になったがどうやらじっとしてるしかないのは本当らしい。

 ここでアイツらに見つかったらどうなるのだろう……?そもそも何で僕がそんな疑いを掛けられてるんだ?昨日まで一会社員として真面目に働いてきたっていうのに……。


 思えばあの夢から覚めてからというもの今日は理不尽の連続だ。どうしてこんな世界に僕の周りは変わってしまったんだろう……。付いたため息も上滑りするくらいに今日という1日に経験した事実が僕を苦しめる。そして、階層の最後に思い浮かぶのは決まってあの夢の中の瞳だった。


(あいつ、今どうして……)

「!?伏せて!」


 思考を遮って叫んだ女性警官に頭を押さえつけられて床に押し倒されると、頭上を走ったのは煌びやかにも見える銃撃の軌跡だった。明らかに過剰なレベルの威嚇射撃を終えて扉が蹴破られると床に2人分の足音が伝わってきた。


「あぁもう!調子乗ってぇ!」


 僕に対してマウントを取る形で体を庇いながら初めて感情を露わにしたように彼女が憤り、腰に付けた筒の様なものをテーブル越しに放り投げた。軽めの爆裂音と同時に彼女は立ち上がると足音の元へと飛び掛かっていき、ナンパ塚野打撃恩徳門の声が聞こえると部屋の中は再び静かになった。


「大丈夫です!立ってください!」


 起き上がって目にしたのは床に倒れ伏して息も絶え絶えな2人の警官だった。彼女が1人でやったのか?!


「行きますよ!」


 起きがけの身体を引かれて一緒に作りかけの穴に向かって走り出す。女性警官は勢いそのままに切断面を縁を思いっきり蹴り飛ばし、ひしゃげて広がった穴を身をかがめて通り抜ける。奥に広がっていたのは配管がひしめき合う作業用の通路だ。鼻の奥を鉄と錆の匂いが刺激しつつ、所々に広がる水たまりを踏みつけながら強引に歩を進めるといくつかの分岐した通路が視界に広がったのだがどうにも見覚えがある。そう、そこは今僕の手を引く彼女に吹き飛ばされて気を失ったあの通路だったのだ。


「……道は覚えてますか?」

「どこへの?!」

「降りてきた方です!」


 問答の途中で後ろから新しい足音が聞こえ始めると握る手を引く強さがさらに強くなる。直線の道は様々な方向に分岐路が伸びていて通り過ぎ様に目を向けるとその奥でも2、3本の通路が分岐していた。


「――――っつ?!」


 不意に手を離されて勢い余って前につんのめりそうになった。女性警官は僕の後ろに回って走ってきた方向に対して向き直ると背中に背負っていたショットガンを構えてガシャッと銃弾を装填した。


「時間を稼ぎます。迎えがいるはずですから地上に上がってください」

「迎え?」

「早く行って!心配なさらずに!」


 そう言って彼女が向ける銃口から火花が上がった。眩しさと轟音に顔を背けると同時によろめきながらも僕は言われた通りに1人で走り出した。


 正直言って道は全く覚えてはいない。だけど曲がりくねるように続く通路を走るうちに床や壁に張り付く錆の色が次第に元の銀色を取り戻してきたことに気づきそのまま走り続けると、曲がり角をいくつか経由してとうとうエレベーターのドアが視界の端に映った。

 息を切らしながら上昇ボタンを右手で叩きつける。運良く4階下に下降中の箱があるらしく到着まで1分と表示された。


「はやく……、早くしてくれ」


 電飾が1つ進むごとに後ろを振り返るが散発的に聞こえる銃声以外に視界に入ってくるものは無い。彼女の足止めがうまくいっているようだ。

 


「頼っていいのか?」


 決断はできない、だけど体は動く。到着した箱の中で押した階層は地上1階。絵に描いた餅ならぬ言うだけの助けを追いかけ続けてこんな羽目に遭っている身としてはどんな旨い話も信用するのは怖い。そもそも僕は何の因果で自分が追われているのかもまだ分かっていないんだ。

 

「あぁ、くそ……」


 考えているとまたあの瞳が浮かぶ。今日という1日の始まりに怖さと優しさを僕に押し付けるように与えてきたあの瞳。今の僕と同じように息を切らしながらおびえたように他人を励ますあの声を思い出すと何故か息をするのがほんの少し楽になる。


 変に考えすぎるのは止めよう。相手は警察だ、仮にも法治国家の自治組織が公衆の面前で民間人を射殺なんてするというのは考えにくい。ここは、今度こそは上にいるという「助け」を頼りにできると信じ、今はこの上昇運動に身を任せようと決めた。



#################



 赤い光点が終点に到達する。気圧の調整の為に扉が開くまでに少し時間がかかっている間が自分の覚悟を決める為のロスタイムのように思えた。

 迎えというのはどこにいるんだ?地上に出たら自然に分かるような場所か?それとも向こうからやってくるか?


 減圧が終わり開閉を知らせるランプが点灯し扉が開く。取り敢えず走り出すつもりで身構えていた僕の五感を最初に刺激したのは、凍り付きそうな激しい夜風と鼻腔一杯に広がる煙臭さだった。


「どうしたっていうんだ……!?」


 見慣れた景色、街並みを彩っていたのは煙の匂いと暗闇を照らす炎のあかね色、パトカーと救急車の二重奏にビルの間から顔を出す発砲音。

 昇降ステーションの周りのビル街には人影は無い。僕が一眠りしていた間に異世界に飛ばされていたのでもなければ今は多分、帰宅令の規定時間過ぎ、大体21時から23時の間だろう。それにしてもこの喧騒は異常というほかない。


「おかしい、こんなの……」


 現実を直視できずに立ちすくむ僕の耳に新しく届いてきたのは次第に音量を増していく1つのサイレン音だ。


「そこ!ステーション前の!」


 片耳一杯に響く拡声器の声の方向、曲がり角の向こうから現れた1台のパトカーが猛スピードで寄ってきた。車体には多くの焦げや擦り傷が見られるが幸い(?)にも銃弾の痕は見られない。


「こんな時間に何してる!?帰宅令の規定はとっくに過ぎてるぞ!」

「いや、あの……」

「とにかく乗りなさい!ここにいては危険だから!」


 交番勤務の制服に身を纏った中年の男性警官に乱暴ながらも促されて後部座席に体ごと倒れこむように突っ込むと、車体はフルスロットルで走行を始めた。慣性制御が働いていたので体には負荷は無かったものの、曲がりくねるビル街の道から大通りまでの運転に従って流れる外の景色に目線を奪われて吐き気が込み上げてくる。


「んん”!……こちら丸木こちら丸木、 碧南へきなん署応答願います!安城市24番昇降所付近を徘徊中の市民1名を保護。豊田市外にまで移送後に警戒に戻る。……カード出して!」


 防弾仕様の透明な間仕切りの下からにゅっと下手が差し出されてきたけど、生憎そういう都合の良いものは持ち込んではいないはずだ。だが探さずに持っていないと言うことで変に疑われたくは無いので一応身体をまさぐるポーズをとってみる。ボトムからトップスまで全身のポケットをまさぐって何もないことを確認したが、その時僕はそこにしまっておいた物までない事に気が付いた。


「(写真が無い!?)」


 何でそんなことすら思い至らない?!そもそも怪しまれるきっかけになったような写真を押収されないはずなんてないんだ。胸ポケットにもボトムスの内ポケットにも、果てには靴の中敷きまで引っぺがして探してみても紙切れ一枚見つからなかった。

 慌てたように全身の衣服を裏返して探す様子をバックミラー越しに見て丸木と名乗った警官は 渋々と腕を引っ込めて後で構わないと付け加える。


「普段なら即減点だけど状況が状況だしな。ウチは近いかい?」

「何が起きてるんです!?……東京抗団って人達が暴れてるんですか?」

「キミ市外から来たの?まぁそうなのかな。ここまで大きな暴動は初めてだけどね」


 市外に出ると言いながら高速リニアには移ることなくパトカーは地上路を飛ばし続ける。国道も含め広い道路を避けながら少しずつ都心部から遠ざかっているとパトカーのターミナルが連絡を受信したらしくけたたましく鳴り響く。


「あの!」

「静かにしてて!タダでさえ電波弱いんだから。こちら丸木!よく聞こえない繰り返せ」

――……、―。……――


 最大音量の雑音がヘッドホンから漏れ聞こえるがほとんどは聞き取ることはできなかった。聞き耳を立てていると丸木が急に振り返らないか不安になってきたので素直に背もたれに背中を預けようとしたとき、音漏れの中のある一部分だけをはっきりと聞き取ることができた。


―装甲目標複数、砲撃を停止し下線部へ降下しろ―


「今の何です!?」

「へ、何!?いいから座ってて!」


 仕切り下から伸びた手が虚空を払ったその時だった。車体の下側から伝わってきた衝撃で僕と丸木は一瞬車内の宙に舞い上がってシートに叩きつけられた。2人して打ち付けた頭と尻の痛みに一瞬苦悶した次の間に、慣性制御でも相殺しきれないほどの衝撃を与えてきた原因を車体の左側に確認することとなる。


 丸みを帯びつつ各部に角ばったフォルムを残した装甲板。3本の鋭利な刺突用の爪を備えた腕。下に行くにつれて大きくなっている自身を支える為の2本脚に、真新しい煙を砲口から噴き上げている上部のキャノン砲。自分の頭の中の記憶をたどりそれが一般的に2足戦車と呼ばれていた兵器であることを思い出した。


「奴らこんなところで!?掴まってな!」


 パトカーはアクセル全開で道路を真っすぐ爆走する。先程の衝撃と共に生み出された路面の着弾面の大きさを見た後では、僕でさえその判断は正しいものに思えた。あんなモノが撃ち込まれればこんな車体はいとも簡単に木っ端みじんにされる!運転する丸木警官が車底に穴が開く程に力んでアクセルを踏みつけている背後では戦車はこちらを真正面に捉えて構えをとっているように見える。


「掴まれぇぇぇええ!!!」


 ズムッという感触は空気を砲弾が切り裂くものらしい。僕自身がしばらくしてからある人に教わった数少ない知識だ。瞬きをすると辺りは爆発の炎が舞い散りさっきまで窓の下にあった路面は自分たちの真上に広がっている。瞼を閉じる前に僕たちは車体ごと空中で引っ繰り返りながらダイブした。


 意識はある。耳にはほとんどの音が届かず、ただ地響きがシートに固定された背中に伝わってきていた。ハンドルを握っていた彼に絞り出すような安否確認をしたものの返事は無く、動くことのない密室に先程と同じように僕は1人縛り付けられている形になってしまったらしい。


「――!!!……か!?返と……mつ!―」


 耳たぶにチリチリと刺激として伝わってきた音は声。すぐ真後ろで僕らに照準を合わせているあの戦車から発せられているものらしいけど、正直もうどうでもいい。


 なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ。僕は只いつも通りに過ごそうとしただけなのに、僕の周りの世界は今日1日だけで変わってしまった。こんな世界で口だけの希望にすがる為に痛い目に遭わされるのなら、もういっそ諦めてここで眠ってしまおう。その方がずぅっと気持ちが良い……


 重力に従うように瞼が落ちていく。一切の思考を放棄してこの車と警察官と運命を共にした被害者になりかけたとき、耳たぶに同じリズムで伝わってきた刺激が一瞬途切れる。そして再び感じた茂樹はさっきまでとは違う混乱に満ちたものだ。


「……ん‥‥‥つ!?」


 信じられなかった。戦車砲の至近弾できりもみ回転し地面にひっくり返った車体が再び宙を舞ったのだ。それも今度は爆発の1つも無くただ一方向からの力で、それはまるで何かに持ち上げられるような力の伝わり方だった。


「あ”っ!グゥゥ……」


 意識が周りの景色と一緒に鮮明になったみたいだった。タイヤと車体が地面に接触して伝播した衝撃がまた体を突き抜けると、その刺激によって感覚が呼び覚まされて痛みと騒音によって僕の意識は覚醒させられていた。


 目の前にはさっきの大きな2本足。そしてその手前に見えるのが人影だと認識するのには少し時間がかかった。機械仕掛けの2脚の間から覗くシルエット、その四肢はまるで芸術品の様に均整の取れた美しさと動物の様な荒々しさを併せ持ち、その肢体を直線的な硬質感が上書きしている。


 知っている。初めて見たものなのは間違いない。でも僕はあれを知っている。正確にはあれの《本質》を。自分の身体の具合や周りの状況よりもまず頭の中に浮かんだ考えがそれだった。


「―散れぇ!―」


 地面から吹き上がった爆炎が僕の目に映し出される一瞬前に、ソレは地面を蹴って空中に舞い上がった。およそ一飛びで20メートル。大昔のヒーロー番組で語られたような動きを現実に目の当たりにし、爆炎が消えた後にソレを見たのは戦車の上部、新鮮な硝煙が吹き上がる砲身の真横だった。そして次の瞬間は腰を落として握りしめた右手の拳を足元に突き立てる。

 装甲の切れ目から炎が吹き上がったと思う間もなく鋼鉄の2本脚はその体の内部から爆散し、ひしゃげたパトカーの中で僕は自分達を殺しかけた脅威の存在、その変わり果てた最後を目の当たりにした。


「何なんだよ……お前は?」


 燃え盛る炎を背に構え、美しい人影はまっすぐにこちらを見据える。角ばった頭部に備えられた3つのカメラ。その眼光は形や色こそ違うものの僕の脳裏にその本質をしっかりと思い起こさせる。

 だ。紛れも無く、アイツだ。今度ばかりは夢なんかじゃない。背中は軋み、肌は擦り切れて、頭の中では爆音が反響し続けるような苦しみの中でさえハッキリ分かる。そして覆われた顔の上から空色の輝きを放つ3つの眼光は、まるで獲物を見定める猛禽の如くその焦点をこちらに合わせ始めていた。


「排除、開始」

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