《5》展望

「寒い?暖房上げようか?」


 ハンドルを握るその顔に視線を流して表情を伺い見る。さっきまでと同じ、口許にだけ笑顔を蓄えて目線は遥か彼方を見ているような曖昧な顔。返事をして良いものかどうか決めあぐねている内に、車は国道の高速リニアレールに乗っていた。


「そう固くなられると困るなー、私が悪いことしてるみたいじゃない?それ」

「人の胸に電極仕込んでおいてよくそんなこと言えるな」


 胸の表面近くに感じる異物感は次第に薄れては来ているがまだ強い。たとえ外からでは分からない程の小さな金属片でも、それが自分の命を奪うのに十分な力を持っていることを考えれば否が応でも存在感が強くなる。


「違うわよ、スクランブラー。決まった場所で決まった電波を出す為だけの機械。まぁあなたくらいの歳じゃ知らないのも無理ないかもね」


 聞いてもいないことを饒舌に語るその口もさっきまでとなにも変わらない。時々ナビを確認するために目線を外す以外に、体のどのパーツも特定のラインから外れること無く動き続けている。


 高速のリニアレールは入り口の料金所で降りる場所を選択し、そこまでの専用レーンに乗って移動する。その後はスピードと追い越しの管理だけをすることになるのでドライバーはほとんどハンドルを握らずに済むようになる。


 バックモニターとミラーで後続車を2重に確認すると、莎緒子さおこと呼ばれていたこの女は、ようやくハンドルから手を離し車のターミナルコンピューターを使って何かを入力し始めた。


「怖いの?」

「アンタが?それともこの状況が?」

「あの子」


 ……そういえば名前を聞いてなかった。そんなことを気にしていられるような状況でも関係でもなかったけど。夢で出て来た人殺しで現実の命の恩人、なんて複雑で面倒な間柄だろうか。


「逆じゃないか?あっちの方が怯えてたみたいに話してたと思うけど」

「あぁ、あれ癖なのよ。相手の表情から気持ちが分からないから常に探り探りで。でもその様子じゃあの子を恐れてはいないようね」

「?」

「だってのこのこついてきたんでしょ?」


 こいつが言ってること、それが今朝見た夢のことを言ってるとしたら、何故それをこいつは知ってるんだ?あんな質の悪いスプラッター映画みたいな夢、よほど体調が悪くも無けりゃ見る物でもない。当てずっぽうで言っているのだとしたら、何で彼女が出て来たことを知っている!?


「そう、安心したわ。やっぱりあなたを選んで正解だった」

「何言ってんだお前!」

「ここに来る前は何をしてたの?」


 またもや唐突に話が変わる。いや、コイツが変えようとする。真実の欠片の様なものを首元にぶら下げておきながらこっちが食いつこうとした途端にひょいっとお預けを食らうみたいに、不愉快だ。


「ここに来る前。どこで何してたの」





 無味乾燥な部屋の中、慣れない匂いの染みついた布団の上で先程同じ質問をコイツにされた。


子島ねじま莎緒子さおこ……」

「あぁ教えてもらったのね。どうだった?」


 は?


「彼女、どんな顔で私のこと話してた?」

「何の関係がある……、僕をどうするつもりだ?」

「どうするって貴方が逃げたんでしょ。まぁ見られたのはこちらの不手際ね、謝るわ。でも窓と庭を滅茶苦茶にしたのはいただけないわね。どこに請求したらいいのかしら?」


 最初にされた質問に答える機会を逸したまま勝手に話が進んでいく。椅子に座ってこっちを見降ろす相手の瞳には敵意の様なものは感じられない。僕は精神科の専門でもないのではっきりしたことは言えないが。


「まぁわざわざ出向いてくれたんだし、紅茶の一杯でも用意したいのはやまやまなんだけど、あいにく時間がないの」

「自分で来たんじゃない、あいつに連れてこられたんだ」

「でも車に乗ったでしょ?自分の意志で」


 そんなことはないと、口からそのような言葉がこぼれ出る前の一瞬、その反論を反芻して自分自身に投げかけてみた。


 非常事態だった。警官と思しき男が同僚を殺し、麻痺薬を打たれて銃で脅された。そのままだったら僕は連れ去られたのだろうか。暗い倉庫か、人気のない鉱山か、寂れ切った港か。いづれにしろ更に最悪な目に遭わせられていたに違いない。


 でも助けられた、あの赤い目に。そう助けられたんだ、あの時僕は。


 だったら何故ついて行った?危険な印象を持った知らない女の車に。その場で助けを求めることもできただろう。車のあった道路には人通りも少なくなかった。それに彼女は……


「目の見えない女1人、いくらでも逃げだすチャンスはあったのにそうしなかった。それは目的があったからよ。ここに来る目的がね」


 嘘だ。車に乗ったことと目的地がこの家だったことには何の関係も無い。だけどコイツは僕の名前を知ってる。今の仕事も。だとすれば全くの無関係であると決めつけるのは賢くないかもしれない。


「……アンタも、僕に用があるのか?」

「どうしてそう思うの?」

「コレ、手伝ってくれたんだろ?だとしたら話したい何かがあったはずだ」


 シャツの胸元から覗く包帯を見せつける。正直まだかなり痛むけど。地面に打ち付けられたときに脇腹を強く打ったらしく深く息を吸い込むと体の内側がじんじんと熱くなる。


「さっきも聞いたでしょ?何をしてたのか、

「どういう意味だ?」

「その内分かるわ、それよりも貴方にやって貰いたいことがあるの。戸越さん」

「要求ばかりだな、1つくらい質問に答えたらどうだ」


ヤケクソ気味に吹っ掛けてみた。コイツにばかり話の主導権を握られるのは自分の身の為にもよくない気がしたからだ。

 今ここは奴の庭で、僕はどういう訳か自分の意思でここにいるらしい。なら多少の要求は客人として当然の権利だと思う。


「……貴方がここに来た理由、さっきあの子に言った事とは違うわ。あなたがここに来たのは私に助けて貰うため。そして私はその対価として、貴方にこれから働いて貰うの」


 そう言った直後に懐から何かを取り出すと、奴はいきなりそれを僕の胸に押し当ててきた!


「ぐっ!」


 先端にチクリとした刺激を感じ反射的に両手で奴を押し退けた。「何するんだ?!」という訴えを口から発する前に、胸の浅いところに熱いものが広がっていくのが分かった。


 「スクランブラーよ、昔ならGPSとも言うかしらね。貴方のコンディションや位置を教えてくれるものなの」

「何のつもりだ!」

「保険よ、それと約束も兼ねてね。私のインプラントにリンクしてるから変なことしない方がいいわ」

「どうなる?」

「微弱な電気が流れる。周りには害の無い程度のモノだけど、心臓の動きを止めるには十分なものよ」


 どうかしてる!スペクタクル映画の見すぎじゃないのか!人間の胸にそんなもの仕込むなんて、今時中東の過激派でもやらないぞ。


「起きて。のんびり話してたけど時間はあまりないの。車に乗るわ」

「誰が……!」

「素直に聞いて。あの子への言い訳は難しいんだから」


 助けを求めた?コイツに?冗談言うな!そこまで僕は錯乱してない。


 「部屋を出たら、あの子の前ではサンミン新聞の戸越誠二さんでいて。無用な考えを増やさないように」

「……随分大事にしてるんだな」

「それはそうよ……」


 扉に手をかけ軽く笑いながら話すその視線の先、こっちを向いているはずなのに僕を見ていないその目が僕には酷く不気味に思えた。


「大事な商売道具だもの」





「記者……記者だよ。別に変わらない」


 窓の外、凍てついた秋の夜空の下に広がる遠方の光群こうぐんを見下ろしながらの返事。気付けば市街の明かりは広げた掌には収まらないほどにまで大きくなっており、僕は再び都心に戻ってきていた。

 時刻は17時12分。民間の会社の就業限界時間が迫ってきている為、今頃はどのビルの中もあわただしく人々が働いているのだろう。昨日までは僕もあの中に……


 ん?


「そろそろ一般道に下りるわ、準備しておいて」

「何を?」

「今都内は厳戒態勢になってるの。昨日の港での騒ぎで市街のあちこちで騒ぎが起きてる。特警達が出張ってるのもそのせいよ」


 特警?聞き慣れない言葉だ。


「警視総庁特務第一課、国家レベルの非常事態時に出動するエリート達よ。現場での独立行動権や逮捕状無しでの実力行使も許されてる。所謂お巡りとは活動する次元が違うわ」

「僕は捕まるようなことはしてないぞ」

「えぇでしょうね、でも貴方を捕まえたいのは何も警察そのものじゃない」


 今朝の記憶がよぎる。弾けた脳梁が地面に飛び散ったビジョンまでしっかり記憶してしまっていることを今更後悔した。しかしあの彼女赤い目の女に聞いたとしても何故コイツは僕自身が特定の個人として追われているのだと断言できるのだろうか。


―目的地近づきました、一般道へ移行します―


 自動音声がターミナルから流れ、車は移行ルートを下って一般道への道を下りだした。出口に設置された車種ごとの専用ルートでリニアモードから車輪での走行に移行し、ビル街から漏れる光の中に侵入していく


「後ろに移って」

「なんだ?」

「まだ終業時間前よ。その恰好スーツでうろついたら目立っちゃうから、用意した服装に着替えて」

「会社から人が出てくるまで待った方がいいんじゃないのか?」

「人ごみの方が危ないのよ」


 渋々助手席を回転させて後部座席とつなげて移動する。パリッとした紙袋の中にはおおよそ今どきの大学生が好みそうな上下一式の服が入っていた。ご丁寧に靴や小物まで揃えている。


「全部着けて。大丈夫見やしないわよ」


 そういってターミナルをいじくると運転席と後部座席の間にブラインドミラーがせり上がった。


「あと5分で到着よ、ゆっくり急いでね」


 つくづく勝手を言われっぱなしだが、胸に電流を流されるよりはましだと自分に言い聞かせ、タグが切られた新品のカットソーに渋々袖を通し始める。窓の外では早めに業務を切り上げた会社員や暇を持て余した学生達が、家路につく前の最後の遊興を探すためにせわしなく動き回っていた。

 




 車が止まる。時刻は17時半を回ったところだ。窓の外に明かりは少なく人通りも見られない。渡された衣類の最後の1品であるサングラスをかけ、僕は1日の中で人気の少ない路地裏へととんぼ返りすることとなった。

 都心からはそこまで離れてはいないのがせめてもの救いか。周りの建物の隙間からは国道側からの明かりが漏れ出している。銃撃戦のような騒ぎは起きない、と思いたいものなんだが……


 安心とは違うがひとまず胸をなでおろしかけた時、車のドアが自動で閉まりエンジンが再始動した。


「おい、一緒に行くんじゃないのか!?」

「悪いけど外せない用事があるの、道は案内するから一人で向かって。じゃあよろしく」


 サングラスのから奴の声が聞こえ、返事をする暇も無く車は急発進しそのまま表の光の中へ消えていった。


「あぁもう……、どうしてこうなる」


 愚痴の1つや2つでは到底収まりそうにも無い。なので先を急ぐことにする。このまま突っ立っていたらいつ心臓が止められるか分かったもんじゃない、向こうにはこちらの位置は筒抜けなのだから。


―レッドスキンリンクを開始します―


 グラスのナビゲーションシステムが起動し、路面や空中に光のラインが引かれ始める。交通情報、天気、今の自分の体調などをリアルタイムで表示してくれる着用ウェアラブル端末だ。


「そこから真っ直ぐ南下して、南3号線の出口に着いたらまた連絡するわ。あとあまり目立たないようにして、ここにも総庁の警官がかなり動員されてるから」

『もし 逃げたら?』

「同じことを説明する趣味はないの。その時は自分の身体に聞いて、それじゃ」


 通話が切れ、空中のナビゲーションバーが進路を指し示す。金曜、週末の活気で満たされそうな都心の裏側で自分の命を賭けた徘徊がスタートした。




 歩き出してから20分。路地裏にも束の間の酔いを求めて会社帰りの人間が何人か流れ込んできていた。条例によって18時以降の営業は取り締まりの対象になるため飲食店、特に酒類を扱う店にとってはこの1時間弱は生命線ともいえる貴重な時間だ。

 入ってすぐ飲み、すぐ出られるように立ち飲み形式のバーカウンターが多いのはのはそれが理由か。皆ドアをくぐり腰を落ち着けることなく、今日の疲れの癒しをその一杯に求めてグラスを傾ける。


 伝えられた地点まであと70メートル。ここに来るまでに制服の連中と2階すれ違ったが、運良く怪しまれることなく通過することができた。

 

「真面目にやってるみたいで安心したわ」


 再び耳の中に子島の声が直接響く。

 今かけているマルチツールグラスの通話モードでは、耳に掛かったから人肌では感じられないほどの小さく細かい振動が耳小骨に直接伝わる。スピーカーなどとは違って音漏れの心配がないのが利点だが、マイクの類は内蔵されていないので視線センサーでグラスの前面に映し出されるプリセットの返答から選ぶという形で返事をする仕組みだ。


 行き交う人の数がピークを迎える6時過ぎ。指示された国道の出口、高速との分岐が伸びる三叉路の手前で立ち止まりあちらから通話が来るのを待つ。


 周りのビルからは申し訳程度の残業を終えた会社員や管理業者が、絞り出されるようにチビチビと追い立てられて出てくる。

 今ここで僕が胸を押さえて倒れたら、さながら悪魔の力で呪い殺されたようにでも見えるんじゃないだろうか?


「待たせてごめんなさい、そこから国道を挟んで向かいの地下街入り口から下に降りて」

『分かった』

「いい返事よ、人間素直が一番ね」


 勝手に言ってろ。

 信号を渡り、入り口として設置された専用エレベーターに乗り込む。地下鉄や駅中から繋がっている昔ながらの駅街とは違い、国道沿いから入ることができる新開発部は集合住宅や病院、都営のスポーツ施設など、長期間の滞在も想定した広大な空間だ。


 地下30階まで指定できるタッチパネルで吹き抜け下の地上階である地下25階を指定し、下降を開始しようとしたその時、軽妙な電子音が小さく聞こえると閉じかけた扉が再び開いた。


「失礼」


 扉の間から伸びてきた青い腕、特製の防刃繊維で縫われた藍色の制服に身を包んだ2人の男、その二の腕の部分には警視総庁所属の証であるひいらぎのワッペンがあった。


 特警だ。彼らは準公務用の警察手帳をかざしてエレベーターを一時的に止め地下28階を選択する。エレベーターは何事も無かったかのように降下を始め、僕はこの3平方メートル程の密室の中で相乗りをする羽目になった。


「慌てないで、意識すると怪しまれるわ」


 そんなこと百も承知だ!だが比較的大型とはいえこの中で目標階に到着するまでの間注目されないでいろというのは無理がある。

 到着までおよそ15分、あちらは今日の騒ぎによる警戒態勢で動員されているのか?扉の前で何か内緒話をしているようにも見える。

 先に乗り込めたことだけは幸運だった。籠の奥の部分に背中を預け、僕は目の前の2人の背中を見る形になっている。顔や背中をまじまじと見られることは回避できそうだ。


「あとどれくらい?」

『12分』


 返事を返そうと視線を動かしていたその時、グラスのメーターの向こうで警官の1人が振り返った。見ているの保朴の頭の上にある案内板だろう、だけどこれじゃいつ注意が向いてもおかしくない。


「意識しないで、子供じゃないんだから」

「お前なっ!」


……


 静寂。まさに静寂だ。自分の動悸が環境音として僕の耳の奥にぶち当たってくることを除けば、今のこの瞬間まるで真空の中に放り込まれたような無音の時間が過ぎている。思わず声が出てしまった、しかもこの場にいない相手に対して……。


「君、少しいいかな?」

「はい」

「おほう、いい返事だ。少し質問をしたいんだがいいかな?」


 良くはない、全然良くはない。向かい合ってしまえば視線の動きが察知されてしまうから子島ヤツへの返事ができない。もしグラスのことがばれて同行を求められれば目的地にはたどり着けなくなる。そうなったら次に止められるものの想像は大体つくはずだろう。


「次の階で降りて」


 何!?


「今捕まったら終わりよ、グラスに気づかれないようにして」


 簡単に言う。そもそも初めに口で場所を教えてくれれば良かったんじゃないのか。

 

 止まらない愚痴が口から零れ出そうになるのを抑えつつ職務質問に答え始める。外出理由、仕事、年齢、一通りのことを答え終えた後に、いよいよ持ち物を見せるように頼まれる。とはいっても今僕は手ぶらだ。朝の混乱で仕事用の鞄は落としたままだし、見せられる持ち物と言ったら電子決済機付きの腕時計くらいだった。


 外したそれを注意深く見つめる警官の後ろでもう一人は僕の挙止動作に注意を払っていた、こうなるともはや運を天に任せるしかない。


「うん、ありがとう。何も問題はないね」


 良かった……、今の階層は地下22階、3分もかからずに降りられる。とりあえずの危機からは脱したようだ。


「最後にマイナンバーを確認させてもらえるかな?」


 終わったと思ったところへの追撃に少し体がこわばる。カードはいつものジャケットの胸ポケットだ。着替えるときに移し替えたんだがどこにしまったか。


「ちょっと待ってください」


 平常心を必死に維持しながら浅い呼吸を繰り返して全身のポケットを探る。何故大事なものがどこかすぐ忘れるのか。ズボンから1つずつ上に向かって探っていき、胸ポケットの奥に薄いものの側面が当たる感触。安心した僕はすぐさまそれを取り出して警官に提示した。


「……それは何だ?」


 取り出したのはある1枚。古臭いフィルム撮影から現像されたその写真に写っていたのは、赤。安心や頼りがいなど欠片も感じられない穢れた赤がまき散らされていた。

 血だ。一面に血の海が広がり、人間何体分かのパーツがそれぞれ別々の方向に転がっている。その赤い海の上にたたずむ人影の表面は全て硬い黒鉄で覆われており、その中の一人の手には凶器が握られていた。


 知っている。僕はこの写真を知っている。なぜだ?夢じゃなかったのか、あの光景は……


「これが何なのか説明できるかい?」

「……分からない」

「本部!本部!」


 後ろの1人が無線機で指示を求めている。分からない……、いつもここで止まる。なぜこんなものを!?


「があぁあ!」


 グラスの内側の視界が明滅しだす。今朝と同じだ。頭を割りそうなほどの大きい耳鳴りや誰かの叫び声と共に視界には数字の群れがちらつき始める。35、2、51……。まるで削岩機で頭の中を掘り進められているような、そんなほどだ。


「おい!動くな!」


 どうにかなりそうだ。いやもうなってるのかもしれない。このまま体の中から膨らんで僕という存在がはじけて消えそうな、痛みが頭を駆け巡り叫ぶ。何故だ、何故こんな……

 



 ―自分に嘘をつくのって、ツラい?―


 ……誰だ?


 その一瞬、あらゆる雑音も、痛みも景色も消えて、僕の目の前には彼女がいた。這いつくばった僕をのぞき込むその小さな体は、触れれば崩れ落ちそうなほど儚く、だけどその目にはハッキリとした侮蔑を感じる。それほどまでに力強い光があった。


―自分が選んだことでしょ?もっと頑張らなきゃ―


 何を……?


―分からないなら考えてみて、自分の頭でね―


「おい!」


 手を伸ばしても彼女いない。くうに延ばされた片手に、存在感を取り戻した特警の1人が手錠をかけたその時、ゴウンという機械音と共に起きたとんでもない衝撃によって、僕ら3人はエレベーターの天井にたたきつけられた。


「ごあっ!」


 床に落とされたと同時に照明が落ちる。3メートル四方の箱の中の暗黒に包まれて前後不覚に陥る僕の肩に、大きくこわばった掌がむんずと掴みかかってきた。


「お前何をした!?」


 こっちの台詞だ!真っ暗闇の中で骨が砕けそうなほど強く掴まれた右肩を振り払い、僕は記憶を頼りに扉があった方向へと飛び掛かった。すると完全な暗黒の中にうっすらと一条の光が広がり、僕の体は閉まったドアではなく鉄製の硬い床の上に打ち付けられた。


「待て!」


 後ろから鋭い気配が向けられ倒れた身体をとっさに翻すと腹の真横に尖った蜘蛛のようなものが突き刺さり激しくスパークする。


「警戒本部からは!?」


 立ち上がり走る。後ろを気にする余裕はない。滑り止め加工された床を激しく蹴って前のめりになりながら薄暗い通路を全力で駆ける。

 床が薄いのか大きな足音が通路全体に響き渡る。乱れたところから急に走り出したせいで肺にはろくに空気が入り込まず苦しさが増す。ここは何階だ?人気ひとけもなく照明も最小限しかない。普段は停止しない作業用の階か?


 曲がり角を4つ程経由して大きく伸びた1本道に出る。立ち止まった瞬間バタついた自分の足音のせいで聞こえていなかった後ろからの足音が近づいてくるのが分かってしまった。


「まだ向かってるスイッチは押すな!ここからどうすればいい!?おい!」


 音声入力でグラスの向こう側に連絡をするが返信はない。エレベーターでの悶着から一切の連絡がなくなってどこにいけば良いかもわからなくなった僕は完全にこの地下迷宮で孤立したようだ。


「畜生!」


 足音が迫ってくる。真っ直ぐ伸びる通路にはいくつかの分岐路があるが、そこまでは少し距離がある。曲がるのところを見られれば元の木阿弥だ。やり直しは効かない。


 一か八かだ。目の前で左右に枝状に別れた4つの分岐路の2番目の右折路。足音を響かせないように小走りする足裏に力を込める。差し掛かった曲がり角に手を掛けた、その時だった。


「グゥッ!」


 曲がり角を覗き込んだ瞬間、暗闇から伸びてきた細長い何かに胸を突かれ、僕は後ろに跳ね飛ばされた。

 床に背を付き口から鉄臭いモノが吐き出される。胸に大穴が空いたような痛みに喘ぎながら悶える僕の目の前に立っていたのは、後ろから迫る足音の主とは別の制服だった。


「班長、丸情マルジョウを確保。本部に連行します」


 息を吸うことすらままならない僕に両手で抱える程の大きな銃を向ける彼女の顔には一切の容赦を感じない。


「勝手に動かないでください。小指1つでも撃ちます」


 銃口の奥から覗く敵意が僕を押さえつけた。通路にはもう足音は響かず、地下深くの虎穴に押し込められた僕の逃避行はここで終わりを迎えることになった。






 


 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る