《3》sunset dream

 午後3時半。彼はまだ目覚めない。莎緒子さんに手当てを手伝ってもらえて助かったけど、よりにもよって磁場柵をそのまま乗り越えて出ていこうとするなんて。大けがにならなくて本当に良かった。

 少し眠らせて貰えたおかげか朝から続いていたパニックめいた興奮はようやく収まってくれた。思えばあの夜の埠頭からここまでエンジンがかかりっぱなしだったし。こんなことではまた家から出してもらえなくなりそうだ、少し自重しないと。


 あの子の影が頭をよぎる。おぼろげな姿と、不確かな呼び声。私が感じられた部分はそれだけだけれど、それでもあの時感じた懐かしさには意味がある気がする。ずっと前に取り落とした自分の一部に足が生えて歩いてきたみたいな、そんな運命的なものを感じてもう一度あの場所に行ったとき、彼がいた。


 今思えば割りと危なすぎることしてたな。港ではなんかゴツゴツした人たちが何か撃ち合ってたし、追いかけていった先では警察官の殺人現場に出くわしたりしたし。

 今更だけどあの足元の人型は死体で間違いなかっただろうか?光量も少なかったし軽くパニック状態だったしで自信がない。もし無実だったらどうしよう?それに配給の弾丸を使ったこと後で莎緒子さんに言わなきゃいけないか。申請がメンドクサイってまた怒られるかも。いや多分間違いなく。


「なんでこんな落ち着いてんだろ。今日はとんでもなく大変なことばっかりだったのに、なんで……」


 《なんかスッキリしてるんだ》、私。


 時計を確認、音声で伝えられた時間は前回から5分も進んでいない。莎緒子さんはいつもの長電話なので今は彼と二人っきりだ。思えば自分の部屋に男性を上げるなんて初めてかもしれない。どうしよう!そう考えると妙にソワソワする。


「……少し片づけた方がいいかな?」


 と言ってもほとんど物なんて置いてないんだけど。物欲が無さすぎるのも考え物かな。大抵のモノはコーヒー1杯飲んでる間に欲しいと思わなくなってしまう。なんというか、もう知ってる気がするのだ。それを使った感想を。それを着た姿を。なんでだろうね?


「淹れてこようかな」


 看病という程の事はできていないかもしれないけど、目が覚めた時に話しやすくはなるかもしれない。それまでは彼の傍に居よう。


 長丁場に備えようと御供コーヒーを淹れてリビングにから戻る最中に、自分の部屋の中で物音がした。足の無い布団では寝返りで下に落ちるわけも無いので彼の目が覚めたのかもしれない。手元に注意を払いながら階段を駆け上がり、小さく開けておいた部屋のドアを体で広げると、布団の上には肩をすぼめた男性の上半身がにょっきり生えていた。

 

「あぁ良かった」

「……あんた、なんともないのか?」


もう、心配したのはこっちだ!ともかく安心した。わざわざ連れてきて先で寝たきりにさせてしまったらとんでもないことになってしまうところだ。


「この家の周りは防犯用の磁場柵で囲ってあるんだよ。外からのモノは外に、中からのモノは中に跳ね返る設定にしてあるみたいだから、次はちゃんと門から出るようにして」

「……あの、彼女は?」

「?……あぁ、子島ねじま莎緒子さおこさん。この家の持ち主で私の親代わりみたいな人なの。さっきはごめん、紹介しようとしたんだけど緊張が切れて眠っちゃったみたい、よくあることなんだ」

「アンタはっ、」


 何かを言いかけたのに黙ってしまった。頭が混乱してるのはお互い様みたい。でも私が寝ている間に顔合わせが済んでいたのは嬉しい予想外だ。


「今は3時50分くらいかな、かなり長い間寝てたんだよ。ここまで運ぶのも莎緒子さんが手伝ってくれたの」

「あぁ……」

「朝は大変だったね、お互いに」

「……アンタは何であそこに?」


 正直に答えるべき?いや、でしょ。彼を連れてきたのもそれとの関係なのだから。でも信じてくれるだろうか。見も知らずの子供の声に聞き覚えがあったからって、同じ場所に偶然居合わせたあなたがそのことを知っているんじゃないかって。うんまず無理だ。自分でも何を言っているのかわからなくなりそうなのに。


「あそこ、仕事場の近くなの。たまたま港で警察と誰かの騒ぎがあったみたいで、野次馬の帰りにあなたがあそこに。普通の様子じゃなかったから声をかけたんだけど」

「その目……」


 あぁ、やっぱり分かるんだ。普通にしてるつもりなんだけどなぁ。


「これ?物心ついた時からこうなの。外すと何も見えなくなっちゃって。掛ければ”何があるか”位なら分かるようになるんだ。掛けてみる?」


 「掛けてみる?」の「け」の部分で手で静止された。確かにこんなコミュニケーションはないな、うん。

 

「あぁ、彼気付いたんだね」


 声に振り返ると開けっぱなしのドアの縁から半身がひょっこりと出て来た。声の落ち着き方からしてもう怒ってはいないみたいでとりあえず安心。


「あぁ莎緒子さん、ありがとうございます。とりあえずケガも無かったみたいで」

「紅、悪いけど彼と二人で話をさせてくれない?」

「えっ」

「彼は元々、私がここへ呼んだの。朝あなたの目が覚めたら迎えに行くつもりだったんだけど、何の偶然か貴方が彼を連れ帰ってきてくれて良かった」


 どういう偶然!?


「え……でもこの人は莎緒子さんのこと……」

「電話でしか話してないから顔を知らなかったのよ、お互いにね。私の人相があんまりにも悪いモノだから彼、驚いて庭先から逃げようとしちゃって。電話口で脅かしすぎちゃったかもね」


 彼の方に頭を振り抜く勢いで顔を向けた。表情が分からないのがこれほど不便に感じたのは今が初めてだけど、それでも目の前の人影の仕草からは否定や驚きみたいなものは出てこない。


「本当なの?今の」

「……」

「その人は戸越誠二とごしせいじさん。サンミン新聞の記者さんで、私が働いてるアマダへの取材に来る予定だったの。今日は当日の予定の打ち合わせでね」


 予想外だ。今まで知らなかった情報のほとんどが瞬く間に開示されて手はそれを必死に押し込もうとしてるんだけど、頭が既に満杯な状態。

 あの場で出会ったのは紛れもない偶然なのだとしても、彼があの場にいたことに他に理由があったのだとすれば、に関わることを知っている可能性はとても低い。そうなると私は一人相撲をとっていたことになるのだろうか?


「いいかな?紅ちゃん」


 優しい声でタイムリミットが告げられる。混乱する脳内を整理する時間も無いまま、私は冷め始めたコーヒーを置き去りにして二人の残る自室を後にせざるを得なかった。




 何分くらい経っただろう?リビングまで下りてきて新しいコーヒーを淹れなおしても、グラスの時計を確認する余裕も無いくらいに考え事ばかりしている。

 聞きたいのは私の方だ。何であそこで倒れてたのか、何で警察の殺人現場で掴まっていたのか。何で私の眼を見てあんな顔をするのか。

 見えなくてもなんとなく分かる。あれは気の毒に思ったり同情らしく振舞おうとしている人の振る舞いじゃない。私の眼を見て彼は間違いなく怯えてた。こんな無力な人間に。

 自分だけが蚊帳の外にいる気がして、急に不安と不快感が一緒に押し寄せてきた。


 まったくもって生産性の無い考えがぐるぐると頭をかき回す。彼が戸越誠二なんてお堅い名前のジャーナリストだったとしても、農産複合施設プラントのキツイ仕事に耐えかねてげ出した根性無しだったとしても、ましてや私の過去に何の関係の無かった人だったとしても……。それこそ彼にも関係のない話だ。巻き込んだのは私の方。途中でどんなトラブルに遭っていたとしても、ここまで連れてきたのは私なのだから。


「では予定通りに。帰りも送らせていただきますので少し待っていてください。それでは」

「……えぇ、そうさせてもらいます」


 広い間取りでもまるで真空と思うほど息苦しくなったリビングに新鮮な空気が送り込まれた。話し合いがひと段落した様子で部屋から出てくる2人の姿を吹き抜けから確認してどこか安心してる。戸越さんは……もう帰るみたいだけど。


「紅ちゃんお待たせ、悪いけど戸越さんを街まで送っていくから少し留守番をお願いね」

「どんな話をしてたの?」

「どんなって、仕事の話よ。お金の事とか他の会社の事とかそういうつまらないこと」


 後ろの影に目を向けても反応は無い。朝方に見せた様なアクティブな反応は返ってこず、ただただ覇気の無い立ち姿で帰りの準備を待つ彼の姿はまるで別人のようだった。


「お疲れさまでした、莎緒子さん話長いでしょ?いつもなんです」

「……!?」

「さっきの話は忘れてください!車の中の事も。私の思い過ごしだったみたいですので……」

「いえ、こちらこそ。碌にお礼もできなくて」

「夜は冷えますから帰るのならお早めに!まぁこんな都内の端っこで変な人なんて出ないと思いますけどね」


 落胆を誤魔化すために必要の無い言葉を吐き出し続けた。勝手に抱いたかすかな希望を無くして落ち込みたい気持ちもあったけど、それ以上に関係のないと分かった彼を私に個人的な事情に巻き込まずに済んだことを喜ぶべきなんだ。

 玄関にまで見送りに出る事すらせずに遠ざかっていくエンジン音を耳で追いながら、私は零れ落ちた新しい思い出を頭から追い出そうと必死になっていた。それがみっともない事だと自分でも分かっていたから。





「食べないの?」


 考え事の最中に話しかけられて体が跳ね上がるあの現象。たった今起きたのがそれ。反射で手が緩み握っていた箸を落としてしまった。


「まだ彼の事考えてるの?」

「それは、まぁ……」


 愛想笑いと中身のない返事を返しながらテーブルの下にもぐって箸を探して床に手を這わせる。


「あの人は紅の為にはならない人だよ」

「んぐっ、なんで分かるの?」

「5年も一緒に暮らせばわかるの。ああいうひ弱な人が関わり合いになるような人生を送ってきてないんだろうなぁって」

「ひ弱って、言うほど?」

「朝のそちらの行動力に比べたら、大抵の人はひ弱に見えますよ」


 ふざけた語調でテーブル越しに彼女は続けた。焦ることは無いということ、別に私がここに住み続けることに対して迷惑になど思っていないということ、そして……


「仕事場、変えた方が良さそうかな?」


 それは寝耳に水だった。確かに徒歩圏内にある港で号外に乗るほどの騒ぎが起きたのだ。言い出しても何も不思議じゃない。死傷者23名、スラブ系の過激派集団、武装蜂起。7年前から映らなくなった国内放送が無くても、新聞の字面だけでここまで物騒な並びを見てしまえば、可能であるなら中京都内から離れたいと思う人だって多くいるだろう。


「……分かった」

「私から言っといてなんだけど大丈夫?結構慣れてきてたのに」

「私だって死にたくないもん。それに……まだ面倒見てくれるんでしょ、莎緒子さん?」

「あはっ、もちろん!次の職場なら任せておいて」

「折角なら、莎緒子さんの会社でお世話になろうかな」

「っ、アハハハ!それはちょっと難しいかなぁ~」


 とりとめのない、ありきたりで日常的な食卓の会話。この5年間、この繰り返しに不満を持ったことは無い。「人並みに食べるなら笑顔は持てない」そんな風に言われてる今のこの国で、私は間違いなく幸福な人間だ。


「(ごめんなさい莎緒子さん)」


 夕食が終わり、片付けが終わり、シャワーを浴びて明日の身支度を整えお互いの部屋に退散して2時間後の23時。私は自分の部屋で荷物をまとめていた。戸越さんに当てがあるとは確かに思えないけど、あれをただの偶然だと切り捨てるのは今の私にはできない。この5年の間気にならない日は無かったのだから。

 物持ちが悪いというか物を持たない性格が幸いし、必要最低限なものを選ぶ時間が短くて済んだ。というか掛けているコレしかほとんど私の持ち物らしい持ち物は無い。

 コートに入れっぱなしにしていた3.5ミリの国民支給拳銃にはまだ弾が残っているみたい。一度全部取り出して確認したもんだから、改めて5発分全部を中に入れなおすのが大変だった。分厚めのアウターを着られただけで貫通できなくなるらしいけど、誰だって痛い目に合うのは嫌なはずだ、持って行って損は無いと思う。


 自室での支度はあらかた終わらせた。でもこの家の構造上外に出るためにリビングに降りなくちゃいけない。自室の真向かいに莎緒子さんの部屋があるから最新の注意を払わないと気づかれちゃう!ドアを開けて階段を下りるまでの間、息を止めてすり足で廊下をこそこそする姿は誰が見ても昔の空き巣だったと思う。


 リビングにまで辿り着いた。そのまま玄関から出ていかないのは夜間用の防犯センサーのスイッチを切るためだ。引っ掛かるとふもとにまで聞こえるんじゃないかと思うくらいの警報が警備会社の人が来るまで鳴り続ける羽目になる。

 スイッチはキッチンの食器棚の脇の制御盤だ。こういう時だけは周りの同性よりも高めな背丈をありがたく思ったりする。棚に手を着いて自分が表現できる最長の姿を壁に立てかけてようやく指先がスイッチに届いた。


「これで大丈夫なはず……!」


 指先に引っ掛けるようにセキュリティのスイッチをオフにして、一目散に玄関に向けて前進を再開した、その時だった。ノイズ音とうっすらとした光が自分の体越しに後ろからあふれてくるのを感じたのだ。慌てて振り返ってみると動画板(昔で言うテレビ)から光が溢れてきている。もしかするとリビングを通るときにリモコンに接触してしまったのかも。


「消さなきゃ……!」


 秋の寒空からは差し込む月明かりとリビングの光から延びた線が交差してる。リモコンを探ってテーブルから落としすのはマズいので直接スイッチを方が良さそう。摺り足でフローリングの上を滑ってあと1メートル位まで近づけた。


「もう、面倒掛けないでよね」


 右手で側面をなぞりながら最初に触れた突起を中指で押した。


-ダメ!-


「ん"ん"う!」


 突然、電流が流れたような衝撃と破裂音のような耳鳴りが体を突き抜けた。まるで動画盤から何かが流れ込んできたみたいに衝撃は神経を伝って体内を駆け巡る。爪先から上向きに器官を犯しながら、胸の中に入ってきた瞬間に抑えきれない吐き気を感じて嘔吐した。


「うお"あ"っ!」


 調子がおかしい。今朝やこの間のものとは違って意識はハッキリしてるのに体が言うことを聞かない。神経の全部が針金に置き換えられて外側から磁石で引っ張られてるみたいに自由が効かない。

 必死で前に進む。吐き気は絶え間なく襲ってくる。喉の奥に熱いものがいるのが分かって思わず床につっぷすと、2秒後にまた胃の中身を床に広げてしまい血の気が引いてくる。

 寒い。すごく寒い。断熱された床の上がまるで冷凍庫の中みたい。体を丸めて必死に耐える。なんなのこれは!このままじゃ家の中で凍死する勢いだ!


「え?……」


 目を疑った。確かに今目の前に、私は景色を見ている。見知った住まいではない、冷たい雨に打たれているアスファルト。地面を抉る勢いで降りしきる雨粒に打たれるのは、地面に這う私と目の前にもう一人、少女がいた。

 薄い布一枚纏ったその体には傷一つ付いていないのに、少女の体は血で真っ赤に染まっている。特に両足の間と右手の回りには血溜まりが出来ていて、それは何故か雨に流されても失くなることはなかった。


(あの娘……どうして………)


 右手に握られていたのはナイフだった。刃の根本まで握りこむせいで人差し指と中指の中くらいまで刃が食い込んでいた。

 うつむき、水面に等しいほど水を溜め込んだ路面に視線を落とす彼女を、私は路面と同じ高さから見上げる。声をあげようとしても出ず、手足はまるで存在しないように感覚を失っている。


(誰か、来る?)


地面を伝って近付いてくる一定のリズムは誰かの足音だった。自分の吐く息の音が収まった瞬間に、視線の先で途切れた道の左から1人の影が現れた。腰まで伸びた髪は濡れて張り付いて、その顔の確認を難しくしていた。視界が雨粒に塗りつぶされて淡く霞み、瞬きを終えると元のフローリングの床にねっころがっていた。


 走った。用意した荷物も持たないで玄関を飛び出す。吐き気はまだ胸を掻きむしるし、散々気遣っていた音は多分家中に鳴り響いてしまった。


 来る!何かが来る!私の頭の中にいる何かが呼んでいる。あの雨の中に取り込もうと足首を掴む。

 走る!グラスに取り込む光も無く、辛うじて道の体を為す山道を駆け降りる。遠くに!もっと遠くに!追いかけられる、あの光景ビジョンに!

 走る!真下に広がる光を目指して山道を駆け降りる。ここにいてはいけない。そう頭の中の誰かに急かされ、砂利道を抜けて舗装路に入りかかったときに、変化は起きた。

 何も聞こえない。山肌をなぜる風の音も、秋の風に揺れる林の音も、張り裂けそうに脈打っていた心臓の鼓動も、何もかも。

 その代わり、それらが《視えた》。録な整備もされていない雑草が飛び出すアスファルト、光もまばらな遠くの都心、そして肩の後ろから伸びてくる2本の腕が。


「ごめんね」


 意識が遠のく。光が消える。力が抜けてうつぶせに地面に倒れたときに、視界の端に確かに見えた。伸ばされた腕の主の口元がそのように動くのを。

 次はどこで目が覚めるのかな?いやどこでもいい、ただ見覚えのある場所なら。見覚えのある顔が目の前にいてくれれば、それだけでこの滅茶苦茶な今を生きていける気がするから……。





「おい!!!」


 一度の瞬き。ただその一回だけで私の居る世界、グラスも無く真っ暗な視界の外ではそのすべてが置き換わっていた。鼓膜には爆音と地響きがこだまして、頬を伝わる感触は埃と擦り傷だけ。そして首から下の感覚はあるものの、何故か一歩も身動きが取れない。勝手に思った、「話が違う!」と。


「おい!お前、聞こえてるのか……!?」


 耳がピクついた。地鳴りにかき消されてよく聞き取れなかったけど、今の声には聞き覚えがある。少し、今は虫の居所が悪そうだけど……。


「と、戸越さん……?」

―――――!


 驚きのあまり声が出ない。髪を引っ張られ顎に筒の様なものが押し当てられた。こんなに強く押し付けられたらたぶんゾウでも何なのか分かる。強く強く、喉元に食い込むかと思うように押し付けられるそれは、紛れもなく銃そのものだ!


「とっ、とごじさん、なにを……!」

「お前は……今のお前は?」

「なんですっそれ!?」


 何を聞いているのかも分からないまま髪を掴む手がほどかれて私の体は地面に落下した。


「ガハッ、アハァ……」


 喉で詰まっていた嗚咽や咳が一気に解放されてむせこんだ。左から強烈な視線を感じてまだ自分が危険を向けられていることがなんとなく解る。


「……っ戸越さん、ですよね?」

「……」

「戸越さんなら答えてください!」

「……あぁ」


 声は確かに彼だった。けれどもその奥には以前の戸惑いとか気弱さは感じられない。答えた時の彼の声、重々しくてまるで10年も歳を取ったよう。


「お待たせしました!」


 耳に新しい情報が急に入り込んできた。少し遠くから聞こえたその声と足音が次第に近づいてくると、重たい金属が地面に下ろされた音がする。


「どこ行ってた!?」

「暗算で解析なんてできませんから」

「早くしてくれ、見つかったらそっちもまずいんだろ!?」

「それはまぁ。あなた!目が覚めたんですか?」

「ふぁえっ!?は、はい!」


 変な声が出てしまった。誰だろう?声はかなり若い。17、8くらい?隣にまで近づいてきた気配はガサゴソと何かをいじくる。


「失礼します!」


 冷た!うなじに何か金属みたいなのが密着して驚いて前のめりそうになったのを誰かが受け止めてくれた。


「と、戸越さ……」

「静かにしてろ!」


 金属から伝わるピリピリと頬に伝わる熱気に挟まれて逆に頭がさえてきた。すると周りの騒音は激しさを増してきて瓦礫や煙が近くで舞い上がっている感覚が近づいてくるのが分かった。


「もう少し……」

「あの、何してるんです?」

「何も考えないで!脳波が観測できません!」


 無理を言わないで欲しい!こんな状況で!いやむしろどんな状況なの!?


―トラック完了―


 機械的な声が聞こえた瞬間、ふっと体が楽になった!脚も腕も息をするのも。むしろ普段よりもスムーズにできるようになっている気がする。


「動けます?!」

「何をしたんですか!?」

「着ているソレを再起動しました!ここから脱出します!絶対に離れないように!」

「と、戸越さん!?」


 何が何だか分からずに唯一の既知の名前を呼んだ。彼はどうしてここに居るのか、私はどうしてここに居るのか、それでも時間は待ってはくれない。左手を掴みあげられて立ち上がった私の体には、今まで感じたことも無いような力を感じる。


「来たぞ!」


 彼が叫ぶ。叫び声は狭い空間に反響してこっちに戻ってきた。ナニかの足音と一緒に。


「使い方は!?」

「こんなもん小学生でも分かる!」

「いいですか、止まらずに走り抜けますよ!」


 一歩一歩、硬い何かが瓦礫を踏みしめる。ゴムでも肉でもないその足音が私の前に現れた時、真っ暗な視界の先に、何故か分からないけど懐かしさを感じていた。


生命反応消去開始レッドシグナルデリート



 


 


 







 

 




 

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