《2》衝動
その一瞬、頭に響く声という声がどこかに消え失せた。目の前のあまりにも鮮やかな二つの赤。一度落ちればカタチも無く溶かされてしまう溶鉱炉の様な熱をその中に感じて、ぼうっとした意識が自分の体に戻ってきたのが分かった。
「お前は……何だ?」
口から零れたのは存在の疑問。今、自分が見ているこの人影が現実かどうかを問いかけるもの。
頭痛も数字も今は無い。であるならば自分を心配する目の前のこの存在を含むこの視界が現実を映したものならば、あの悪夢のような凄惨たる光景も現実のものであるという証明になると。
「君は、あの子じゃないよね……?」
返ってきたのは呆れそうなほど間の抜けた声。こちらをまっすぐ見つめてはいるものの、目には疑念が浮かび、言葉には自信がなく、体を起こしてくれた後の手つきには探り探りな印象を受ける。
先程までの混乱が嘘のように、触っている手を勢いよく払いのけると僕はその人の横を低い姿勢のまま通り抜けて逆の位置関係で再び相対した。
「ごめん!驚かせたかったわけじゃないの、人を探してて。でも……君もケガしてるの?」
灰色の髪が肩口で揺れ薄く柔らかい唇を忙しなく動いている。目の前で人の胸を物理的に抉り抜いた奴がなぜ僕のことを心配するのだろうか?……心配?違う、あの時のあの瞳にそんなものは無かった。あったのはただ命の有無を見分ける事とその選別の為の機能だけ。あれは人間の瞳なんかじゃない!
「あぁっ……!」
走った。背中を向けて、今の自分に出せる全速力で走り出した。地面は濡れて滑りやすくなっていて少しでも気を抜くと踏み込んだ足がすっぽ抜けそうなほどだったが、走った。路地を抜け飲み屋の並ぶ小道を右、左、人通りの多い場所を目指して走り続ける。しかしただでさえ先程まで幻聴でもんどりうっていた奴にロクな体力なぞ残っているわけも無く、奴を撒こうと余計な軌跡を作ろうとしていると早くもスピードは早歩きレベルまで落ち込んでくる。
息が切れる。まるで冷凍庫の中で深呼吸をしたようだ。肺は擦り切れるように乾ききり、純度の低い酸素をただ送り返すだけの装置となっていた。
「っはぁ……もっと離れないと……!」
‥‥‥妙だ、なぜ僕は恐れる?
あの赤い目の、あれが僕を締め上げていた影を始末してくれなければあの時僕は死んでいただろう。形だけ見れば感謝こそすれ恐怖するような対象ではないはずだ。なのに何故こうも足がすくむ?
「おい君!」
脊髄反射が存分に機能して呼びかけられた方にすぐ向き直った。制服姿の警察官2組が心配そうな顔をしてこちらを見ている。まぁこんな朝方に汗だくで息も絶え絶えの成人男性がいたら誰だって不審に思うだろうけど。
「君大丈夫か?何があったんだい?」
「実は、其処の路地で……」
言ってどうする?夢に出て来た殺人者によく似た目をしてる奴から逃げてきました、助けてください!なんて。まるで1世紀前のサスペンス映画だ。まともに取り合われるわけがない。
「妙な身なりだ、何か同年代同士のトラブルかも」
「どうだろうな?君、誰かに追いかけられたりしてたりしないかい?突然殴られたりだとか」
追われてはいない、少なくとも今は。でも何故だろう?さっきよりも安全な状況にいるはずなのに、耳鳴りからまた声の様なものが響いてきている気がする。何を言っているかは分からない程度のものだけど。
「碧南署に応援を頼もう、港のドンパチに巻き込まれたらマズイ」
「あぁ」
「君、少しここでま」
鼓膜を突き破るほど大きな破裂音が響き、目の前にある輪郭が一瞬歪む。自分を心配してくれていた中年の警察官の側頭部から何かが噴き出ると、力が加えられた方向に体ごと倒れこんで動かなくなった。
「目標確認、芹沢から
もう一人の警官の目からは先程の様な思慮の光は消えている。たった今使った獲物を右手からぶら下げ無線機で誰かに呼びかけるその姿は、正義の執行者ではなく盲目の狂信者の様にゆらゆらと振れる。
足が動かない。さっきまではあんなに素早く動くことができたのに、目の前で夢の中で見たのと同じ、いやそれ以上に凄惨な「死の製造現場」を見せつけられ体は完全に硬直していた。
「うぐっ」
前置きも無く同僚を殺した男が手に握った何かを背中に押し当てた。針で刺すような痛みの後、一瞬の熱さを感じた瞬間視界が閉ざされ足には強い痺れを感じ始めた。何か薬の様なものを打たれたらしい。
「車に乗る。背中を押すからその通りに歩きなさい」
生暖かく大きな掌が肩甲骨のあたりに触れ、前へと歩くように自分を促す。従うしかない。拒否した後どうなるかは自分の隣に転がっている彼が教えてくれたはずだ。
呼吸を荒くして動かない足に必死に脳からの指令を送る。歩け、出なければ殺される。
「動かないで」
背中を押す手に力が入る。聞き覚えのある声が後ろから響き、人質を取っている者自身が人質になる一直線ができあがっていた。
「な、何をする!?」
「とぼけないで、3.5ミリでもこの距離で撃ちだせば内臓まで届きます。その子を放してください!」
「誤解だ!私はこの少年を署まで……」
「じゃあ応援を呼んで貰えます?足元のその人をどう説明するのか聞かせてほしいとこですけど」
沈黙。冷え切った朝の空気の中でお互いのパーソナルスペースを侵害するほどの距離で交わされるやり取りが、自分たちの周りの温度を押し上げる。
「分かった解放する、そちらに預けるから一度後ろに下がれ」
肩をひかれながらお互いの体位が入れ替えられ360度方位を転換すると、目の前に人の気配を感じる。確信があった、間違いなくあの赤い目の主の声であると。
「(アレが?なぜ僕を……)」
「愚かな、主から外れた意志無き亡者よ」
「何を言ってるの?彼を置いていて下がって!」
「うっ!」
要求は呑まれた。警官もどきに背中を勢い良く押し出され、僕が前のめりでバランスを崩した瞬間、先程と同じ破裂音が右耳の隣で鳴り響き、その直後真っ暗な視界を上書きする程の閃光と轟音が顔の横で走った。
男の苦悶する声が聞こえると同時に、投げ出された体を目の前の存在がしっかりと受け止める。厚手のジャケットの内側に感じたのは、自分のそれよりもずっと細く柔らかい腕と不器用なほど力の込められた手の平だった。
「走って!」
暗い視界の向こうで鈍く感じる陽光が明滅を繰り返す。建物に遮られた光が移動する毎に額にあたり直しその熱をよりハッキリと感じられる。
この手を握るのは夢の中の怪物。目の前で二人の人間を撃ち抜いたその手にはじっとりと汗が滲みこちらからしっかりと握り返さねばするりと抜け出てしまいそうなほどだ。しかし先程打たれた注射で足元がおぼつかないうえに、自分がどこにいるのかも分からない有様では、恐ろしくも頼りないこの手に希望を託すしか今の僕にはできそうになかった。
「あそこ!」
次第に周囲に人の気配とざわめきを感じ始め、行進が一時停止したと思ったら、次の瞬間またも背中を押されてシートの様な硬いクッションの上に倒れこむ。
「トばすよ、掴まってて!」
どこにだ!
車での移動を始めてから20分程。暖房と慣性制御が効いた車内で次第に目には光が戻り始める。とりあえず胸をなでおろし次に自分の状況を改めて確認しようとしたところで運転席の方から《彼女》に話しかけられた。
「動けそう?」
「……」
「ごめんまだ無理しないで。もう少ししたらゆっくり休める場所に着くから、それまではいつでも逃げられる準備をしておいて」
「……さっきのアイツは?」
「分からない、警察の格好はしていたけどあの周りにいた人たちとは雰囲気が全く違ってた。もしかしたら……」
「……なんで助けた?」
答えを聞くのは恐ろしかった。今はたまたま大人しい振る舞いをしているが、いつあの時の冷酷な表情に戻って自分を狩り立てるのではないかと気が気ではない。しかしあの警官から助けてもらったことが紛れもない現実である以上は、その理由を確認しないことには自分の気が済まなかった。
「聞きたいことがあるの君に。それに目の前であんなことが起こって黙って通り過ぎれる人って中々いないんじゃない?」
果たしてそうだろうか。
「……聞きたいことって?」
「落ち着ける場所で話したいの、もう少し休んでて」
かすんだ視界が映すドアガラスの向こうでは先程まで自分がいたビル街が両手の平に納まるほどの距離にまで遠ざかっていた。どうやら郊外に出るリニアレールに捕まっているらしく、新幹線並みの速度で移動するこの車両からいよいよ逃げるとこが難しくなっていた。
更に15分、車はレールを外れ公道をタイヤで走り始めた。窓の外の景色に木々が混じり始め、対向車線や後方に他の車を見かけることも少なくなってくる。そうして辛うじてカーボン舗装が行き届いている山道を進み続け、目的地に停車するころには視界はほぼほぼ元通りのレベルにまで回復していた。
目的地に着くとまずそこの建造物の姿に驚いた。まるで森の中の美術館だ。今時珍しいコンクリート壁で形作られた目の前の2階建て建築は、外壁に陽光を取り入れるための天窓を複数備え、門の内側には乗用車5台ほどが余裕をもって停まれる駐車場に、南国由来の植物を育てているビニール製の温室なども確認できた。
「莎緒子さーん?」
インターホンを押して不用意に同居人と思われる名前を呼ぶ。こちらに対する警戒は無いのか、もしくはそう思わせるように仕向けているのか。
「ごめんなさい、少し待って」
出てこないことに腹を立てた風ではないが、彼女は渋い顔を浮かべてそっとドアに手を着く。表面を沿わせながらゆっくりとドアノブの元まで滑らせて、指紋認証ディスプレイに親指を押し当てる様子を何故か僕はまじまじと見てしまっていた。
玄関を抜け、通り抜ける最中に横目に見た居間にも、客間にも人の気配はない。しかし廊下も突き当たり二階へ上がる階段を目の前に捉えると、非常時から麻痺していた今までの不安が再び表出化し始める。このままついて行ってどうする?素直に住まいに上がってお茶でも飲んでいってなんてことになると思うのか。夢の中であの目に見つめられて感じたものは少なくとも善意ではなかった。上に上がった時点でまともな退路は階段しかなくなる。居間や客間の窓や玄関に逃げられる今ならチャンスがあるかもしれない。
「……っ!」
ぐるぐると思考を巡らせ招き入れられた巣穴から逃げ出す算段をしていると、感覚が鈍い右手にかすかな温もりを感じて息を呑んだ。
「大丈夫……っ」
なんだその顔は?眉を下げ口を堅く一文字に結び、まるで10も離れたような子供を慰めるような。額から眼頭の窪みを通り抜けて玉のような汗が滑り落ち、鼻から漏れる息の音が静まり返った廊下に静かに響く。コレではどちらがおびえている側なのか分からない。
「大丈夫、危険はないから……一緒に住む人にまだ見つかりたくないの。誰も入れちゃいけないって言われてるから……」
これが、あの時の瞳なのか?
サングラスの奥に見えるあの赤色はあの夢のモノとはまるで違うように見える。そして捕まれたまま廊下の真ん中で立ちすくんでいても事態は決して好転しないだろう。
「分かったついて行く。……だから離してくれ」
「想定外なものか、予定通りに機能している」
「言葉は無くとも意志は生きているさ、我々はそれを正しく汲み取らなくてはならない」
「全ての国民に気づかせなくてはならない。我々の愚かさを」
「彼女は導いてくれる。何も案ずることは無いよ」
「さぁ行くよ●●●」
「全て……その意志のままに」
本日二度目の覚醒。他人の声、他人の言葉、他人の意志。そんなものに囲まれながら漂っていたまどろみの中から抜け出して目覚めても、見知った部屋はそこにはない。部屋に通され飲み物を取ってくると取り残された後、またしても現れた頭痛で意識を失っていたようだ。
「なんなんだクソ」
じっとりと脳にこびりつく不快感を消し去るために上書きする用の新しい情報が欲しくなる。だが部屋の中を見渡してみてもそこには情報といったものは何一つ無い。小さい天窓が1つ付いた8畳程の空間には生活感を表すものが何一つ置かれていなかったからだ。あるものは自分が座っているものを含め2脚のイスと個人用デスク、そして部屋の端の方に丁寧に畳まれている和モノの敷掛け布団だけだ。それ以外、部屋の中は無機質な灰色で埋め尽くされている。
ここが自宅ということならばこの部屋は彼女のモノか?しかしむき出しのコンクリートが顔をのぞかせるたびに、何か”冷たさ”が漏れだしてきて背筋が凍るような感覚に陥りそうになる。
自然と感情がマイナスの方向に引っ張られそうに思い、意識を整えるために深呼吸をしようと立ち上がると、ドアの隙間から人の気配と話声が冷え切った廊下の空気に乗って聞こえてきた。
「……ぅにあんなことしてごめんなさい、でも聞いて!何か思い出せそうなの」
「少し黙って!自分がどれだけ危険なことをしたか分かってるの!?」
覚えのある声を叱りつける新しい声。落ち着きはあるがどことなく子供っぽいその新しい声はこの部屋の主にまるで母親のようになにか言い聞かせている。
2階の廊下の突き当りが居間の天井沿いに吹き抜けになっている為、二人の言い争いはダイレクトに聞き取ることができた。莎緒子と呼ばれる方が恐らく彼女が言っていた”一緒に住む人”の事だろう。そして自分をここまで連れてきた彼女は”
「動きたくなるのは分かるよ、けど警察の封鎖線までわざわざ近づくなんてどうかしてる!」
「確かにあの場所だったの!」
「冷静になって!どうしてそんな小さい子が貴方の事を知ってると思うの?」
「それは……」
「どれだけ心配したか、もうあんな危ないことはしないって約束して?」
話の筋が見えない。あの場所で何か警察沙汰があったのは確かだろうが、彼女、
「どうする……」
彼女らを信頼して良いものかどうか分からない。しかし助けられたのも事実な以上決して害意のみをこちらに向けることはないだろう。このまま部屋で待つのが得策だろうか。
「色々な事が起こって混乱してるんだよ紅ちゃん、少し休もう」
「待って、もう一つ言わなきゃいけないことが」
「分かってる。でもお休み、また直ぐに行かなきゃならないみたいだから」
「ぁあっ、」
何をした!?莎緒子と呼ばれる同居人が手袋をはめた手でうなじから相手を抱き寄せた。すると抱き寄せられた側の体からはまるで精気を吸い取られていくかのように力を失って、躰を預けるように倒れこんだのだ。
「おいっ!」
――――――――!!!
何を馬鹿な!こんな得体のしれない場所で自分の存在を知らせるような真似をするとは!この距離からでも視線が合ったことははっきりと分かる。たまらずに部屋に戻ったがこのままでは袋の鼠だ。天窓を頭から突き破れるほどのジャンプなぞ出来るはずもない。自分の吐息以外ほとんどの音が聞こえないこの家の中では中の人間の足音がはっきりと聞こえてくる。そこまで早くはない、しかし確実に奴はこの部屋に近づいてきていた。出るならば今しかない!入口に体当たりをかまして廊下に飛び出ると階段の踊り場にチラリと追手の頭が見え出たことを確認し、思い切って吹き抜けから居間に飛び出した。
「ぐぅう!」
着地はお粗末なものであった。丁寧に拭きあげられたであろうフローリングに足を取られローテーブルに体を投げ出した。硬い平面がわき腹に強く押し当りながら投げ出された体のあちこちから損傷を知らせる信号が湧き出始める。逃げようと必死で体を起こすと、先程までそこにいたもう一人の姿が見えなくなっていた。
「……!?」
おかしい、確かにここで倒れていたはず。だが今はそのようなことを気にしていられる状況じゃない。
「待ちなさい!」
家の中全体で反響した声が複数の方向から自分めがけて降り注ぐ。踊り場で引き返して元居た場所まで戻ってくるのにそこまでの時間がかかるはずも無く、同居人の莎緒子は手に握った何かしらをこちらに向けて呼び止めた。
やられる!反射的に体をひねりダイニングセットの隣の窓ガラスに肩から食い込んだ。実用より優美さを重視したであろう透明の隔たりが砕ける音はそれを突き破った自分の呻き声よりも小さく地面に吸い込まれていく。
逃げろ、ここから。どこへ、とにかくどこかへ。捕まれば、殺される。何故そう思う、何故そう思う?
庭に植えられた針葉樹の間を、足を引きずりながら出口に向かう最中に考えた。何故ここまで恐れる?あの
アイスホッケーのコートが3つは入りそうな庭をようやく抜けた。針葉樹の林とビニール製の植物園の脇を抜けた先に寒気と乾燥によってささくれた天然の林を見つけて安堵する。高所得者層特有の高すぎる塀は存在せず国有地と地続きになっていることを確認すると、痛む足を発火材にして一気に外に飛び出そうとした。
「んぐ」
……おかしい、勢いが死んだ。体は放物線の一番上でゆらゆらと漂い、みぞおちに強烈なプレッシャーと吐き気が押し寄せてくる。だがそれを実感するよりも前にとんでもない速度で後方に体が吹き飛ばされ、ビニールハウスに頭から突っ込まされた僕の体は見たことも無いような花の上に投げ出されていた。
「呆れた、どんな田舎から来たの貴方?」
頭のすぐ上から聞こえるあの声。そして頭の中からは今でも逃亡を促す無意識が垂れ流されている。しかし全身の打ち身に切り傷、疲労を抱えもはや僕の体は
「じゃあね、また後で」
追跡者であり噂の同居人である彼女が掌を僕の顔の前にかざすと、意識がスッと吸い出されたかのように何も感じることなく眠りに落ちた。そして頭痛を感じることなく眠りにつくことはこれ以降しばらくなくなることとなる。
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