第3章 恋の物語は、もうはじまっている

009 第3章 恋の物語は、もうはじまっている

 友人のオダヤカは、僕が語った土曜日の夜の出来事をすべて聞いてくれた。

 バス停の濡れた女子高生と、エッチ出来なかった話をだ。


 話を聞き終わったオダヤカは、一度だけメガネをくいっと上げてから、穏やかな声で僕に言った。


「先に童貞を卒業されたら、俺はお前に敬語を使わなくちゃいけなくなるな」

「はっ?」

「そういうルールだっただろ?」

「なにその謎ルール?」

「いや、一年生のときに、みんなでそういうルールを決めたじゃないか」

「えっ……あ、ああ。そういえば一年のときに、そういう話を一度だけみんなでした記憶はあるな」


 僕とオダヤカは、一年のときも二年のときも同じクラスだ。

 そして一年のとき、僕とオダヤカとあと二人仲の良いクラスメイトがいて、四人でいっしょに過ごすことが多かった。

 四人とも当然のように童貞だった。

 二年生になるとき、クラス替えでその二人とは別のクラスになってしまったのである。


「童貞を卒業した順に『童貞卒業先輩』に立場が上がる。だから、みんなから敬語を使われるって話だっただろ?」

「それ、冗談じゃないの?」

「んっ、冗談?」

「オダヤカ、あれ本気にしてたの?」


 オダヤカはメガネをくいっと上げながら「ああ。俺は本気にしているぜ、今でもな」と言った。

 僕もメガネをくいっと上げて「そうか、本気なのか」と口にする。

 オダヤカは、もう一度メガネをくいっと上げながら言った。


「少なくとも、お前が先に童貞を卒業したら、俺は敬語を使おうじゃないか。もしかしたら、お前に敬語を使える日も近いかもしれないな。ふふっ、楽しみだぜ」


 そう言われた僕は、ふと思った。


「んっ……あれ? もしかして、オダヤカ? 僕の童貞卒業への道を応援してくれているのか?」

「当たり前だろ。お前が俺に打ち明けてくれたこの奇妙な話。これが本当の話だったら……いや、本当の話なんだろう。俺は信じている。そして、この話を聞いた限りでは、お前にようやく好きな女の子が出来た。高校時代は恋愛を封印すると宣言したお前に、好きな女の子ができたんだ。ステキなことじゃないか」


 僕はこくりとうなずく。


「ありがとう、オダヤカ。僕は封印を解除して、これから恋愛をするよ」

「ああ」

「『高校時代は恋愛を封印する』なんてカッコつけてすまなかった。僕は、強がっていただけだな」

「いいってことよ。これを機会に恋愛するんだ。恋愛を解き放ってやれ!」

「オダヤカ……僕の背中を押してくれて本当にありがとう」


 そんなわけで『高校二年の六月の二度目に経験する月曜日』に、恋愛解禁となった。

 オダヤカはメガネをくいっと上げながら言った。


「俺が考えるに、バス停で出会った女子高生はきっと、なにか大きなトラブルを抱えていると思う。まあ、この話を聞けば誰でもそう考えるだろうが」

「そうだな。きっと彼女は困っているんだ」

「そして、そんな彼女はお前に助けを求めている。お前が助けなくちゃいけない。それで、もしマンガや映画や小説なんかだったら、ヒロインのトラブルを解決する過程で、主人公とヒロインはたいてい両想いになっていくだろ?」

「んっ?」


 オダヤカは僕の肩にポンッと手を置いて話を続ける。


「いいか? お前が主人公の不思議な恋物語は、すでにはじまっているんだ」

「僕が……主人公……」

「それで、バス停で出会ったずぶ濡れの女子高生がヒロインだ」

「オダヤカ……お前、けっこうロマンティックなことを――」


 オダヤカは首を横に振る。


「待て待て、それ以上は恥ずかしいから言うな。確かに俺はラブコメとか恋愛シミュレーションゲームとか大好物さ。周囲の人間は俺のことを『オダヤカ』と呼び、俺も毎日心穏やかに生きることを人生の目標に設定している。普段は声を荒げたり、誰かとケンカしたりもしない。しかし、実は心の中では恋愛に対しては穏やかではなく、常にムラムラしているんだ。俺が心の中で凶暴な恋愛モンスターを飼育しているってことは、クラスのみんなには内緒だぜ?」


 オダヤカは、自分の口の前に人差し指を立てて「しー」と言った。

 あれ? こいつ……実はこんな奴だったのか? 知らなかったぜ……。

『恋ばな』とか好きなの?

 僕がずっと恋愛を封印していたせいでこれまで、オダヤカのそんな恋愛好きな一面に触れる機会がなかっただけ?


 オダヤカは普段の彼とは少し違う声のトーンで、話を続けた。


「いいか、お前の奇妙な恋の物語は、もうはじまっているんだ。そして最後、俺とか他の童貞どもが、お前に対して敬語を使いはじめる。そしたら、この恋の物語はエンディングを迎えるってわけだ。ハッピーエンドまでの協力はしまないぜ」

「オダヤカ……お前。なんだか全然穏やかじゃないな!」

「ああ!」


 あとお前、ちょっとだけ気持ち悪いぞ――と言いかけて、その言葉は声に出さず飲み込んだ。

 オダヤカは言った。


「バス停の女子高生が抱えているトラブルを解決し、その後、お前は彼女と両想いになる。そして、俺がお前に敬語を使う。二人のハッピーエンドを俺に見せてくれ」


 オダヤカがこちらに右手を差し出してきた。

 男同士の友情の握手だ!

 僕はオダヤカとがっちり握手を交わしながら思った。


 んっ? あれ?

 仮に僕があのバス停の女子高生と恋人同士になって、お互い同意の上でそういうエッチなことをしたら、僕はオダヤカにその報告をしなくちゃいけないのか?

 女の子、そういうの嫌がるんじゃない?

 もしもそういう未来がやってきて、エッチしたことを僕が友人に自慢気に報告したら、彼女から怒られない?


 来るか来ないかもわからないような未来。

 それを想像しながら、僕が苦笑いを浮かべていると、オダヤカは普段と違って全然穏やかじゃない雰囲気でこんな提案をしてきた。


「恋愛のアドバイスをしてくれる人間が必要だと思うんだ」

「えっ?」

「俺と仲良くしてくれている先輩で、高校生ながらすでに童貞を卒業した彼女持ちの知り合いが一人だけいる」

「なっ! そんな人と知り合いなのか?」

「ああ。協力が必要なときがきたら、信用のできる相手には先輩のことを話してもいいことになっている」


 ……な、なんだそれ?


「僕が聞いてもいい話なのか?」

「そうだな、もう大丈夫だ。お前もようやく恋愛と向き合うみたいだし、先輩の協力が必要なときは今だろう」

「そうなのか?」

「そうだ。俺と同じ中学の出身で、この高校の三年生に『ロクゴクシ先輩』っているだろ?」

「えっ、ロクゴクシ先輩……あの、『三国志』を二倍にしたようなスケールの男と言われているロクゴクシ先輩か」

「そうだ。三国志を二倍にしたようなスケールのでかい男――ロクゴクシ先輩だ」


 オダヤカとロクゴクシ先輩が校内でひそひそと立ち話している光景を、確かに僕は過去に何度か目撃したことがある。

 僕は『ロクゴクシ先輩』のことは、ほぼ知らない。

 確か本名は『加藤』とか『田中』とか、そんなありふれた名字だったと思う。

 下の名前は知らない。

 ちらりと聞いたことがあるのだけど、『六国志ロクゴクシ』というあだ名は、中学のときに彼の同級生から付けられたみたいだ。

 彼のことをロクゴクシと名付けた人物は、やはり三国志が好きな男だったらしいのだけど、中二の夏に県外に転校したそうだ。


 オダヤカが言うには、ロクゴクシ先輩本人は三国志には詳しくないらしい。

 そして、僕もオダヤカも三国志はよく知らない。


「あの先輩、彼女持ちで童貞卒業しているのか……僕は一度もきちんと話したことはないんだけど……」


 僕がそう言うと、オダヤカはロクゴクシ先輩の秘密を教えてくれた。


「実はロクゴクシ先輩は、自作の人工知能に恋の相談をして、恋人を作ることに成功したんだぜ?」

「人工知能!? それも自作の!?」

「ああ。あの人は本物の天才だ。あと、口が堅い人だから信用もできる。お前の奇妙な恋愛について相談したら、もしかしたら恋愛相談用の人工知能を使わせてくれるかもしれない」


 そんなわけで僕とオダヤカは、彼女持ちで童貞を卒業しているロクゴクシ先輩に、奇妙な恋愛相談をすることになったのだった。

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