第15話

 がくりと頭が揺れた。ぱちりと目を見開いたアンジュは辺りを見渡し、足を投げ出す。

 口角を濡らすよだれを拭って、空を見上げた。


 頂点を越えた日差しは傾いているけれども沈むまでにはまだ時間がある。

 店内を覗き見れば、本日の保護者兼護衛もどきは服を何着か見比べていた。


「……なんでもいいとは言ったけど、普段着でそこまで悩まれると重い……」


 その嘆きが、窓の向こうのエリオネルに届くことはない。

 なんでもいいと言えった以上、任せるつもりだったが、これは明らかに選択を間違えた。

 あとどれくらい時間がかかるのかも分からないなかでただ待つのは、苦痛でしかない。


 どうしようか。前言撤回したいけれども、楽しそうにしているところに水を差すのは気が引ける。


 深くため息を吐き出したとき、するりと足を何かが這った。

 咄嗟に足を縮こめて、見下ろす。


 第一印象は白だった。

 純白のように綺麗な白い体躯。くりっとした赤い瞳が鮮やかに映える。

 細長い胴体をくねらせて、それは不思議そうに首を傾げた。


 それに合わせて首を傾げたアンジュは無言を貫く。


 蛇。なんで蛇。どっから出てきた。

 遠目に眺めているから可愛いのであって、触ってみたいとか思ったことはあるけど、ねぇちょっとまって。

 白蛇ってことは神使とか聖なるものって言われていたりするけどそれはあくまで地球での話で、好きだけどね神獣聖獣妖怪人外。


 えぇっと、えぇっと、現実問題として神様の使者はごめんこうむる。


 いや、現実問題もなにも、そもそも野生の蛇相手に突拍子もないことを考えている時点で動揺が激しい。

 落ち着け。うん、落ち着け。とりあえず噛まれなければ。


「みっ!?」


 素っ頓狂な声を上げてアンジュは硬直した。

 足を這い上がる感触。硬直している間にそれは服の下に潜り込み、巻き付いて動かなくなる。


 動悸が激しい。頭の中がゆだったように熱い。

 息を殺して足の中の様子を窺っていたアンジュは、ゆっくりと手を持ち上げた。


 服の下の蛇が動く気配はない。

 様子を見ようと裾をつみ、ふと手を止めた。


「……………………大通りで裾まくったら、変質者だよな」


 手を離して、虚空を見つめる。

 しばらくしても服の下で蛇が動くことはなく、アンジュは平静を取り戻した。


 腕を組んで、窓越しに店内を伺う。

 見比べてはいるようだが、起きた直後より種類が増えている意味が分からない。

 普通は減るものじゃないのだろうか。


 切実に、切実に、もう帰りましょう。

 服なんぞ何でもいいから、帰りましょう。

 この子が動き出す前にヘルプミー。


 苛立ちと、驚きと、恐怖から解放された安堵で、目尻に熱いものが浮かぶ。


 足に巻き付く蛇を刺激しないようにゆっくりと立ち上がる。動きはない。

 そろりと、足を一歩、前に出した。問題なし。

 もう一歩。――動く気配はない。

 普通に歩いてみるけれども、くすぐったさも痛みもない。

 ためしに跳ねたりしてみたが、足に巻き付く蛇は微動だにしなかった。


「……………………動かないなら、まあいいか」


 この蛇が何を考えているのかさっぱりわからないが、害がないのであればそれでいい。

 それでいいという事にしておく。


「あ、いたっ! よかった……。靴、靴を買わなきゃいけなかったの忘れてたから、ほら着替えよう」


 言われるがままに店の中に連れられて渡された服を抱える。

 目の前でそれを広げて、アンジュは目を瞬いた。


 なんかファンタジー。


 生憎と、服の作り方は知っていても、ファッションそのものにはまったく興味なかった。

 だからどこがファンタジーか、と言われると、指摘するのは難しい。


 店主に招かれるままに仕切られた奥へ向かう。

 ちょっと待ってて、と店主が店の奥に姿を消す。

 しばらくして戻ってきた店主の手にはカップが握られていた。


「はい、どうぞ。長い時間外にいたから、喉が渇いてるでしょ」


 抱えていた服とカップが入れ替えられて、アンジュは店主を見上げた。

 そして深々と頭を下げる。


「ありがとうございます」

「気にしないで」


 頂きます、と口をつける。

 飲み始めてようやく、喉が渇いていることに気がついた。

 一気に飲み干して喉を潤わせる。


「おかわりあるけど、飲む?」

「……いいのであれば、頂きたいです」

「いいのよ。待たせたお詫び」


 その言葉に甘えて二杯ほど飲み干し、アンジュはお腹を押さえた。

 一気に飲みすぎたかな。いやでも喉は渇いていたらしいから。


 渡された服に着替えながら、アンジュは過去に思いをはせる。


 よく水分摂るのをめんどくさがって、脱水をおこしてたなぁ。

 ここでも気をつけなければ過去の二の舞だ。

 頭痛いの通り越して、何度となく気分悪くなったからな。いや、頭痛覚える時点でそうとう脱水が進んでるんだけどね。頭痛を一つの指標にするのもどうかと思うけど。その前にちゃんと水分摂れってなー。


 着替えを終えれば、本日の護衛兼保護者が可愛いと愛でてきたが、なんか怖かった。

 同じ可愛いでも、女将さんのほうは気恥ずかしい可愛いだが、この護衛兼保護者のほうは身の毛がよだつ可愛いだ。ようはできることなら可能な限り近づきたくない。


 まあ、それはそれとして、気味が悪くても害がないなら、取り立てて目くじら立てるつもりはない。ただ、忌避感があるだけで。


 大通りでしてようものなら即座に衛兵にしょっ引かれそうな顔をしているエリオネルを置いて店の扉へ向かう。


「ありがとうございました」

「いいえ、こちらこそ。楽しませてもらったわ。またねアンジュちゃん」

「はい。お世話になりました」


 軽く頭を下げて踵を返した。

 後ろで慌てふためいている人を待って、急ぎ足で靴屋に向かう。

 滑り込みで靴を3足買ってもらい、帰路につく頃には日が暮れていた。


 おかしい。さくさくっと終わらせて宿でのんびりするはずだったんだけどな。


 ご飯を食べて、ベッドに倒れ込んだアンジュは長く息を吐いた。

 もぞりと、太ももの辺りで何かが動く感覚に息を詰める。


 ゆっくりとベッドの上に膝立ちになり、おもむろにと裾に手を伸ばす。

 ワンピース調の服をめくり上げると同時に、ぼとりと、ベッドの上に蛇が落ちた。


「……………………やっべ、忘れてた」


 蛇を潰さないようにベッドの上に座り込み、首を巡らせている蛇を凝視する。

 どうするか決めてなかったけど、どうしよう。


 野生の蛇だから野性にかえすべきなのは分かっているが、流石に街中に放つのは人間と蛇、どちらの為にもならない。

 となると、山や森へ放つのが一番なのだが、残念ながら土地勘が全くないので分からない。


 どうしようか。どうしたらいい。


「……………………おい」


 地を這う声に首を巡らせたアンジュは扉の前に立つ人物をしばし見つめる。


 窓の外はまだ仄かに明るい。


 思ったより帰ってくるの早かったな。

 言い訳…するような事でもないけども、だ。

 怒られるとかはないと思うが、褒められるようなことでもない、というのが反応に困る。


 つらつらと考え事をしながら、すっと片手を上げた。


「おかえりカルロ」

「おう。――じゃなくてだな。それはなんだ」


 なんだと言われましても。


「蛇」


 端的に返したアンジュは目の前に座る白い蛇を見つめ返しながら腕を組んだ。


「この子どうしようかなって思ってて。見ている分には可愛いけどねー」


 あくまで見ている分には、だ。

 飼いたいかと言われるとそう思ったことはないし、連れて帰ってきた今も飼うという選択肢はないに等しい。

 かといって、野性に返すにしても街中しか知らないからカルロの協力は必須。まあ、街中をうろついていたくらいだから帰ろうと思えば帰れるのかも知れないが。それは流石に無責任だろう。しばらくの間だとしても飼育の責任はもたなければいけない。


 カルロや女将が許せば、の話だが。


「…………。服を買いに行かせて、なんで白蛇を連れ帰るはめになるんだよ」

「いや、別に何かあったわけじゃないんだよ。一緒に行った人の方が服選びに白熱したから外で座って暇つぶししてたら、なんか巻き付かれただけで」

「それで?」

「巻き付いただけで締め付けてくるわけでもないし暴れないし、噛みつく気配もないし、まぁいいかって思ってたら忘れてた」


 綺麗さっぱり頭の中から消えていた。

 物の見事に消えていた。

 自分でも不思議なくらい、なんとも思わなかった。


「忘れるか? 普通」

「いやそこはほら、普通とは言えいがたく多分なんかどこかズレてる自覚はあるし、あと感覚って慣れてしまえば何も感じなくなるからね。仕方ないよ、うん」


 自分を正当化してひとり頷く。


 アンジュとて、想定外と言えば想定外だったのだ。

 主に買い物にあんなに時間がかかることにたいしてだが。


「あ、そうだ。服と靴の代金ありがとうございます」

「……そこは問題ない」


 呆れた口調とともにため息をついたカルロに憐憫の視線を向けた。


 本当に、こんなのに振り回されて可哀想に。

 他に頼る当てもないのでカルロに頼るほかない現状が申し訳ない。

 こんな子どもでも真っ当に働けるような何かがあるなら良いのだが。


 真っ当なものでなければ、在るんだろうけど、そこまでしたいかと言われるとしたくはない。

 生きるためにせざるを得ない人たちがいることは知っている。だが、自分が生きるためにそこまでするかと言われると、這いつくばってでも生きようとする姿が想像できない。


 なんてったって、死を目前にした感想が仕方ない、だったからな。


 ちろちろと視界をかすめた舌に視線を滑らせた。

 じっと見つめてくる赤い瞳。つるっとした白い体。

 によによしそうな口角を押さえつけながら、ゆっくりと指先を伸ばす。


 蛇の頭に置いて動かす。

 じっと見つめてくるだけで微動だにしない蛇に、アンジュは頬に力を込めた。


 飼えるものなら飼ってみたいが、ヒモである現状わがままは言うまい。


「この子、野性に返すとしたら、どこに連れて行ったらいい?」

「……、………………、……その前に、一回預かって良いか?」


 返答までの長い沈黙に首を傾げた。

 何をそんなに悩むことがあるのだろう。

 蛇が好きなのだろうか。


 私の場合は好きな動機が違うからなんとも言えないけども。


「いいもなにも、この子は私のものではないし。ここに来るまで噛まなかったけど、大丈夫な保証はないよ」

「大丈夫だろ」


 どこか自信ありげにカルロが手を伸ばす。

 目の前でとまった手をじっと見つめて、蛇はするするとカルロの腕に巻き付いた。


 その自信がどこから来るのか甚だ疑問ではあったが、実際に難なく手懐けたカルロの手腕にアンジュは両手を鳴らした。


「おー、すごい」


 素直に感嘆したにもかかわらずどこか不機嫌そうなカルロに、叩いていた手を止める。

 盛大にため息をつかれて、むっと唇をへの字に曲げた。


 なぜにそんなため息を吐かれなきゃいけないのだ。


「二、三日は帰れないから、大人しくしてろよ」


 その上、たしなめるようなその口調。解せん。

 いや、別に外に出なくても食って寝ていれば死なないし、引きこもり上等だからいいけども。


「大人しくしてろよ」

「………わかった」


 御しきれないじゃじゃ馬とでも思ってそうなその態度が気に食わない。

 反発する理由もないからするつもりはないが、この胸のわだかまりをどうしてくれよう。


 物言いたげな視線を送ってくるカルロに目をすがめた。


「なに?」

「…………宿にいろよ?」

「いるよ」

「絶対だからな?」

「いるってば。そんなに信用ない?」

「起きた翌日には散歩に出るくらいには元気だからお前」

「あれは寝起きで理性より欲望が勝っただけで、ちゃんと制御してますー」


 鼻を鳴らして明後日の方向に首を巡らせる。


 なんだってそんな信用ないかね。

 そりゃ前科はございますけれども、そこまでお馬鹿ではないぞ。

 大人しくしてろって言うからにはそれなりの理由があることくらいわかるっての。


 こんなことで腹立てて仕方がないと思いつつ、どうにも普段にもまして苛立ちが募る。

 御しきれないじゃじゃ馬よりも、自分の感情の方がよっぽどやっかいだわ。

 ってことはつまり、カルロに腹を立てる道理なくないか? 事実と言えば事実なんだし。


 …………うん、事実。信用なくて当然です、はい。


 衣擦れに顔を上げると、カルロが立ち上がるところだった。

 無言で遠ざかる背を見つめる。

 そのまま部屋を出て、部屋の扉を閉める直前、顔を覗かせた。


「帰ってきたら散策には付き合うから、大人しくしてろよ」

「へぇい」


 心配するのはもっともなのだが、あまりのしつこさに嫌気が差す。

 布団に転がって掛け布団をかき集めて抱き、頬を膨らませる。

 ぎゅうぎゅうと締め付けて、そして布団に顔を埋めた。










 けれども、その翌日。

 乱雑に開け放たれた宿の扉。


「女将はいるか!」


 床を叩くいくつもの金属音が凶報を告げる。


「何さね、衛兵様が騒々しい」

「カルロの部屋はどこだ」

「彼がどうかしたのかい」

「会長宅への不法侵入及び窃盗を働いた犯罪者よ」


 アンジュの唇から乾いた吐息がこぼれ落ちた。


 耳を通り抜けていく言葉。

 現実であるはずなのに、あたかも映像を見ているようにどこか夢心地で。


「一級犯罪者の荷物の引き取り及び他の部屋の検分、重要参考人として女将にも同行を願う!」


 声高に突きつけられた無情な現実に、掃除道具が手から滑り落ちた。

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