第7話
倉庫だと思っていた場所は実は町外れの空き家であった。空き家は難なく抜け出すことができ、カルロに手を引かれて歩く。表通りへでて、初めて出歩く街並みに感動と不安を覚えつつ、アンジェリカは視線を彷徨わせた。
どこにいても人が多いことには変わらない事実にうんざりしつつ、けれども興味を絶てずに辺りを見渡す。
「…ちっ。どこもかしこも兵士がいやがる」
歩きながらカルロが舌打ちする。
カルロの言うとおり、帯剣する男たちを先ほどからよく見かけていた。路地裏の奥の方で立っているものもあれば、街中を歩いているものもいる。
街中を歩いている者の中には、ファンタジーでよくいそうな僧侶や魔術師のような人たちもいる。落ち着かない様子のアンジェリカは、ずり落ちかけた頭巾を慌てて手で押さえた。
空き家を出る前、服を着替えたが良いものの、体の清潔感と服の不潔感に差がありすぎて違和感しかない、という指摘があった。アンジェリカ自身の感覚としては床に寝転がったのもあって汚れている感じはするが、カルロに言わせてみればたいした差はないとのこと。
髪も隠した方が良いとのことで、倉庫にあった何に使ったのかも分からない布きれを頭に巻いた。腰まである髪を布きれの中に全て隠すのは出来ず、髪を切る切らないの一悶着があったのは余談である。
「だれか、れんらくとれるひといないの?」
「こっち側はな……いや、ひとりだけ…ううん、だめだ。巻き込めねぇ」
「なら、どうする」
「せめてスラムにさえ入れればどうとでも出来るんだが」
話し合って、家には行かない、貴族街には近づかないと決めている。
邸の中で攫われたと言うことは、誰であれ手引きしたものがいる。敵地かも知れない場所へ自ら乗り込むことはできない。そう判断した結果だ。
「…いっそのこと、まちもでる?」
「死ぬぞ。冗談抜きで」
アンジェリカは歩みを止めた。
その表紙に、前を歩いていたカルロの手から、アンジェリカの小さな手がすり抜ける。
「どうした」
「……なら、べつこうどうしよう」
「は?」
「わたしはでるから、カルロさんはここにのこって」
「何言ってんだよ。死ぬ気か!?」
がしりと肩を捕まれた。
カルロが慌てるのは、知識として知っている。
この世界には魔獣がいて、それが街の外を跋扈していること。
街には魔除けが施されているから滅多な事では襲われないけれど、街を出れば死と隣り合わせなこと。
そんなことは知っている。
「それでもいくってきめたから」
「考え直せ。それだけは考え直せ」
アンジェリカはゆっくりと首を横に振った。
歩きながら考えていて、思った。
考え過ぎならばそれが一番なのだが、現実はそう甘くない。
光の裏には影がある。影で闇を背負うものたちがいる。
きれい事だけじゃ社会はうまく回らない。
だからたぶん、ラノベにあるようにどこかに“影”は潜んでいる。
一見すれば一般人のようだけれども、視線だけを動かせばこちらを伺う人をちらほらと見かける。
気にしすぎなのかも知れない。神経質になっているだけかもしれない。でももしそうじゃなかったら?
その人たちが敵か味方か、全くわからない。
現時点で信じられるのは自分自身とカルロのみ。
最優先事項は生き延びること。けれど、誘拐の目的を考えると、狙いは私。
なら、いつまでもともに行動するのはカルロを危険にさらしているのではないのか。
その考えにたどり着いたとき、アンジェリカは彼から離れようと思った。
自身が原因で誰かが傷つくのを見るのはごめんだ。それに耐えられるほどの心の強さを持ち合わせていないのを知っている。
アンジェリカは一歩、足を引いた。
「もう、きめたから」
外に出れば、高確率で魔物に殺されるだろう。
だけど、選択の結果がそれならば、誰かが傷つくよりも受け入れられる。
それは自己犠牲ではない。誰かが傷つくことで自分が傷つきたくないという思いが根底にあるのをアンジェリカは知っている。
面倒な性格をしていると思うし、それではいけないことも分かってはいる。だが、踏み出せるほどの勇気を持ち合わせていない。それならば、現状に甘んじた方がよほど心が楽だった。
いろいろな思いを抱えていても、結局は自分が一番で、自分がそうしたいからそうするのだ。
「意味、わかんねぇ……。意味わかんねぇよ。生き足掻くんじゃなかったのかよ。なんで死にに行くんだよ」
「いきあがいてるよ。しににいくわけじゃない」
「外に出ることは死にに行くことと同じだよ」
知っている。もし外へ出て死んだのなら、自分で選んだ人生がそういうものだっただけなのだ。だから、カルロが気に負う必要は無いのだが、多くの人間は気に病んでしまう。
アンジェリカはうつむいて拳を握りしめた。
期待も、願いも、恐れも、不安も全て胸の内に飲み込んで、努めて怒っているかのようにカルロを睨みつけた。
「
「……え?」
呆然とするカルロの手を払いのけて、アンジェリカは駆け出した。
先ほどまでいた人気の少ない道から大通りへと出て、大きな建物――王城から遠ざかる方向を行く。
気づいたら振り返ってしまいそうで、唇をかみしめて意図して前を見据える。
望んではいけない。期待してはいけない。
守りたいとかそんな崇高な想いがあるわけじゃない。これはただ逃げているだけ。恐れて全てを拒絶しているだけ。そうすることで、私が安堵できる。
あぁ、なんて浅ましいのだろうか。なんて愚かしいのだろうか。
自分の為、と言って逃げ出したくせに、来て欲しいと望む自分がいる。
望んではいけない。願ってはいけない。自分で選んだ事なのだから、振り返ってはならない。
「っ、あっ……」
足がもつれて、派手にこけた。
痛みに顔を歪めながらゆっくりと起き上がる。
手のひらも、膝もすりむけて血がにじんでいた。
どうしてか、とても泣きたい気分に駆られた。涙は流れないけれども。
なにが自分をそうさせるのだろう。どうしてこんなにも心がかき乱されるのだろう。
頭がまわらない。心がぐちゃぐちゃする。
乱される。狂わされる。堕とされる。
闇に。深淵に。
壊れてしまえ。消えてしまえ。無くなってしまえ。
全部、全部、なにもかも。
頭を抱えて、建物と建物の隙間に身を隠す。
壊してはならない。自分本位にもほどがある。
世の中は非情。理不尽の権化。それになにを期待する。期待なんてするから、裏切られると感じるのだ。
そういうものだとして知っている。頭ではわかっている。
なのになぜ、今頃になってこんなにも感情が揺さぶられているのだろう。
どうして冷静でいられないのだろう。
にじんだ視界が瞼に隠れる。暖かいものが一筋、頬をつたった。
意識は、そこで途切れた。
「あぁぁぁぁぁぁ、ごめんなさい、ほんとごめんなさい。すみません」
目の前に横たわる女性を前にして、少年は拝み倒していた。
説明を忘れたあげくに、まだ肉体は未熟だということすらも頭にはなく、加護という形で神の力の一端を身に受けた少女の肉体は悲鳴を上げた。
まだ少女に加護を与えた事が明らかになっていないため、余分な加護をとりあげて様子を見ようと思っていたら、予想外にも取り上げられない状況になってしまった。
取り上げたら確実に彼女は死ぬ。肉体は朽ち果て、魂はすり切れ消滅する。
加護を与えすぎた、というのもあるが、なにより彼女たちにかけられた呪いが加護と反発し合い、未熟な体にさらなる負荷を与えた。
「言い訳するならあのとき君は自分が大人の姿だってことに全く気づかず僕と語ってくれた者だから、僕もついうっかり君の新しい肉体はまだ生まれたばかりのか弱い体だって事を忘れて、大人であれば耐えられるであろう加護の強さにしちゃったんだよ…! 言い訳はあくまで言い訳であって今更どうこう言っても仕方が無いんだけどほんとにごめんなさい…!」
平謝りして、少年は一人肩を落とす。
「…と言っても、今の君には届かないんだよね……」
以前、嬉々として語り合った同志は、今はかたく目を閉ざしている。
肉体で背負いきれなかった負荷は魂にまで及び、彼女の存在はとても危うい。
本来であれば、この場所も今の彼女には毒だ。だが、ある側面から見れば薬でもある。
だから少年は近年稀にみるほど細心の注意を払い、彼女の魂を守る結界を築きあげた。
彼女の魂が安定するまでは解けることのない結界。
それを無事に貼り終えて気が抜けた少年は、申し訳なさから平謝りして拝み倒すという行為に出たのだ。
少年は悄然としながら、無理矢理この場所へ連れてきたが為に、そのままになっている少女の肉体が移る景色へと視線を向けた。
先刻までともにいた人の子が、顔色を変えて呼び続けている。
その傍らでは、周りの者へと指示を飛ばす老いた人の子の姿があった。
「……たった数日のことなのに、ここまで運命が変わってるから、すごいよなぁ」
本当であれば、彼女は、アンジェリカは降誕祭に参加しなかった。
本当であれば、アンジェリカの父オスヴィンはあのまま体調を崩し、死ぬはずだった。
本当であれば、あのまま食料庫にいて、救出に来た兵士にカルロは殺されていた。
なのに、何も知らないはずの彼女はそれを全て回避して見せた。
何度も何度も繰り返しても、否、繰り返される運命の中で変わらなかった運命が変わった。
世界の中心はアンジェリカだ。それは比喩でも何でも無く、少年にとっては歴然たる事実である。
「君だけが、あれを止められる。君だけが、あれから世界を取り戻せる」
アンジェリカという存在は世界の希望であり、少年のよすがであった。
「にもかかわらず、僕と言ったらなんてことを……!」
ループする思考に、少年は膝を抱えて深くため息をついた。
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