第5話

 ぱっと目を開けて、アンジェリカは数度目を瞬いた。


 夢を見ていた。いや、あれは夢だったのだろうか。まぁ、夢だろう。リアルな夢だった。

 目の前のあり得ない事態にちょっと頭のネジ外れた。もともと二、三本外れてるけど、さらに外れた。

 でも語らえたのは楽しかった。楽しければ全てよし。


 くわりと淑女らしからぬ大きなあくびをこぼしながら、口元を手で覆おうとして、思うように動かないことに気がつく。

 視線を滑らせて視界に飛び込んできたのは自身の手に重ねられている大きな手と、紫紺の髪だった。

 うなじしか見えないので性別が判別しにくいが、手は大きく太くがっしりしているので多分男性だろう。

 だが、紫紺の髪をした男性など、いただろうか。


「だれ?」


 静かな誰何が部屋におちる。握られている手を引き抜こうとしても抜けず、早々に諦めたアンジェリカはそっと体を起こした。

 その気配に、紫紺の髪の男性が身じろぐ。眠そうに呻きながらゆっくりと上体を起こし、片手で顔を覆った。


「あぁ……私は眠って……」


 気怠そうに男の視線が持ち上がる。

 それをアンジェリカは無言でじっと見つめた。


 年の頃は20代後半だろうか。身に纏っている服は上質なもので、寝不足なのかどこかやつれた様子がありながらも、気品は損なわれていない。気抜けしているアンジェリカを食い入るように見つめる深い緑色の瞳が、ゆっくりと見開かれた。

 唇を、体を震わせて、慟哭にも似た雄叫びをあげる。


「お、おぉぉぉぉぉっ! アンジェリカ…っ、よかった……!」


 よかった、と何度も繰り返し、神への感謝を捧げ、握りしめた手を額に押し当てる男。アンジェリカは意味がわからず首をかしげて様子をうかがう。

 のっぴきならない事態があったのは想像はつくが、当事者がかやの外というのは暇である。知らなくても良いかなと、考えることを放棄し始めたとき、騒ぎを聞きつけた使用人が数名入ってきて、同じように安堵する様子を見せた。

 中には目元を拭う者もいて、待つことが面倒くさくなったアンジェリカは、感激あふれるその空気を淡々とぶった切った。


「しつれいとはぞんじますが、どちらさまでしょうか」


 起きたら訳のわからないことになってるあげく、もともと気は長くないのに待たされ、アンジェリカの気分はだいぶ落ちている。あんただれ、とド直球に聞こうとして、着ている服からするに位の高い人なんだろうと思い至り、外面モードへと切り替えた。

 首をかしげて困った表情をつくって見せて、縋りついていると見せるように使用人に視線を滑らせる。


 喜びの声が、涙が、時が止まったかのようにぴたりかき消えたその中で、アンジェリカは更に言いつのった。


「おそれながら、どこかでおあいしたことがありましたでしょうか? なにぶん、あなたさまのようなすてきなとのがたとおあいするきかいはわたくしにはそうそうありませんので……。もしかして、せんじつのだいにおうじでんかのせいたんさいにいらっしゃったかたでしょうか?」


 思い至ったひとつの過程に、アンジェリカはひとり心のなかで納得する。

 面識はないが一方的に知っていることから考えて、公爵家が懇意にしてる人。当主不在の公爵家に出入り出来ていることから考えると、相当気の置けない仲のうえ、信頼を置かれている人物。

 当主の友好関係などしらないので名前までは想像がつかないけれど、大方そんなところだろうと気を引き締める。


「あ、ああ! そ、そそ、そうなんだ! アンジェリカは聡いな! はは…あははははは……」 


 どこか慌てた様子に首をかしげながらも、静かに心を躍らせる。

 おぉ、はじめて読みが当たった。すげぇ。なんか嬉しい。いつも考えて聞いてみるけど、どこかずれてて惜しい結果ばかりだったから、素直に嬉しい。


「さようにございましたか」

「と、ところで! 体の方はもう大丈夫か?」

「だいじょうぶ、とは?」


 生まれてこの方大きな病気をすることなく、いたって普通の健康児なのだが。

 訂正。アンジェリカは心は病んでたから、いたって普通の体は健康児、だ。


 しょうもないボケと突っ込みを表面化で楽しみながら、アンジェリカは首をかしげてた。


「覚えてないのかい? 刺客に襲われて、倒れたんだよ君は」

「しかく?」


 視覚に襲われる? 視覚の暴力っていう意味なんだろうか。視覚の暴力ってなんだ? 見て気分を害するようなもの…世間一般的な感覚としていくつか具体例はあがるが、べつになぁ。

 あ、蜘蛛とか百足とかうじゃうじゃしたのだめだ。でもそんなのここで見た覚えはない。いや、あまりにも酷すぎて脳が思い出すのを拒否してるのかも。きっとそうだな。


「おぼえていません」

「あぁ、アンジェリカ……! すまない、嫌なことを聞いたね」

「おきづかいありがとうございます」


 本当にまったくこれっぽっちも記憶にないので嫌なことと言われてもピンとこない。ゆえに謝られても困惑するだけだが、それをおくびにも出さず丁寧に頭をさげる。

 アンジェリカはやや自分の世界に入っていて気づいていないが、後ろでは目を細めて成年を睨みつける老執事がいて、その当の成年が沈んだ顔をしている。

 そのどちらもアンジェリカが顔を上げると、表情を取り繕うものだから、ついにはアンジェリカは気づかなかった。


「君は倒れてから一度も目を覚まさず、一週間も寝たきりだったんだ」

「……そう、なのですか?」


 視覚の暴力ってそんなにすごいのか。そこまですごいのなら、覚えてないのは少しもったいない。まぁ、ネタとしては面白いからいいか。


 アンジェリカは成年に手を離して貰い、あいた両手を握ったりひらいたりして、首を回す。止める声を無視してベッドから降り立ち、自分の体を見下ろした。

 一週間寝ていた割には、体のだるさはない。ふらつくこともない。それ以前に、本当に寝たきりだったのかと疑うくらい体は元気だ。


「からだのほうはなんともないみたいです。おこころづかいおそれいります」

「いや……。…………」


 唐突に口を閉ざし何かを思案する成年。

 アンジェリカは沸き起こってきたあくびをかみ殺し、ゆっくり目を瞬く。


 さっさと帰ってくれないかな、この人。

 仮にも病人だったって事は、仮病使える。つまりごろごろ出来る。一分でも一秒でも早く私はごろごろしたい。うだうだしたい。化けの皮引っぺがしたい。


 胡乱げに成年に視線を投げかけられるも、アンジェリカは気づかず思案に暮れる。


 どうしたら追い出せるかな。ここでふらっと倒れる演技したら追い出せる? え、めんどくさい。つかわからない。

 なんでぐうたらしたいだけなのに、こんなこと考えてるんだろう。アホらしい。


「アンジェリカ」


 静かな声音にはっと我に返る。

 真面目な顔をしている成年に、笑みを浮かべて返事をした。


「これはしつれいいたしました。まだほんちょうしではないようなので、すこしぼーっとしておりましたわ」

「す、すまん。そこまで気が回らなかった。病み上がりだったな」


 促されるがままにベッドに横たわり、目を閉じる。けれども、一連のやりとりの中で目が冴えてしまっており、眠気はやってきそうにない。

 ため息尽きたくなるのをこらえ、動く気配のない観客を心の中で追い払う。


 見せもんじゃねぇぞ。ほら行けさっさと行けそして放っておけ。


 いなくなれーと心の底から念じていると、唐突に頭に暖かいものが触れた。

 恐る恐るというように往復するぬくもり。静かな声が耳に届く。


「こんなに大きくなっていたんだな…」

「えぇ。やっと、正気に返られましたか、旦那様」


 うん?


「あれから何年経った?」

「三年にございます」

「三年も娘をほったらかしにしていたとリ―シャが知ったら、泣かれるな」


 ………え?


「……お前たちにも苦労をかけた、ランドルフ」

「旦那様の補佐をするのも私どもの役目にございます。――と、申し上げたいところですが、事実その通りにございますね」

「耳が痛い」

「旦那様の心中はお察ししますが、父親だと名乗り出られない腑抜けぶりを拝見しましてはそうも申し上げたくなります」

「う……」


 えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ。なにそれ。なんかよくわかんないけどテンション下がった。

 うっわー…めんどくせぇ……やらかした、というより、めんどくせぇ……えぇぇぇぇ。 

 もうなんでもいいや。


「い、今更すぎないか?」 

「…お嬢様は親から愛情を得ることさえも出来ずに育ってしまわれるのですね…。なんとおかわいそうに……」

「で、でもお前たちがいるだろう」

「あぁ、不憫なお嬢様。娘よりも自己保身に走るお父上をもってしまったがゆえに、これからも寂しい思いを強いられ、そこを心ない男につけこまれ良いように利用されるのですね……」

「そんなことはさせんっ」

「大きな声を出されますと、お嬢様が起きてしまわれますよ、旦那様」


 息をのむ音がして、ゆっくりと頭のぬくもりが離れていく。

 起きてるけどな、と胸の中で返事をして、これまた胸の中でため息を吐く。


「……第二王子にはやらん。他にも絶対やらん。勅命だろうともやらん」


 低い声で唸るように告げられた内容に、国王陛下から打診があったのだろうとアンジェリカは当たりをつけた。

 一見すれば将来多分きっと有望株かもしれない令嬢の皮。ただし中身はすっからかんのおいしくない皮。この生態を考慮するとやめとけと思うけれど、外の皮はそれなりに生きるために必須。

 皮被って猫三匹くらい背負って笑顔貼り付けて演じないと自分は社会的に生きていけない。なくても生きていけるのであればそんなもの空の彼方にでも放り出すのだが、いかんせん、そう美味しい話しはない。


 だから、自分で作るしかない。


「父親面するのであれば、まずはお嬢様に認知されてからにしてくださいませ」


 まったくだ。

 他人事のようにアンジェリカは老執事に同意する。それと同時に、生物学上の父であるらしい男に憐れみを覚えた。


 以前のアンジェリカならばともかく、今のアンジェリカには父親という者にそこまでの興味関心は無い。

現時点における最重要事項はいかにお金を稼いで拠点を確保して、どのように人との関わりを断ち切るか、だ。


 もう少し早ければ何かが違ったのだろうが、もうどうしようもない。


「や、やはり名乗り出なければだめか?」

「当たり前です。なに寝言をおっしゃっているのですか」


 長い長い沈黙の後にそうだよなぁ、と肩を落とした声。

 衣擦れと足音、そして扉の閉まる音を聞く。しばらくしてから、アンジェリカはようようと瞼を開いた。


「……自堕落生活の第一歩として、まずは資金繰りかなぁ……」







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