あの夏は確かに彼女の身体を蝕んでいた

空白症候群

第1話 出会い

 アブラゼミが喧喧しく、声を上げている。その鳴き声はこの暑さに耐えかねて、根を上げているように聴こえた。

 教室から聞こえてくる蝉の声は、暑さへの苛立ちを加速させた。

 窓から照りつけてくる日差しは、鬱陶しさすら感じてくる程に暑く、灼熱色を帯びていた。

 省エネとか言って、扇風機すらつけない教師は生徒を一体何だと思っているのか。教育委員会に訴えたい位である。

 だが、ようやくその地獄からしばらくの間解放される。

 そう、僕達学生が一年で一番楽しみにしている夏休みがやってくるのだ。

 授業中だというのに、周りの生徒達は嬉々として夏休みの予定を立てている。



 僕の予定はというとゲーム漬けの毎日を送るだけ。

 中学一年生から二年生も三年生もずっとずっとゲームが友達だった。

 三年生は勉強も友達だっただろうか。

 もちろん、学校に友達がいない訳じゃない。

 普通に話す友達もいるし、放課後や休日に遊びに行ったりもするけれど、やっぱり一人の時間を大事にしたい。

 ずっとこのスタイルだからか、友達も海や旅行みたいな遠出くらいでしか誘ってこなくなった。僕としては、非常にありがたい。



 前の席の女子からメモ帳が回されてくる。

 どうやら後ろの女子にメモ帳を渡してほしいらしい。差し詰め夏休みの遊びの計画に関してだろう。

 淡いピンク色のメモ帳でいかにも女子らしい。

 早いうちに渡そうとして、後ろをくるりと向く時、誤って手に消しゴムが当たって落ちてしまった。

 先にメモ帳をちゃっちゃと渡してしまおう。

 後ろの席の女子はありがとうと一言言うとそのメモ帳を熱心に読み始めた。

 授業に参加する気はさらさらないようだ。……人の事は言えないが。

 落ちた消しゴムはどうやら右隣の席の下に行ってしまったようだ。


 右隣の席はいつも空席だ。


 入学してきて以来、ずっと隣の席だが、その席が埋まった事は友達が座ったくらいで、本当の持ち主が座っている姿を見た事がない。

 腰を屈め、消しゴムを取ろうとしたその時。


「邪魔なんだけど」


 その声色は、台詞にぴったりな印象で、感情を何処かに置いて来たような、冷淡な声だった。


「あぁ……ごめん」


 消しゴムをひょいと取り、軽く手を合わせて申し訳なさそうな表情を作って対応する。

 その女は何も言わず、右隣の席に座る。

 おいおい、こんな奴が隣の席の奴だったのかよ。

 まるで入学当初から居たように淡々と授業の準備を始め、何ごともなかったかのように板書を写してる。


「お、来たのか。阿賀」


 教師は誰も参加していなかった授業を中断して、隣の席の女子、もとい阿賀という女に声をかける。


「はい」


 はいって……それだけかよ。


「あれ、お前等なんかピンと来てねぇな。初対面だったけか?ま、丁度いい。阿賀、自己紹介してやれ」


 教師は心底どうでも良さそうに、命令を下した。

 この教師が色々な生徒から疎まれている理由が分かった気がした。


「阿賀 奈緒凛」


 クラス全体を見回し、そう名乗ると再び何事もなかったかのように席に座った。

 まるでロボットのようである。

 いや、ロボットでさえもっと愛想良く振りまくだろう。

 クラス全体は唖然とした空気が漂っていて、誰もよろしくだとか、はじめましてなんて言葉をかける様子はない。

 もちろん僕も言葉を掛けるつもりなど微塵もない。

 そんな事を適当に考え、そろそろゲームに思考を移そうとした時、隣の阿賀という女は僕に思いもしなかった言葉をぶっ込んできた。


「丁度いい。そこの貴方。私と付き合ってよ」


「……は?」


 いきなり僕に指を指しながら、雰囲気もへったくれもない状態で告白のようなものをして来たのだ。

 いや、これは何かのイタズラか?

 彼女の表情を伺うと顔色一つ変えず、じっとその瞳には僕が映っている。

 周りは変わらず唖然とし続けていて、まるで教室に猛獣が居座っているような静けさが漂っている。

 よく見ると結構容姿は可愛い。それ以上に中身に問題がありそうだが。


「どうせ付き合っている相手もいないんでしょう?」


 上から目線、尚且つがっつりと貶して来やがる。

 誰かがふふっと一言、嘲笑するような声が聴こえた。後で覚えとけよ。


「別にいないが、あんたと付き合う義理もない」


 容姿がいくら良くても、ここまで中身に問題がある以上、素直に首を縦には触る気にはなれない。

 阿賀は特別悲しんでいる様子でも、悔しんでいる様子でもなく、ジッとただ僕を見つめてくる。……何を期待してるんだ。


「付き合ってやれよ〜」


 クラスで誰かがふっと放った一言。

 後から考えたらその一言が全ての元凶だった。

 その一言が引き金となって、ダムが崩壊したように冷やかす声が徐々に徐々に強くなっていく。

 教師は一切止める様子もなく、事の流れを見守ろうと傍観している。

 とりあえず、この面倒な流れを止めるために取る行動は一つしかない。

 この行動以外にもあったかもしれないけれど、周りに囃し立てられ頭が真っ白に染まった今、これ以外の行動は思いつかなかった。


「分かったよ。付き合うよ」


「……そう」


 反応うっす。

 彼女の反応に相反して、周りはどんどん五月蝿さが加速していく。

 僕はジッと黒板を見つめ続けた。

 どうせこのノリもあともう少しでさよならできるのだから、それくらいの我慢は必要不可欠だろう。

 彼女もそれを察してか、視線の先は前を向いていた。

 何故彼女があのタイミングで告白したか、何故それが僕なのか。それに、何故今まで学校を休んでいたのか。不思議と気にはならなかった。

 もしかしたら、考えるのが億劫だったからかもしれない。


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