助手と研究者

「……良かったの? 彼、有魂だったのでしょう」


 ベルゼクトにトランクケースを渡しながらシャンテルは言った。

 丁寧さを欠いた口調が本来の2人の関係性を示す。


 ————青年と少女。

 見目で言えば年が離れているように思えるけれど、その実、同い年だ。

 幼い頃に知り合ってから今日に至るまで、ほとんどの時を共に過ごしてきた。

 もはや家族以上に気心の知れた仲にある。


 んー、と唸りベルゼクトは空を見上げた。


「霊魂に負担のかかることは避けると君が彼に説明したのじゃなかったかい?」

「そうね」

「なら、他に答えはないだろう。ここはとても鮮やか・・・だ」


 シャンテルは肩をすくめてみせる。


 ————共感覚。

 音に味を。色に匂いを。そんな風に、ある刺激に対して通常とは異なる感覚が生じることを指してそう呼ぶが、ベルゼクトとシャンテルはそれぞれ、共感覚を持って生まれた。


 シャンテルが『感情』に匂いを感じるように、ベルゼクトは『霊魂』に色彩を見いだす。


 ……いや。彼が色彩を見いだしているものが本当に『霊魂』なのかは実のところ定かではない。

 ただそれが『感情』でないことだけは確かで、これまでに積み上げてきた経験と知識による仮説として、他に説明のできるものが存在しないという結論に至った。


 彼の記憶には『モノクロの世界』が混ざる。


 経年と共に『色彩』を失っていく人々の姿を幾度となく見た。

 ここ600年の間に世界の『色』は、ほとんど失われて目にする機会の方が少なくなりつつある。


 シャンテルの白金髪プラチナブロンドも灰眼も、元は稲穂のように輝かしい金髪ブロンドと海のように深く煌めく青眼だった。

 それをベルゼクトの証言を元に染め直して今の『色』としている……。


 失われていく『色彩』を彼以外が知覚することはないだろう。

 言葉に直したところで同種の共感覚を持つ者にしか伝わらない。

 シャンテルでさえ想像する他に『彼の世界』を知るすべはないのだから……。


 そして、そんな彼が鮮やかだと述べたということは、ここでは魂が正しく巡り、生きとし生けるものたちは『正当な命』をその身に宿している。

 真っ当な土地ということだ。


「しかし、怪異種というのはどこに行ってもロクなことをしないな。害獣種に総称を改めた方がいいんじゃないか?」


 イーッと顔をしかめたベルゼクトにシャンテルは苦笑を返す。


 ……真っ当な土地ではあるが動物の気配がほとんどない。

 それをシャンテルたちはキャロルと名乗った墓守の少年の力によるものと考えた。

 墓守アンダーテイカーが保護を名目に霊魂を抱え込むことは何も珍しい話ではなく、彼らの『善意』によって輪廻の流れが止められた土地を実際に目にしたことがあるからだ。


 しかし、霊魂の解放を促した時に彼が匂わせた感情は疑念。

 ほんの少しの警戒心は敵意というより防衛本能からきた感情のようだった……。


 彼が霊魂を匿っている訳ではないのなら、あるべき生態系を崩した他の要因が存在することになり「それは鴉だった」という話である。


 おそらく怪異種が現れ始めてすぐの時代。

 なすすべも無く蹂躙された人々が土地を捨ててから、戻って来る者なく、そして開拓に訪れる者もなかったのだろう。


 ……井の中の蛙という言葉があるけれど、大海を知らずにいることが幸か不幸かは分からない。


 闇深き森の外では怪異種と幻想種とが陣地争いをしていて、力の根源ともなる人々は飼い慣らされ、家畜と変わらない扱いを受けている。

 鴉如きを恐れるあの少年は知らないに違いない。

 知らないままに生き伸びられた幸運を彼は知らないに違いなかった。


「人は戻って来られるかしら……」

「さあ、どうだろう? 鴉を殲滅し尽くせば動物は育つし今より豊かにはなるだろうけどね」


 森に影を落とさせているのは十中八九キャロルだ。

 日の当たらない土地は天敵の鴉ごと包み込んでひっそりと彼の身を守り続けている。


 鴉を『脅威』と認識すればこそ成り立っていた闇が、その『脅威』を無くして次第に晴れて行けば豊かさと引き換えに『新たな脅威』の侵入を許すだろう。


「どちらにしたって時間の問題だったろうさ。永遠の訪れは不変という名の牢獄の始まりだ。摩耗した魂はいずれ失せて器のみの存在と成り果てる」


 あるいはその日を迎える前に。

 現れた開拓者に全てを刈り尽くされて終わる。


「ともかく城に向かおう。キャロルくんの話では『本物』が居るようだし中に話の通じる相手でもいれば儲けものだ」


 そうね。

 頷きながらシャンテルはマスクを取り出した。


 ……悲しみのうしお。憎悪の腐臭。

 愛の果実。憤怒の焼け跡。


 年季の入った『感情』はそれだけ強烈で、嗅覚を麻痺させておかないと鼻が曲がりそうになるのだ。

 予防というやつである。



 橋の前まで来るとようやくベルゼクトたちを認識した1つ目鴉ワンアイドクロウが一拍置いてから臨戦態勢に入る。

 天敵らしい天敵もなく闇深き森の揺り籠の中で安寧に浸り続けた低級種らしい緩慢さだ。

 遅すぎる。


 空に飛び上がる頃には首が胴と離れ、不発した砲弾のように、ボタボタッと音を立てながら橋に屍を転がした。

 湖に落ちた鴉の立てた水音が中に混じる。


「……この湖には何か住んでるのかしら」

「さあ? どうかな。これといった注意を受けなかったってことは住んでいたとしてもただの魚くらいなんじゃないかな」

「もしそうならとても貴重な湖ね」


 怪異種と幻想種とが生まれやすい水辺においてそれらが居着いていないというのは珍しい。

 眺めれば水面の奥で溢れた血が澱みを広げるかのようにたゆたう。

 ……深いのか。単に濁っているだけか。

 底の見えない湖に飲み込まれて鴉の死体は静かに消えた。


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