第3話「後編

 日差しは強かった。太陽の日差しは宿酔の頭には痛いほどだ。私の小屋から〈なか道〉へ出て、さらに南西へ進み、結局、一刻ほども歩いた。

 太陽は目一杯の力で照りつけている。夏が戻ってきたかのようだった。ようやく、朝飯を食っていなかったことを思い出した。結局、空きっ腹を抱えたまま、村の南の境まで歩いた。村境のユイヌ川の堤に沿って並ぶ上等とは言えぬ飯屋の一軒に入り、不味いエルル麦のかゆを胃のへ流し込んだが、胃が落ち着かない。酒の飲み過ぎだろう。

 アッカ豆の畑が広がり、ところどころに農家が見えた。サンナ村の南東のはずれ――小さな林が盛り上がり、その鮮やかな緑色が、日差しで痛む眼を和ませる。

 アオマツの林に隠れるようにして、ナッシマの住む日干し煉瓦レンガ造りの館はあった。

 私は、アオマツに隠れるようにして屋敷の周囲を一回りした。屋敷内の様子はうかがえなかった。

 半分ほど回りながら、自らが愚かしく思えてきた。確かにソルドーから金は受け取った。そして、真っ昼間から他人の妾宅しょうたくの周囲をうろついている。自己嫌悪を覚えた。

 グンの待つ小屋に戻ろうとしたときだった。

 ちょうど、日干し煉瓦の屋敷の南東側。正門とはまったく反対側で、人声を聴いた。反射的に辺りを見回し、ユイヌ川のほとりあしの茂みに身を隠し、ひざまずいた。

 男と女の声だった。

 男の声は激した様子だった。女のなだめるような声が漏れ聞こえてくる。そっと葦の隙間から覗くと、男の後ろ姿が見えた。旅人のようないでたちだった。ほこりで汚れた長衣を着ている。少なくとも、この村の住人ではない。女は逆に、都から取り寄せたかのような、小綺麗な衣服を身にまとっていた。漆黒の長い髪、ほとんど化粧をしていないようだったが、私のいる場所からでも、かなりの美人であることは見て取れた。立ち居振る舞いにも、余裕がある。

 ソルドーの愛人、ナッシマであることを確信した。

 すると、男のほうは、ヘスクスが言ったナッシマの前夫なのだろうか? 明らかに二人は、今日会ったばかり、という様子ではない。

 そのうち女のほうが、男に向かって何ごとか一喝した。遠目にも明らかに、男は気圧けおされていた。

 ほどなくして、男のほうは、ややうなだれた様子で私が隠れているのとは反対のほう、貧しい長屋が並ぶ北へ向かった。

 私はゆっくりと立ち上がった。葦の茂みから身を出し、男を追い始めた。2イコル(約六〇メートル)ほど距離を取った。

 が、背後に気配を感じた。振り向いた。

「盗み聞きが趣味なの? 〈黒帽隊こくぼうたい〉には見えないけど」

 いつの間にか、背後に女が立っていた。ナッシマだった。近くで見ると、目元にややけんのある美人だった。尖った顎。細く藍色の眼で値踏みされるように見られると、やや寒気のようなもの感じた。

「あなたなのね、人喰い鬼の棲む森で暮らしてる酔狂な流れ者っていうのは」

「ずいぶんと情報が早いな。しかも正確だ。わざわざご注進に及ぶ忠実な犬でも飼っているのかな」

 ナッシマは鼻で笑った。

「あたしの何を知りたいの?」

「単刀直入だね。なら、私も正直に答えよう。あんたの愛人、ソルドーの警護を仰せつかった。ソルドーが、愛人のあんたの家に通う護衛をすることになったんだ。護衛すべき依頼者の通る道筋を下調べするのは当然だ」

 もう一度、ナッシマは鼻で笑った。

「それはそれは、ご苦労なこと。でも、テジンの都で衛士隊長まで務めたお人が、ずいぶんと落ちぶれたものね」

 私は眼を細めた。

「どうやら、あんたの飼っている犬は、ずいぶんと有能な鼻を持っているようだ」

 ナッシマは、腕を組み、じっと私を見据えた。

「半年前の水晶山の大崩壊。蛇神の配下の空駆ける大蛇……。地上界を破壊しかねない大事件に関わったあなたが、ずいぶんと安い仕事を請け負ったこと」

 私は、できるだけ表情を変えないように言った。

「あんたは、どこまで知っているんだ?」

 ナッシマは、肩を震わせて笑った。

「知りたい? あたしの飼っている犬は、とても優秀なの。その犬は、あたしの屋敷までは入れない。けれど――」

 ナッシマは、私に近づき、片手を私の胸にあてた。

「あなただったら、入れる。どう、元衛士隊長さん?」

 挑むような視線で、ナッシマは言った。

「喉が渇いているんだ。水を一杯もらおうか」

 私が言うと、ナッシマの口元に笑みが広がった――が、その両眼は笑っていなかった。


 私が通された部屋は、意外にも質素だった。花や絵といった装飾品は何ひとつなかった。そして部屋の中央には、装飾のまったく施されていない小机――私の眼にも、それは北方の職人の作った高価なものだとわかった。

 ナッシマという女の性格が、この部屋に集約されているようだった。

「さ、どうぞ」

 ナッシマが歩み寄って来た。手にした硝子ガラスの器に入っているのは、明らかに水ではない――褐色の液体。器もまた、貴重な東方のもののようだった。

「陽の照っているうちには飲まない、なんていう野暮天じゃないわよね、あなたは」

 私は器を受け取った。飲みたい気分ではなかったが、黙って、ナッシマに向かって器を掲げた。

 ナッシマは、同様に器を掲げ、立ったまま一気に飲み干した。すでにずいぶんと聞こし召しているような飲みっぷりだった。

 私も口を付けた。上質の藍火酒らんかしゅだった。〈クトラシア〉では決して飲めない代物だ。私は、小机の脇の長椅子に腰掛けた。これもまた北方の職人の手によるものだ。

「さっき、あんたと館の外で話していたのは、あんたの元夫かね?」

 私は小机の上に器を置いた。

「せっかちな人ね。女に嫌われるわよ」

「痛いほどわかっている。それで、質問の答えは?」

 ナッシマは棚から瓶を取ると、二杯目の藍火酒を硝子の器に注いだ。

「誰から聴いたの?」

「私の飼っている犬は一角犬でね、その方面の鼻は利かないんだ」

「誰であれ、アテにならないネタ元ね」

「どういうことだ?」

「夫じゃない。あたしの兄よ。ついでに行っておくと、名前はリンゼン」

「兄妹? そのお兄さんは呪技遣じゅぎつかいだと聞いたが、ほんとうなのか? そうは見えなかったが」

 ナッシマはまたも一気に藍火酒を飲み干した。

「呪技遣い……のようなもの。まだ聞きたい?」

 悪びれることなくナッシマは答えた。私は藍火酒をなめた。

「無論だ」

「あたしと兄は、南の国のサグゥって小さな村で育った。ひどいところだった。タンダト川の支流近くて、辺り一面は、じめじめした湿地。セイタカムラサキ葦ばかりが生い茂ってた。地味は悪くて、狭い畑でやっとナリィ粟が収穫できるだけ。あんなもの、ハシブト鴨の餌にしかなりゃしない。あたしたちの家は、その村唯一の呪技遣いの家だった。田舎村の呪技遣いがどんな扱いか、想像がつくでしょ? 女のあたしは呪技遣いにはなれない。物心ついたときから、村を出ることしか考えていなかった」

 ナッシマは小机に直接腰を下ろした。

「兄も、呪技遣いの修行に嫌気が差していた。あたしたちは、サグゥ村ではぐれた兄妹だった……」

「それで、あんたたちは村を出た、と?」

 ナッシマは鼻で笑った。すでに器が空になっている。

「そんなに簡単なことじゃなかったけれどね。あたしが十五、兄が十七のとき、二人して逃げ出した……」

 私は器に残った藍火酒を一気にあおった。

「呪技遣いは、十八歳で最後の修行をしなければならないはずだ」

「詳しいのね。さすが、元衛士隊長さん。そのとおり。だから兄は、真の呪技遣いではないの」

 ナッシマは、藍火酒を私の器に注いだ。次いで自らの器に注いで、一気に半分ほど飲み干した。明らかに飲み過ぎだ。

「あなたにはわからないでしょうね。あたしたちは、彷徨った。南の国の田舎村から、西の国の端まで。いろんなことを見たわ。いろんなことを体験した……あーあ、つまんないことを話したわね」

 ナッシマはすでに呂律ろれつが回っていなかった。私は、器を小机に置いた。

「つまらないとは思わないな。あんたとリンゼンは、ずっと苦楽をともにした兄妹なんだろう? しかし、この村に来て、あんたはソルドーのものになった。兄はもう邪魔者というわけだ」

 ナッシマは私の器に藍火酒を注いだ。私は手を付けなかった。

「しかしあんたは、今でもリンゼンと会っている」

 ナッシマの眼は泳いでいた。

「お金よ。ほかにどんな理由があるっていうの?」

「リンゼンは呪技遣いだ。そんな兄と会っていると知ったら、ソルドーは黙っちゃいないだろう。〈黒帽隊〉に消されてもおかしくない。あまり危険すぎないか?」

「そんなヘマはしない、兄は」

 ナッシマは立ち上がった。ややふらついたが、その言葉ははっきりしていた。

 彼女は藍火酒の瓶を棚に戻した。棚に両手を付くと大きな嘆息とともに言った。

「滑稽ね。男に飼われたふりをしている女。そして、そんな男と女を、金目当てで守ろうというもう一人の男」

 私も藍火酒の残った器を置いたまま、立ち上がった。もはや、彼女から聴くべきことはない。

「ああ、たいへん滑稽だ。笑えないがね」

 そのとき、ナッシマの体が揺らいだ。反射的に立ち上がり、その両肩を支えた。さきほどまで私が腰掛けていた長椅子に座らせた。

「表門から出ていくわけにもいかないだろう。裏口から出るよ。どっちだ?」

 ナッシマは小机に突っ伏したまま、ぞんざいに扉を指した。

「そこを出て右、次の廊下を左にまっすぐ行けば、突き当たりに小さな扉があるわ。鍵はかけなくていい。どうせ誰も来やしないんだから」

 すぐにナッシマは、再び小机に突っ伏し、寝息を立て始めた。

 私は彼女の言ったとおりに、意外に質素な廊下を進み、裏口の扉を開けた。扉は私の肩ほどの高さしかなかった。

 背の高いミズヤナギの木々に隠れ、外部からはほぼ見えない位置に扉はあった。

 ここからやや離れたところで、ナッシマは兄のリンゼンと会っていた。

 何を探しているのか私自身わからなかった。が、先にそれが私の視界に飛び込んできた。

 太陽光を虹色に反射する濡れた砂利――歩み寄って拾い上げた。濡れているのではない。何か、どろりとした粘液様のものがこぼれていた。見ると周囲の数ヶ所に、同様に虹色に光を反射する砂利が眼に入った。

 ひとつ拾い上げて顔に近づけたが、すぐさま取り落としそうになった。汚泥のような、あるいは沼のような臭気が鼻孔を突いた。

 私は、すでにかなりほつれている上衣の裾を引き裂き、粘液のこびりついた小石を一つ包み、懐に収めた。


 職人の多く住む〈金釘かなくぎ通り〉の西に面した料理屋〈彩雲亭あやくもてい〉は、まだ開店していなかった。昼食時にはまだ少し早い刻限だ。

 が、店の前に水をいていた少女は、すぐ私に気づき、満面の笑顔で駆け寄ってきた。赤い髪を後ろで束ねた、碧色みどりいろの瞳の少女の名はフィエル。彼女は、サンナ村の生まれだったが、半年前の事件で家族を失った。そして、ひょんなことから私と知り合った。私にはサンナ村での知己は少ない。信頼できる数少ない〈彩雲亭〉の女将、サロアに頼み込んだ。サロアは、私より二十ほど年上だが、昔、幼い娘を水の事故で亡くし、さらに十数年前には夫に先立たれ、たった一人で〈彩雲亭〉を切り盛りしていた。

 サロアは、まだ十五歳で天涯孤独となってしまったフィエルを喜んで引き取った。今、フィエルは〈彩雲亭〉で働きながら暮らしている。

「ゴルカンさん、すぐ開けますね」

「いや、急ぎの用じゃないんだ。ちょっと女将さんに訊きたいことがあってね」

 フィエルはてきぱきと扉を開け、布巾で飯台を拭くと、半ば強引に私を座らせた。そして、奥の厨房に向かって、

「おばさん、ゴルカンさんだよ!」

 と明るく大きな声を上げた。

 ほとんど間を置かず、丸々と太った体を揺らしながら、サロアが現れた。

「わたし、お茶れてくるね」

 フィエルは、まるで小動物のように、素早く厨房へと姿を消した。

「よく働いているようですね」

 するとサロアは、大きな口を開けて笑い出した。

「何言ってんのさ。あんたが来たからだよ。ずいぶんとご無沙汰だったじゃないか」

「こう見えても、いろいろと忙しいんですよ」

「まだ、インチキ予言師の手伝いなんかしてるのかい? あんたは、とっとと身を固めたほうがいい。いるんだろ、都に」

「フィエルが言ったのですか?」

「あの娘は、あんたがテジンの村で、いい人と一緒になって、サンナ村には戻って来ないと思ってたらしいよ」

「なんとね」

 そこへ、フィエルが盆の上に二つの湯呑みを載せて現れた。私は礼を言って受け取った。よく冷えたサッキ茶だった。フィエルはそそくさと、厨房へと姿を消した。きっと、私とサロアの会話を耳に挟んでいたのだろう。

「実は、お訊きしたいことがあるんですよ」

「何さ、改まって」

「この南、ユイヌ川とウェスルー川の分かれる辺りに、立派な館があることをご存じですか?」

 急に、サロアがを飲み込んだかのように、眉間に皺を寄せた。

「はっ! 大金持ちのおめかけさんが住んでるんだろ。この辺りの者はみんな知ってるよ」

「そのお妾さん、ナッシマについて、知ってることを教えて欲しいんです」

「なんだい、ゴルカンともあろうお人が、他人様のお妾に横恋慕よこれんぼかい? よしときな」

「ついさっき、ナッシマ本人に会ってきたところです」

「おやおや、ずいぶんと手が早いんだねえ」

 そこでサロアは声を低くした。

「フィエルが聞いたら、あの娘、ほんとに泣いちまうよ」

 私はサッキ茶を飲み干した。

「冗談じゃない。私はナッシマを囲っているソルドーに、用心棒として雇われたんですよ」

 私はこれまでの経緯をサロアに話した。

 少しの間、サロアは飯台の向こうで腕組みをして黙り込んだ。

「ふうん、でも、あんたが知らないことを一つだけ教えてあげようか」

「ぜひ聴かせて下さい」

 サロアもサッキ茶を飲み干し、厨房のほうを一瞥した。おそらく、そこではフィエルが聞き耳を立てているのだろう。

「ソルドーの本妻のミルーさんはね、哀しい人なんだよ。あの人は若いうちにソルドーの手が付いて……結婚だって、ミルーさんの本意じゃなかったと思うね。それに、結婚してほどなくして、何の因果かミリド病にかかっちまってね」

 サロアは口ごもり、決して高くはない天井を見上げた。

「ソルドーには、ダーミアという孫娘がいますね。その父親は……?」

「ああ、ディルスさんね。あの人だって、可哀想さ」

 サロアは、遠くを見つめるようにして、語り始めた。

 ソルドーの長男であるディルスは妻のジェノーとのあいだに娘のダーミアをもうけたが、今では働きもせず、賭場や淫売宿に入り浸っているという。相手もソルドーの長男からは金を巻き上げることができないだろう。

「小耳に挟んだ噂ですが、ソルドーではなく、ほんとうに狙われているのはワーガスだというんです。ワーガスは恨みを買うような人間なのですか?」

「そりゃあんた、〈黒帽隊〉には誰だって恨みを持っているさ」

「〈黒帽隊〉は、隊長のギンセラ派と副長のワーガス派に割れているらしい……」

「あたしゃ、そういう難しいことは知らないけどね。隊長さんは、とてもまっとうなお人だよ」

 そのとき、いつの間にか私のすぐそばにフィエルが立っているのに気づいた。

「お茶のおかわりはいかがですか?」

「ああ、頂戴しよう」

「そうそう、この娘がうちに来るとき、力になってくれたのが隊長さんだったわね」

「銀髪で、背が高い女性でしたね」

 フィエルは私の湯呑みに茶を注ぎながら、口を挟んだ。

「ゴルカンさんがいなかったら、わたしは村に帰って来られなかったし、生きてなかったかもしれないし……わたしのほんとうの恩人はゴルカンさん。でも……また何か危険なことに巻き込まれているんですか?」

 私はサッキ茶を飲み干し、笑みを作った。成功したとは言えなかったが。

「大丈夫だよ。今度は、グンを連れて来よう」

「ほんとう?」

 すかさず女将のサロアが口を挟んだ。

「冗談言っちゃいけないよ。あたしゃ、あんな化け物苦手なんだよ。勘弁しとくれ」

 フィエルが、声を上げて笑いながら厨房へ湯呑みを下げに行った。以前は、あんなに明るく笑えなかったはずだ。

 礼を言って〈彩雲亭〉を出ようとすると、サロアが顔を、ぐい、と近づけてきた。

「あんた、フィエルを泣かせるんじゃないよ」

 私は曖昧にうなずき、逃げるように〈彩雲亭〉を出た。


 その夜、早速、ソルドーから呼び出しがあった。若い〈黒帽隊〉隊員が、剣の柄から手を離すことなく、私の小屋へと迎えに来た。彼の手は小刻みに震えていた。

 空には、上弦よりやや膨らんだ緑月が出ていた。

 私は彼とともに〈なか道〉まで出た。そこにはミツユビカケトカゲの曳く蟲車が停まっていた。扉が開き、ソルドーが上半身だけ出し、私に向かってうなずいた。が、私を乗せてくれるわけではなさそうだった。

 私は蟲車の背後からついて行くことになった。蟲車は先頭に二人、横に一人、〈黒帽隊〉と思しき男たちに囲まれていた。私よりさらに1イコル(約三十メートル)ほど離れて、予言師のフピースが、一角犬グンとともに私たちを追って来ているはずだ――飲んだくれていなければ、だが。

 蟲車は〈なか道〉から南に折れ、路地をいくつか曲がり、農地に出た。そして、私が昼に通った道に入った。

 そのときだった。匂いを感じた。

「蟲車を停めろ」

 私は御者に命じた。

 遅かった。

 生臭い「何か」が空を切った。次の瞬間、蟲車の前にいたはずの〈黒帽隊〉の男の姿が消えていた。いや、消えたのではない。半イコルほども飛ばされていた。

 剣を抜いた。地面に這うような姿勢になった。

 再び、生臭い風。悲鳴――また一人が犠牲になった。

 私は地面を這いずり、蟲車の扉を開け、ソルドーに怒鳴った。

「降りて伏せるんだ!」

 ソルドーの上衣を摑み、引きずり出す。その一瞬後、生臭い風がよぎった。蟲車の扉が粉々に砕け散った。ぬるっとした液体が私の顔にかかった。

 ソルドーは魂でも抜けたかのように、茫然ぼうぜんとしゃがみ込んでいた。

「伏せて、車の下へ。絶対に動くんじゃない!」

 私は無理矢理ソルドーを蟲車の下へ押し込んだ。ソルドーは恐慌状態で、意味不明の言葉をわめき、暴れ出した。私は左の拳をソルドーの脾臓ひぞうに叩き込んだ。ようやくソルドーは静かになった。

 その瞬間に、風。

 剣を振り上げた。一瞬遅れた。左肩に激痛が走った。仰向けに倒れた。が、剣はかろうじて握ったままだった。

 今まで体験したことのない痛みだった。槍ではない。尋常の武器ではなかった。傷口から、じわじわと痺れが体に広がっていくのを感じた。

「フピース! グン!」

 喉の奥から声を絞り出した。

 蟲車と〈黒帽隊員〉の持っていた手提げ灯はすでに消えていた。何人がやられたのか、見当も付かない。

 緑月の明かりだけでは、ほとんど何も見えなかった。

 眼に頼れなければ、鼻に頼るのみだ。

 ゆっくりと立ち上がった。蟲車の前に、よろめきながら立ちはだかった――激しい眩暈めまい

 生臭さがより近づいている。

 その刹那せつな、左手の闇のなかから男の悲鳴が聞こえた。と同時に、風。

 ふらつきながらも、走った。闇の奥。かすかに緑月の明かりに光るものがうずくまっている。それは苔むした岩のようのようにも見えた。

 その岩が、跳躍した。

 右手だけで剣を振るった。何かを深々と斬った手応え――岩どころか、人よりももっと柔らかいものを。一瞬ののち、生暖かい液体が、私に降りかかった。地面に落ちた「もの」に、剣をつかまで突き刺した。あえぎのような音が聞こえ、そして静寂が戻った。

 体のしびれが強くなってきた。

 荒い息づかいが近づいてくる。一角犬のグンだった。

 私は、剣を杖代わりにして、自らの斬った「もの」へ歩み寄った。

 いつの間に車の下から這い出したのか、ソルドーが私の脇に立っていた。

「な、何なんだ、これは?」

 ソルドーの喉からかすれた声が漏れた。

 それは、ぶよぶよとした肉塊だった。私自身、噂には聞いていたが実物を見るのは初めてだった。全長は私の背ほどあるだろう。黒い背中には無数の赤いイボ。腹側は白いはずだが、私が斬った傷から、赤黒い臓腑がはみ出していた。

「オオガマガエルの一種……南の国の一部に生息しています。凶器は、こいつの舌です」

「誰が……誰が、この化け物を操っていたのだ?」

 ふと、かたわらで手提てさとうの明かりが見えた。

「おお、ゴルカン、ゴルカン。こやつには手こずったぞ」

 フピースは、相変わらず物乞いと変わらぬ布を体にまとっていた。その足元に、細引きで両手、両足を縛られた若い男が転がっていた。すかさずグンが近づき、うなり声を上げる。

「真の呪技遣いなら、わしごときに捕まらぬだろうて。のう、リンゼンとやら」

 私は〈彩雲亭〉を出たあと、夕刻になってようやくフピースを見つけ、ナッシマの屋敷の裏口で拾った粘液まみれの石を見せた。フピースは一見して「マダラドクヤリオオガマ」の唾液だと見抜いた。フピースが似非予言師なのか本物なのか、私は混乱するばかりだった。半信半疑のまま、私はフピースに自分の周りの警護を頼んだ。用心棒の用心棒だ。

 痺れた頭でも、アッカ豆畑の脇の小径に人の気配を感じた。

 私はその影に向かって声を投げかけた。

「ナッシマ、少なくとも今、あんたは手を汚していない。消えるなら今のうちだ」

 私の隣では、まるで魚のように、ソルドーが口を上下にぱくぱくと開閉している。

 無様に転がったリンゼンがかすれた声で言った。

「ナッシマ、逃げろ……俺がバカだった。人の復讐に手を貸すなんて……ああ、蛙神よ!」

「そう、ほんとうにバカね。しかも、あんな小娘の色香にころっと籠絡ろうらくされて……恐ろしい娘だわ。あたしは、ほんとうに逃げるわよ」

「待て、ナッシマ……」

 追い駆けようとしたソルドーは、道に転倒した。

「何だ? 何があった? どういうことだ?」

 フピースが、どこから取り出したのか、細く長い煙管を手にしていた。一服すると、緑月を見上げた。

「ソルドーの旦那、世の中には、知らなくてもいいことがあるのだ。知れば、おまえさんは死ぬまで不幸を背負い込むだろう。わしの言葉は金の言葉、ありがたく受け取れ」

戯言たわごとを! ゴルカン、貴様はわしに雇われておる身なのだぞ。答えろ!」

 私は、徐々に朦朧もうろうとしてゆく意識のなか、言葉を選びながら、答えた。

「このリンゼンは、ナッシマの兄だ。ナッシマから、あんたの本妻、ミルーさんの不幸を聞き、強く同情した。あんたから搾り取るだけ搾り取り、そしてガマの舌を使って、殺そうとした」

「そんなくだらん話が信じられるか! なぜ、見ず知らずのミルーのために、私は殺されねばならんのだ?」

 ソルドーがわめいているなか、まったく感情のこもらない声が、割り込んできた。

「俺は、あんたを殺しそこなった。それでいいだろう。はりつけにでも八つ裂きにでも、どうにでもすればいい……」

 リンゼンだった。ソルドーは地面に転がったリンゼンに一度、足蹴を喰らわせた。そして、くるり、と私に向き直り、私の上衣を摑んだ。

 私は血を失い過ぎている。早く横になるべきだ、と思った。

 切れ切れに、ソルドーの怒声が耳に飛び込んできた――ほとんど意味を成さない雑音。

 ――怖い娘とは……

 そうか、〈彩雲亭〉はこの近くか。ナッシマの館は、もぬけの殻だろう。

 ――教えろ……

 こんな姿で〈彩雲亭〉に行けば、女将に叱られるだろう。フィエルは泣くだろうか?

 いや、約束したのだ。グンを連れて行く、と。グンの姿を見れば、きっとフィエルは笑顔を見せるに違いない。

 混濁した意識のなか、もう一人の少女の姿が浮かび上がった。もはやその顔立ちもはっきりとはしなかったが、そのか細い後ろ姿は、昏い昏い影に覆われている。

 私は気を失った。


 眼を開くと、鋭角的な女の顔が見えた。銀色の髪に、角張った顎。四十がらみの女だった。

「結局、口を噤んだままか、ゴルカン」

 物静かだが、威圧感のある低音だった。

 私が〈彩雲亭〉に担ぎ込まれてから、五日が経っていた。もっとも、私にほとんど記憶はないが。三日間、眠り続けていた。一昨日、目覚めたばかりだった。それ以来〈彩雲亭〉の世話になっている。

「もう全部話しましたよ。まだ傷が痛むので、休ませてもらいたいんですがね」

 長身の女――〈黒帽隊〉隊長ギンセラの声が、ますます威圧感を増した。

「今朝未明、ソルドー氏が刺された」

 反射的に起き上がった。もはや痛みは感じなかった。

「それに、孫娘のダーミアが行方不明だ。何者かにかどわかされた可能性がある。〈黒帽隊〉全員で捜索にあたっているところだ。ゴルカン、貴様は何を知っている? 呪技遣いのリンゼンは昨日の朝、吊された。ガマガエルの化け物は貴様が殺した。では、誰の仕業だ?」

 私は乾咳をした。

「ソルドーの容態は?」

「明日までもつかどうか……。短剣で正面からひと突き。かなり近い間合いから。短剣はソルドー氏のものとわかっている。下手人はソルドー氏の知人――近しい者であることは間違いない」

 ギンセラは髭をなでた。

「ソルドー氏の奥様、 ミルーさんの容態は?」

「今朝、面会できたが、ほとんど意識のない状態だった。あの方も、ご苦労をなさった。お可哀想な方だ。ゴルカン、知っていることがあるなら、すべて話してくれないか」

 ギンセラの面持ちに、暗い影が差した。

「ワーガス副長は?」

「ワーガス? わたしはもともと奴を信じてなどいない。ソルドー家に縁故があるというだけで、副長におさまっているが、無能だ」

 ギンセラはため息をつくと、私をにらみつけた。意志の強さと理知的な光を湛えた眼だった。

「また来るぞ、ゴルカン」

「いらっしゃっても、話すことはありませんよ。それに、ギンセラ隊長――」

 私はじっとギンセラを見上げた。

貴女あなたは、真相に気づいているんじゃありませんか?」

 しばしの間があった。ギンセラは私に背を向けた。

「また来る。この村には、貴様のような人間が必要かもしれない」

 言い残し、女隊長は部屋を去った。

 ほぼ入れ替わりに入ってきたのはフィエルだった。両手に粥の入った木椀を持ち、背後にはグンを従えている。フピースが、昨日、私の小屋から連れてきたのだ。

「もう、グンったら、一度走り出すと、止まろうとしないの。すっかり疲れちゃった」

 フィエルは、寝台の脇に粥の木椀を置くと、屈託のない笑みを見せた。グンはすっかりフィエルに手懐てなずけられてしまったようだ。

 ふと、脳裏に黒い影がよぎった――闇色の瞳の少女の影。

 今、どこにいるのか。生きているのか。なぜ、闇を抱えることになってしまったのか。そして、村を去った少女が、一人で生き延びることができるのか。

「ゴルカンさん、どうしたの? 凄く怖い顔してる……」

「いや……ひょっとして、グンをきみに取られてしまうのかな、と思ってね。なあ、グン。おまえはどっちを選ぶ?」

 一角犬は、私の言葉を理解しているのかいないのか、フィエルの手を舐め始めた。

「ちょっと、ゴルカンさんに怒られちゃうよ!」

 一角犬と戯れるフィエルの姿を見ながらも、胸裡からは、か細く昏い影が去ろうとしなかった。


「闇色の眼」完

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闇色の眼 〈灰色の右手〉剣風抄 美尾籠ロウ @meiteido

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