第三十四話 『出陣前夜』
人の波が移動し始めた。
第一の集合地点、ママドゥイユの北部の都市エクソンに全軍集結し、そこから渡河する。
オクテミー川は大河であるため、ある程度の大型船を浮かべることができる。ママドゥイユ軍はこの時のために、海側にあった船をオクテミー川に遡上させていた。
夕刻には物資の積み込みが終わり、ママドゥイユ軍は明日、川を渡る。
それぞれの師旅で野営の準備が始まり、恐らく暫くはお預けになるであろう平和な夕食が営まれた。
ロベルクは野営地から少々離れた人気のない河畔でオクテミー川の流れを眺めていた。夜の水面は黒曜石さながらに黒く、時折揺れては星の光を反射して小さくきらめいている。
夕食後の素振りをすべく剣を確かめていると、闇の中からレイスリッドが姿を現した。
「ロベルク、久しぶりに稽古をしよう」
その誘いに、ロベルクは喜色を浮かべた。
「ありがたい。どの程度使いこなせるようになったか、試したかったところだ」
ロベルクの返事を聞いたレイスリッドは、悪童のような笑みを浮かべた。
「いや、今日は応用編と行こう」
「応用?」
「そうだ」
レイスリッドは相変わらずニヤニヤしていたが、次第にその顔から戯れの色が消え、師の表情へと変化していった。
「俺はお前に『月の剣』の『形』を三十種類教えたが、実はこれらは三十種類の体捌きと三十種類の剣捌きに細分化する事ができる」
「……つまり、『形』は、九百通り」
「その通り。そして、それらの『形』は、組み合わせによっては、連続技として繋がるようになっている。編み出した使い手は自由に名付ける事を許され、その連続技を『舞曲』と呼ぶ」
ロベルクは我知らず唾を飲む。自分の剣術に掛けられた枷が一つ、外れようとしているのを感じていた。
「エジライレート・スレッカームーブ」
レイスリッドは杖を正眼に構えて呪文を唱えると、杖先に黄緑色の細長い筒が実体化する。おおよそ武器とは思えない刀身で左の掌を軽く叩くと、「ぽいん」と可愛らしい音が響いた。
「何だ、それは?」
「これは……まあ、玩具だな。ジオの子どもは幼い頃からこの棒で戦いごっこをして育つんだ。そうやって戦うことが染みついた子どもが長じてジオ軍の兵士になる……強いに決まってるな」
レイスリッドは暫く懐かしそうに「ぽいん、ぽいん」と音を鳴らしていたが、徐に切っ先を隠す独特の構えを取った。
「当たれば、少しは痛いぞ……かかってこい」
ロベルクは無言で頷く。鞘に収まった霊剣の切っ先を隠し、間髪を入れずに地を這うような斬撃を放つ。相手は師であり、こちらの刃は鞘に包まれている故に、遠慮無く最高の速度と威力の一撃を見舞う。
しかし、その切っ先の描く弧はレイスリッドの身体を捕らえる事は無かった。レイスリッドの姿がゆらりと動くと、残像と共に視界から消え、次の瞬間には同時に鳴らされたとしか思えない二つの「ぽいん」という音が鼓膜を叩き、少し遅れて右肘と背中に軽い痛みが走る。
「『月の剣・双朔の舞曲』。仕組みがわかりやすかったと思うが?」
「あ……ああ、見えた。こんな……仕組みになっていたなんて……!」
ロベルクは霊剣を振り抜いたまま、試合後の礼をする事も忘れて呆然と呟いた。しかし、その翠眼は、宝箱の鍵をはすす事ができたかのような興奮に輝いていた。
その様子を見たレイスリッドは、関心と呆れの混じった表情を浮かべる。
「やれやれ。何て飲み込みの早い弟子だ……今日の稽古は終わりだ」
レイスリッドは「もう寝るわ」とか投げやりな言葉を吐きつつも、まんざらでもない様子で手をヒラヒラと振りながら自分の天幕へと去っていた。
「凄い、凄い! 何てことだ!」
ロベルクはまた河畔で一人になると、上半身と下半身の動きを別々に復習し、その多彩さと、戦況に対する柔軟さについて再確認した。
「ロベルク?」
「うおっ!」
その為、周囲に人が居ない事を確認しつつ忍び寄ってきたセラーナから急に呼ばれて、軽く跳び上がるほど驚いてしまった。
「そんなに驚かなくても……」
「ごめん。集中していたもんで。眠れないのかい?」
「うん、ちょっとね」
セラーナは、ロベルクの隣に腰を下ろした。
「明日もたくさん歩く。身体を休めた方がいい」
「うん。でも、ちょっとだけ……」
セラーナに促され、ロベルクも河原に座った。
二人は話もせず、夜空を反射するオクテミー川の流れを眺めた。
暫くして、セラーナは呟くようにロベルクに話しかけた。
「この前、神殿で、あたしのことを守ってくれるって言ったよね……」
「うん。でも……別に深い意味じゃなくても……」
「深い意味でもいいの」
セラーナはロベルクの言葉を遮った。
「あのとき、あたしを守るって言ってくれて、とても嬉しかったよ。それで……」
セラーナは彼女らしくもなく言い淀んだが、勇気を振り絞ったように言葉を続けた。
「これからも、ずっと……側であたしを守ってくれると嬉しいな、って」
セラーナの黒く澄んだ瞳がロベルクの翠玉の眼を覗き込む。
ロベルクはその眼をしっかりと見つめ返した。
「約束する。僕は君の側で君を守る。ずっと」
ロベルクはセラーナの瞳を見つめて、強く宣言した。
しかしセラーナの瞳は、ロベルクの断言に一瞬、不安の靄もやをよぎらせる。彼女は自分の声を注意深く聞くように言葉を紡ぎ、前回の旅で明かした秘密を、もう一度確認する。
「私がウインガルドのお偉いさんの娘でも?」
「勿論だ」
ようやく安堵したセラーナは、ロベルクに肩を寄せた。そのまま二人にしか聞こえない声量で囁く。
「じゃあ、あたしの本名を聞いて欲しい」
「ん」
ロベルクはセラーナが身を預けやすいように支えながら、短く答えた。
「あたしの本名は……セラーナ・シルフィーネ。ウインガルド王国第二王女」
「っ!」
ロベルクの肩が無意識に跳ねた。余りの驚きに、セラーナを弾き落とさずにいるのが限界だった。
「……驚いた?」
ロベルクの動揺を感じ取ったセラーナは、彼に判断を任せるかのように少しだけ身体を離す。
「やっぱり……駄目?」
不安そうに揺れるセラーナの潤んだ瞳が、ロベルクを見上げる。
その小動物のように保護欲を誘う表情を見たロベルクは、心を何かに射貫かれたのを感じた。いつの間にか愛おしさの余り、セラーナから眼を逸らせなくなっていた。
「す……少し驚いただけだ。聖職者だろうと王女だろうと、セラーナはセラーナだよ」
ロベルクの言葉を聞き、セラーナはまた安心したように身体を密着させた。
「ねえロベルク」
セラーナが囁いた。
「ん?」
「あたしの故郷では、約束のしるしに唇と唇を合わせる風習があるのよ」
「本当?」
ロベルクが尋ねると、セラーナは静かに微笑んで瞳を閉じた。
ロベルクは意を決してセラーナの背に腕を回し、その柔らかな唇に自らの唇を重ねた。
二人はじっと、一つの影になって身動きもせずに身を寄せ合った。
唇を離すと、セラーナは満たされた吐息を漏らす。
彼女はロベルクを見つめて微笑んだ。
が、
そのまま結んだ唇に力が入り、暫くむずむずと笑いをかみ殺していたが堪えきれず、セラーナは両脚をばたつかせて大笑いした。
「まさか、風習って……」
「嘘よ」
セラーナは唖然として固まっているロベルクを押し倒し、暗闇の中でもう一度、彼の唇を奪った。
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