第一部

第一章  平穏との別離

第一話 『求婚』

 かっと目を開くと、そこにはいつもの煤けた天井が広がっていた。


(またか)


 ロベルクはのろのろと寝台の上で身を起こした。白金色の髪が汗でべったりと額に張りつき、気分を萎えさせる。冷えた汗が一滴、顎から落ちた。


「…………」


(ラルティーナ様、か……)


 彼女が死んで何年になるだろう。あの日ロベルクは、森を出ることになった。


 吹雪を纏ったまま剣を引きずり、人間なら迷いそうな鬱蒼とした森を幾日も歩き、森を抜けたところで空腹感に気付き、そのまま倒れた。


 その時も、目を開くとこの天井があった。


(そして……)


「ただいま、ロベルク……あっ、涼しい。起きたの? またあの夢ね?」


 ロベルクはそこで、回想に浸るのを中断させられた。


 小屋の扉が開き、少女が姿を現す。

 少女は細い杖を扉の横に立て掛けると、ロベルクのいる寝台へ摺り足で近寄った。背はロベルクより若干低い。余分な贅肉が付く経済的余裕はないので、四肢はすらりと伸びている。栗色の髪は肩で切りっぱなしにされており、おしゃれらしいおしゃれといえば、髪が顔に掛からないようにヘアバンドを巻いていることくらいか。逆にそれがすっきりと引き締まった輪郭をもった顔に健康的な魅力を引き出していた。

 だが、栗色の澄んだ瞳は焦点を結んでいない。彼女の目は生まれた時から光を失っていた。


 ロベルクは寝台から立ち上がると、ミゼーラの手を引いてテーブルへと向かった。


「ミゼーラは夢のことまでよくわかるね」

「ロベルクがあの悪い夢を見る時は、決まってその剣が冷たくなって、小屋の中が冷えるの。悪いけど真夏には助かるわ」


 ロベルクが剣を見ると、確かに皮拵えの鞘にはびっしりと霜がつき、床に霞を吐き出している。


「ああ涼しい。この贅沢は貴族並みね」


 この少女――ミゼーラと、今は亡きその父親が、行き倒れたロベルクを助けたのだ。


 その時ミゼーラは四歳。十三年経った今、ミゼーラは一人前の女性になろうとしていたが、ロベルクの外見は殆ど変わっていない。人間と森妖精との成長速度の差が、ミゼーラの幼子から少女への急速な変化をロベルクに感じさせていた。


 ミゼーラは、狭い小屋の中心に置かれたテーブルに水を入れたポットを置くと、テーブルを一周する。そして椅子が手に触れると軽い溜め息と共に腰掛けた。


「水を浴びてらっしゃいよ。寝汗を流したらいいわ。洗った服は洗い場に干しっぱなしになってるから」

「ありがとう」


 ロベルクは小屋を出ると、裏手に回った。小屋の裏には川から水を引いた水路があり、炊事や水浴びなどに使えるよう、板塀で仕切ってある。これのお陰で相当快適な生活を送ることができている。土木技師だったミゼーラの父からの、成長後の娘への遺品とも言える設備だった。


 空には夏の太陽が昇りつつあり、今日も暑い一日を予感させた。


 ロベルクは肌に張り付く不快な衣類を脱ぎ捨てると、水路の縁に腰掛けた。桶で水を掬い、頭からかぶる。清冽な感覚が、過去の心の疼きをも洗い流してくれるかのようだ。


(僕は、ミゼーラと共にここに在る)


 もう一杯、水をかぶる。


(生きて、いる……)


 命を救われて十三年、ミゼーラの父が事故で亡くなってからは八年。出逢った時から目が不自由だったミゼーラにロベルクが世話をした期間は、さほど長くはない。


 ミゼーラが自分を「お兄ちゃん」から「ロベルク」と呼ぶようになったのは、いつだったか。


(今朝は、やけに昔を思い出す)


 ロベルクは手拭いで全身の水を拭き取ると、洗い晒しの衣服に袖を通した。


 水路の上流から桶で水を汲み、庭の菜園から野菜を幾つか摘んで桶に放り込む。小屋に戻ると、ミゼーラはまだ椅子に腰をかけたままだった。栗色の髪を指先でいじりながら、また軽い溜め息を吐いている。ロベルクの気配を感じ取ると、顔を向けた。


「あの夢を見た日は水浴びが長いね」

「ごめん。いま朝食にするよ」


 ロベルクは軽く洗った野菜を切り、朝食の用意を始める。


 ささやかな朝食が出来上がると、二人とも匙を取った。


「ねえ、ロベルク」


 ミゼーラは一度取った匙を皿に置き、話を切り出した。


「ん」

「わたし、求婚された」

「えっ!」


 ミゼーラの急な話に、ロベルクは匙を皿に落としかけた。


「わたしの働いてる香水店の店長に息子さんがいてね、その人」


 ミゼーラは町の中心部近くにある『ヴェイラー香水店』で、香料を調合する仕事をしている。目が不自由なせいなのか、彼女の調合は感覚に訴えるものがあり、続々と客を増やし、最近では後援を申し出る貴族すらいるとも言われている。


 今では調合の責任者も一目置くミゼーラを、店長の息子が知っていてもおかしくない。ハキハキと清々しい性格は実に魅力的だし、外見的にも平均な町娘よりは若干上だろう。香料の調合の能力に目を付けたのかも知れないが、それでもこの国では、体の不自由な者が結婚するのは非常な困難を伴うことであった。


 ミゼーラは一呼吸置くと、日頃は閉じたままの瞼を開き、茶色の澄んだ目をロベルクのいる辺りに向け、再度噛み締めるように「わたし、求婚された」と発音した。


 沈黙が暫し食卓を支配した。


 ロベルクはとりあえず、野菜を口に入れて咀嚼してみたが、味がしなかった。


「良いこと、だと思う」


 ロベルクは辛うじて、言葉を絞り出した。


 ロベルクとミゼーラは元々他人同士である。二人が婚姻を結ばない限り、いつかは別れて生活することになるはずだ。ミゼーラがいる生活が余りにも普通で、気付きもしなかった。


 それに、目の不自由なミゼーラと沿い遂げようと決意した香水店の息子の覚悟と愛情は、並のものではないであろう。


「ありがとう。わたしも嬉しい……」


 言葉とは裏腹なミゼーラの曇った表情を、ロベルクは訝しんだ。だがミゼーラの話には続きがあった。


「でも息子さん……リットさんが変な事を言っていて、『ロベルクとは、もう会えなくなる』と」

「まあ、僕がミゼーラに付いて嫁入りするわけにはいかないから……」

「そう言う意味じゃなかったの」


 ミゼーラがロベルクの冗談めかした話を遮る。


「結婚したら、ロベルクとは二度と会えないって、話をされた。それともう一つ、今日までに返事が欲しいって」

「…………」




 腑に落ちないことの多い求婚だ。


 今日までにミゼーラがリット・ヴェイラーの妻になる必要性とは何か。

 今日までにミゼーラがロベルクの同居人をやめねばならない理由とは何か。


 どちらからともなく匙を取り、無言の朝食が再開された。


「……僕はこの婚姻、受けるべきだと思う」

「何で?」

「ヴェイラー香水店と言えば、この町では大店だ。ヴェイラー家に入れば、毎日歩いて店に通う必要もないし、豊かな家に嫁入りすれば、その……目の為にもいいと思うんだ」


 ここでの『目の為』とは、魔術を用いた高額な医療や、そこまでいかなくとも、不自由な目を補助する付き人などを暗に指している。


「香水屋リット・ヴェイラー夫人、ミゼーラ・ヴェイラーか。素敵な事だよ!」

「でも、ロベルクはどうするのよ」

「僕には……君のお父さんから譲り受けた『仕事』がある。それに、この小屋が守られてる方が、気分いいでしょ?」

「わたしは……少し、寂しいな。……少しよ、少し! お兄ちゃんなんて居なくたって、お嫁さんくらい出来るんだから」


 慌てるミゼーラをロベルクは目を細めて眺めた。


「僕を『お兄ちゃん』と呼ぶのは久しぶりだね」

「ロベルクの意地悪」


 ミゼーラは膨れっ面で朝食を掻き込む。


「いい返事をしてあげなよ。さあ、仕事に行こう」


 ロベルクは椅子から腰を上げる。


「何で……」


 急にミゼーラが直前までの威勢を失い、掠れるような声で呟いた。耳の良い森妖精の血を引いたロベルクが聞き逃す筈もなく、体を椅子に引き戻された。


「何で、そんなに平気なの? 今日でお別れかも知れないのに。長生きすると割り切れるの? ……私も妖精だったら良かったのにな」

「ミゼーラ……」


 ロベルクは答えに窮した。


 様々な角度から考えて、ロベルクにはこの結婚に反対する理由を見つけることができなかった。いささか急な話ではあるが、結婚すれば両家の親戚同士も付き合いが密になり、ちょくちょく顔を合わせることが増える。疎遠になることはおろか、二度と会えなくなる事などはあり得ない。ヴェイラーの息子の余りにも急な話しぶりに、ミゼーラは考えを整理しきれていないのではなかろうか。


「まずは店に行っておいで。リットさんから話をよく聞くんだ。決めたら手紙でもくれ……その位はさせてくれるだろう。嫌だったら、この小屋に帰ってくればいい」

「……わかった」


 ロベルクの話に、渋々頷いたミゼーラの睫が光っている気がした。





 そして二人は、互いの仕事場へと出発した。ロベルクは郊外の土木建築ギルドへ。ミゼーラは城門から街の中心部へと向かい、香水店へ。


 ふと、ロベルクが何とはなしに振り返ると、防壁の門へ向かうミゼーラが同時に振り返った。





 ロベルクは、ミゼーラと目が合った気がした。

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