半妖精戦記 〜不吉の子と亡命の姫と女神の剣〜
近藤銀竹
プロローグ
真夏の木漏れ日が目にやかましい。
時折、陽光とは別の光が悪意を帯びて宙を駆ける。それは走り続ける少年の樹皮色の服を掠め、追い抜いては消えていく。走るのを止めた時が、この少年が死ぬ時だろう。
少年は追われていた。
乱れた白金色の髪。後ろを振り向く翠緑色の瞳。走りながら追っ手との距離を確かめる少年は、人間たちから『森妖精』と呼ばれる一族のようだ。
追いかける方もまた、白金色の髪と翠緑色の眼をしている。手には取り回しの良い短弓を持ち、木々の幹や枝を飛び移りながら立体的に追い込もうとする。
森妖精が逃げ、それを森妖精が追う。違いと言えば、追っ手の森妖精の耳は尖っているのに、逃げる少年の耳はさほど鋭くない。彼は妖精と人間との混血なのだろうか。
少年の名は、ロベルクという。
いつの間にか頭上を満たしていた木々の密度は減り、視界は暗い深緑から輝く山吹色になっていた。
ロベルクの行く手が緩やかな下り坂にさしかかったとき、枯れかけた草の蔓がまるで足首を払うように絡みついた。
不意に足元を掬われたロベルクは、そのまま枯れ草の上を転がり、霜を纏った土の上を転がり、雪の上を転がって、狭い窪地の底に倒れた。
窪地の底には新雪が積もっていた。絹の薄布を敷いたような新雪の中に、不格好な轍が刻まれている。
今まで、日陰とはいえ汗ばむ陽気だった暗緑色の森の中で、そこだけが白銀に染められた光景は、見た者をたじろがせるに十分なものである。
窪地の中心には、氷の塊が石筍のようにそびえ立っていた。
それを見た追っ手が立ち尽くす。
「呪われた地……」
一人がその言葉を口にすると、ロベルクを捕縛しようと息巻いていた樹皮色の集団は無意識に一歩後退した。
森妖精は、自然現象を司る精霊から助力を得て魔法を掛けることを得意とする。そして、この世を構成する十の精霊――地・水・火・風・植物・氷雪・光・闇・命・死の精霊の中で、植物の精霊を尊び、氷雪の精霊を忌み嫌っている。植物の精霊が支配する森林の中に雪原が広がる様は、彼らにとってはまさに呪いと呼ぶにふさわしかった。
「ラルシート様」
声を掛けられ、追っ手を率いていた女が一歩進み出た。
美しい顔立ちの左右を飾る、長い白金色の髪。強い光を湛えた翠緑色の瞳。森妖精の王の娘であるラルシートの容貌は、まるで森妖精の純粋さを抽出したかのようだ。
ラルシートは矢筒から矢を取り出すと、弓につがえながら口を開いた。
「火を従える森妖精イオテニフと、光を従える森妖精ミューリュリーの子、ロベルク。両親が森妖精でありながら人間の血が顕れた、呪いの産物……」
ラルシートは歌うように言葉を紡ぎながら、弓弦を引き絞る。
「呪いは、祓わねばならない」
「誰がそんなことを」
ロベルクは呻いた。些細な草木の命すら惜しむ森妖精の王が、本当にそんな命令を出したのか。知らねば死んでも死に切れない。
ラルシートはその問いに、慈愛に満ちた微笑みと共に答えた。
「私だ」
同時に、弓弦を引き絞っていた指が伸ばされる。
ロベルクの眉間に吸い込まれるように飛んだ矢はしかし、ロベルクの目の前で急に立ち上った霧に取り巻かれ、力無く地に落ちた。
自然現象の操作による矢の墜落――間違いなく精霊の仕業だ。
「姉様か?」
ラルシートの視線の先には、一人の森妖精が立っていた。
ラルシートの姉、ラルティーナである。
彼女の姿もまた、まさに整った森妖精そのもの。
しかしその髪は、夜闇の如く黒かった。
ラルティーナは王の娘、しかも第一子であるはずなのに黒髪のために存在を疎まれ、館に半ば閉じ込められて生きてきた。そんな彼女だからこそ、両親が純粋な森妖精なのに半妖精の姿で生まれてきたロベルクの境遇や心境を、誰よりも的確に理解していた。悪意を以て秘匿されていた森妖精の知恵や知識をロベルクに教えた。館の書物を貸し与え、寂しければ話し相手にもなった。大人に隠れて、弓の稽古をしたこともある。ロベルクにとってラルティーナは、唯一心を許せる相手だった。
ラルティーナにとってもそれは同じだった。大人達によって、表面上だけでも保護されてきたロベルクを、有力者の子女だけで殺し、罪をうやむやにして終息させる計画。『呪い』などという曖昧な動機で気に入らない者を消そうとする、妹の暴挙を見かねて追ってきたのだった。
「ラルシート、やめなさい。ロベルクのことは、皆で育てると評議会で決まったはずよ」
「姉様……館で大人しくしていれば良いものを」
「あなたの不穏な行動を見ていては、黙っていられないわ」
ラルシートはそれを鼻で笑い飛ばした。
「ロベルクの処理は、次代の評議会を担う我々の総意よ」
ラルシートのその言葉に反応して、追っ手の森妖精達が弓に矢をつがえた。
ラルティーナは、半身を起こしたロベルクの前に立ちはだかる。
「次代は次代に評議なさい。今はお父様の代よ」
ラルティーナは堅苦しいが厳然とした正論で妹の屁理屈を打ち壊した。
上辺だけでも穏やかに振る舞っていたラルシートだったが、いよいよ憐れみの仮面をかなぐり捨て、満面に怒りを浮かび上がらせた。
「お父様のお慈悲で生かされている黒髪の出来損ないが……!」
ラルシートは部下に顎で的を指し示した。
それを「ラルティーナごとロベルクを葬れ」と理解した部下達は、さすがに躊躇した。仮にも王の娘である。等しく王の僕である森妖精たちに、王の娘に弓を引く真似はできなかった。
業を煮やしたラルシートは、部下達の眼前に掌をかざした。
一瞬、小さな闇が生まれ、部下達の目から光が消える。
部下達は無感情な動きで一斉に短弓を構え、弦を引き絞り、放つ。が、矢はまたしても霧に阻まれ、力無く地面に刺さった。
「さあロベルク」
ラルティーナが座り込んだロベルクに手を差し伸べた。
その磁器のような指先がロベルクに近づき――
細い体がロベルクの上にくずおれ――
ややあって、漆黒の長い髪が舞い降りた。
ラルティーナの背には、妹によって時間差で放たれた矢が深々と突き立っていた。
血の染みがゆっくりと広がっていく。
軽い。
初めて女性の躰を支えたロベルクは、その軽さに命の扱いの軽さを感じ、自分を永い間支えてくれた存在に対する扱いの軽さを感じた。
「ロベルク、生きて……森を出なさい。ここには、何もない……」
言葉を絞り出したラルティーナから、急速に体温が失われていく。
「……っ!」
ロベルクは声にならない叫びを上げ、座ったまま後ずさった。
その背が氷柱に阻まれる。
窪地の縁でラルシートが狂喜しているのが視界に入った。
「やった、やった! お前の矢をもう一本よこせ。次は外さない!」
ラルシートは部下の矢筒を奪い取ると、一本、弓につがえた。
(終わりか)
ロベルクは死を意識した。敬愛するラルティーナと同じ場所で死ぬならそれも良い、そんな感覚が脳裏をよぎる。
視線を落とせば、鋭い氷で切ったのか、腕から血が流れている。
間抜けなほど遅れて、その傷はロベルクに痛みを感じさせた。
不意にその痛みが、生への執着を再び蘇らせた。
――生きて。
ラルティーナの言葉が、脳の片隅に無数の残響を伴って繰り返される。
腕を伝う血が、やけに透明な氷に滴り落ちた。
刹那、大気を斬り裂く轟音と共に、氷雪を伴った暴風が吹き荒れ、世界は一瞬にして白く染め上げられた。
(これは……?)
「草木を愛でる者よ……」
吹雪と、心の中を駆け巡る疑問に混じって、冷たく澄んだ声が確かに聞こえた。
「草木を愛でる者よ。我が縛めを解くその血、確かに受け取った」
振り向けば、氷柱には少女の幻影が立っていた。
癖の強い白金色の髪は森妖精を思わせる。しかし青玉色の瞳から放たれる威圧感は、明らかにそれとは異質な存在であることを物語っていた。
「草木を愛でる者よ、我を解放した恩義に報い、我と盟約を結ぶことを許可する。我と結び、精霊を得るか」
白一色の世界の中、藍色の衣を纏った少女の神々しい声だけが、ロベルクに語りかけていた。
――何でもいい。
――この惨劇が終わるなら。
ロベルクの頭が縦に振られた。
「よろしい、汝を扶助しよう。先ずは精霊を与える。氷の王シャルレグ……汝が使役する精霊の名だ。そして……」
少女の姿に重なって、一振りの剣が氷柱に姿を現した。
極地の冷気とはこのような鋭さであろうかという刀身の煌めき。柄には雪の結晶が彫金され、危険を感じる程の美しさを放っていた。
「我を手に取れ。我が名は……氷神メタレスの従属神、氷の御使いフィスィアーダなり!」
氷柱は何故かすり抜ける気がした。
ロベルクは手を氷柱に差し入れ、剣を握り締める。
そして暴風は全てを消し飛ばした。
同時に、ロベルクの意識も、ゆらゆらと消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます