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「世貴子は学校に行ってますけど…」


 公園で別れてから三日。

 あの翌日、俺は事務所から呼び出されて世貴子の見学には行けなくて。

 何となく…連絡も取りそびれてると。

 今日…織から。


『昨日帰り間際に、もうやめるって…何かあったの?』


 って電話があった。


 受話器を持ったまま、口を一文字につぐんで立ち尽くした俺は。

 その足で桜花学園に向かった。



 歩きながら自分に問いかける。

 俺はこんなに積極的だったか?

 こんなに行動派だったか?

 どうして…世貴子のことになると、こんなに動いてしまうんだ。


 あいつは、唯一…俺を動かせる女。

 イライラするぐらい好きなのに…どうして、伝えられない?



 確かに、自分の立場と世貴子の立場を置き換えて考えると…

 世貴子の気持ちは痛いほどわかる。

 俺だって、あいつに子供がいて…それが身近に存在するとしたら…

 思わず、足が止まる。



 俺じゃ、ダメなのか?

 俺は、一生世貴子を苦しめるだけなのか?



「……」


 一瞬くじけそうになってた顔をあげる。

 ダメじゃない。

 俺がこれから生きてくうえで、音楽と…世貴子は必要なんだ。

 せめて、それだけでも世貴子に伝えよう。


 止まってた足を走らせる。

 走って走って…学校にたどりついて、固まる。



 確か…桜花の女子棟の方だ。

 終業式だったらしく、グランドにはおびただしい程の女子生徒が下校している。


 …まいった。

 これじゃ、見つけるにも…


「…見つけた…」


 思わず小さくつぶやいてしまった。

 グランドの隅っこ。

 似合わない眼鏡をかけて、ごみ箱を引っ張ってる。


 世貴子を見つけた俺は、そこが女子校舎だというのもおかまいなしにグランドを歩き始めた。


「誰?」


「えー…?何あの人…」


 そんな声が聞こえた気がしたけど。

 俺は、世貴子目掛けて歩き続けた。



「世貴子。」


 そばまで行って声をかけると、世貴子は驚いて振り返った。


「ど…どうして、ここにいるのよ…」


「おまえ、なんでやめたんだよ。」


「……」


「なんで、やめたんだ。」


「あたし…あなたのこと、色々調べた。」


「…俺の事?」


「偶然男子校舎の中等部の授業に行ってー…あなたの弟さんに会ったの。」


 宝智ともちか

 何か言ったな?


「茶道の名家…早乙女の家元でありながら、それを捨ててまで…」


「待てよ。」


「あたし、普通の女よ?あなたには物足らない、似合わない!」


「俺は世貴子が好きだって言ってるだろ!?」


「……」


「確かに、家元の道を捨ててまで音楽を始めたのは織への想いも手伝ってた。でも、それ以前に…俺の本当の父親がアメリカでギター弾いてるってことがあったからなんだ。」


 世貴子は驚いた顔で、俺を見つめる。


「順をおって話そうと思ってたけど、…世貴子、あまり俺の事知りたそうじゃなかったし。」


「…そうじゃない…」


「じゃ、何だよ。」


「あなたのこと…知れば知るほど自分が普通すぎることにイヤ気がさして…」


「世貴子のどこが普通だよ。でっかい夢、持ってるじゃないか。」


「でも、あなたとあたしじゃ…」


「物足らなくなんかない。俺は世貴子に、むちゃくちゃ憧れてるんだ。これからの俺に、世貴子は必要な人間なんだ。」


「……」


「おまえは、いい女だよ。俺にはもったいないくらい。」


「…でも、もうやめたもの…」


「やめるなよ。」


「だって、アメリカに行っちゃうんでしょ?」


「ああ。」


「だったら…」


「オリンピック、出るんだろ?向こうで待ってる。」


「……」


「そんな目標があったって、いいんじゃないか?」


「……」


 うつむいて黙ってしまった世貴子は、ついこの間までの強い瞳を失っていた。


「…そんなに俺のことが信用できないって事か…」


「……」


「来いよ。」


「えっ…あ、ちょっ…」


 周りにいた野次馬たちがキャーキャー言う中を。

 俺は世貴子の手を取ったまま、歩いた。


「ちょ…セン、待って。」


「黙ってついて来い。」


 まず俺は世貴子の家に電話して、ちょうど土曜日で家にいる両親を呼び出した。

 そして。


「…どこに行くの?」


 世貴子と世貴子の両親をタクシーに乗せて…


「ここって…」


「元、俺んち。」


 早乙女邸へたどり着いた。


「よよ…世貴子、どういうことだ…」


 親父さんがうろたえてる。

 無理もないか…

 寝耳に水ってのは、こういうのを言うんだろうからな。


「おや、誰かと思えば…」


 玄関開けると、ばあさまがきつい顔で俺を見た。


「なんの用かしら。」


「ばあさま、俺、この人…長瀬世貴子さんと結婚するから。」


「!」


 誰よりもその発言に驚いたのは、世貴子の両親だった。


「父さん!母さん!」


 俺の言葉に、世貴子の両親は玄関先で倒れてしまった…。






「全く…誰だって倒れたくなりますよ。」


 ばあさまが、冷たい声でそう言った。


「まあ、それでも…こういう事でもない限り、あなたが帰って来る事はなかったでしょうから、それはよしとして…」


 ばあさまは、ちらっと世貴子を見て。


「あなたは、桜花の先生でしたね。」


 って一言。


「…はい。」


「千寿とは、いつからお付き合いを?」


「ばあさま。」


「あなたは黙ってらっしゃい。」


「あたしは…」


 世貴子が、うつむいたまま話始めた。


「千寿さんが、こんな由緒あるおうちの方だとは、最近まで知りませんでした。」


「……」


「学生時代は柔道に明け暮れてて…想いを寄せたのも学校の先生くらいで、恋愛経験もありませんでした。」


 世貴子の声は、透き通ったイメージで心地いい。



「それが、初めてー…恋をした途端、辛くて…悲しくて…嫉妬ばかりしてる自分がイヤで…何度、千寿さんを忘れようと思ったことか。でも…」


 遠くで、蝉の声が聞こえる。


「一度だけたててもらったお茶が、とても心強くて…忘れられないんです…」


「世貴子…」


 世貴子は俺の目を見ると。


「あたし、行くから。」


 言い切った。


「……」


「オリンピック…行くから。」


 世貴子は目を閉じて、自分に言い聞かせているようだった。


「ついさっきまで、あたしは千寿さんに似合わない…お別れしようって思ってました。あたしは、普通の女です。嫉妬もするし、お茶も嗜めません。でも…そんなあたしでも、千寿さんが好きになってくれたのだから…どこか誇れるところがあるんだと思うんです。」


「世貴子…」


「だから、こんなあたしですが…」


「お待ちなさい。」


 世貴子が頭を下げようとした瞬間。

 ばあさまが、口を挟んだ。


「…どうも、私が反対してるように聞こえるんですがね…」


「え?」


「私は、別に千寿とあなたのことを反対してるわけじゃありませんよ。この孫は、もう勘当してるわけですから、今更私があれこれ言う必要もありませんしね。」


「ばあさま…」


「千寿。」


「はい。」


「あなた、アメリカに行くそうですね。」


「…はい。」


 ほんの少し…背筋を伸ばす。


「あの男に会いに行くなら、一言、涼と政則さんに話しておきなさいよ。」


「………知ってた?」


「私書箱で文通の事でしょう?涼に聞きましたよ。」


「母さんから?」


「コソコソ郵便局に通ってたあなたを尾行けて知ったらしいですよ。」


「え。」


 …やられた。


「私は長瀬さんのご両親と話してきます。涼がそろそろ帰ってくる頃ですから、きちんと話しなさい。」


「…はい。」


 ばあさまが部屋を出て行くと。


「…夢みたい…」


 世貴子が、つぶやいた。


「何。」


「今…あたし、自分がすごく好き…」


 俺は世貴子を抱きよせる。


「嬉しかった…世貴子の気持ちを聞けて。」


「…それにしても、センって思いもよらないことするのね。」


「俺をこんなふうにしてるのは、おまえだよ。」


 顔見合わせて笑う。


「あ…おふくろだ。」


 門から日傘をさして歩いてる姿が見えて、俺は立ち上がる。


「母さん。」


 縁側に立って声をかけると、母さんは驚いたような顔で小走りにやってきた。


「どうしたのー…珍しい。」


「色々報告があって。」


「何?あ…お客様?」


 俺の後ろにいる世貴子を見て、母さんは軽く頭を下げた。


「長瀬世貴子といいます。」


「未来の嫁さん。」


「まあ。」


 母さんは目を丸くして、俺と世貴子を見て。


「まあまあまあ。」


 なんて、笑う。


「俺、来月から二年ぐらいー…アメリカ行くんだ。」


「アメリカ?」


「会うよ?」


「…誰に。」


 母さんは、少しだけ目を伏せた。


「知ってるくせに。」


「……」


 相変わらず、伏し目がち。

 でも、優しい…目。


「何か伝えることでも、ある?」


「……」


 母さんは少女みたいな目付きで俺を見て。

 静かに…首を横に振った。

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