ある日、早苗はクラスメイトの宮本廣介が見慣れない本を手にしていることに気付いた。

 普段は褪せた生成りのブックカバーを愛用しているのに、珍しく派手な表紙の本。

 鞄に本を戻している姿を見た早苗は違和感を感じた。

 いつも落ち着いていて理知的な彼だが、やたら周りの目を気にし、焦っているように鞄にぐいぐいと本を押し込んでいる。

 何かあったのだろうか。

 不思議に思いながら早苗は教室を出た。


 次の日、友人に頼まれて図書館の清掃ボランティアに参加した早苗は撤去を手伝うよう指示された本棚の上でその本と再会した。

『あれ?こんなところに本がある』

 同じ本棚の担当になった生徒の一人が首を傾げた。

『変だな……この棚は撤去するから昨日の夕方に中身を抜いた筈なんだけど』

 彼女は図書委員会に所属する女子で、図書館に詳しい。

 反対に早苗は図書館はあまり利用しない。

 今日だって友人が用事で帰らなければ早苗はこうやって居心地悪そうに図書館の床にしゃがみ込んでいない。


『ちょっとこれ……ウチの本じゃないじゃん』

 顔を上げた早苗は目を丸くした。

 図書委員の女子が手にしていたのは、なんと昨日彼が持っていたあの本だったのだ。

『それ……』

 どうして彼の本がここに。

『西垣さん、知ってるの?』

『えっと……知り合いの本』

『じゃあ返しといて』

 はい、と本を手渡される。

『あ、うん……』

 こんな具合で早苗は本を持って帰る事になってしまった。


 帰宅した早苗は本が入ったままの鞄を見やった。

 彼女は図書館の本ではないと言っていた。

 何故あそこにあったのかは知らないが、彼の本なら早く返さなければ。


 翌日、早苗は後ろの席から宮本廣介の様子を窺っていた。

 廣介は本を紛失した割に平然としていた。

 しかし、早苗はなかなか本を渡すきっかけを作れずにいた。

 廣介との接点を持っていなかった早苗は移動教室や休み時間など、周りに気付かれないタイミングを狙っては悉く玉砕していた。

 結局放課後になっても廣介に話しかけることは出来ず、早苗は本を持って図書館に向かった。

 廣介は時々図書館へ行く。

 元々あった場所に置いておけば、見つけてくれるかもしれない――。

 部活動が始まるまでの間、早苗は廃棄処分の棚に本を置き、廣介を待った。

 二十分くらい経った頃、一人の女子生徒が通りかかり、例の棚の前で立ち止まった。

(……?)

 すると女子生徒はカウンターへ行き、踏み台を借りた。

 ……あの本を取ろうとしている。

 早苗は焦った。

 あれは廣介の本だ。

 咄嗟に本を取り鞄に仕舞うと早苗は図書館を後にし、部活動が行われる体育館へ向かった。



「だからあんな短時間で本が消えたのか」

 祈は得心がいったように言った。

「でも、最後に見つけたのはそこだったよな?」

 自然科学と書かれた棚を指す。

「それも私です。あの後、気になって本の中身を見てしまったんです。それで、それで……」

「『幻滅した』と」

 祈が助け舟を出した。

「表紙が似たような棚に入れてしまおうと思って……本当にごめんなさい」

 早苗が月乃に頭を下げた。

「いえ……こちらこそ呼び出してごめんなさい」

 月乃も丁寧に頭を下げた。

「それと、ありがとうございます」




     *




「――って訳で万事解決」


『それは良かったわ』

 祈は電話の向こうでイヴが湯を沸かしているのが分かった。

『それで、月乃は?これ貴方の電話でしょう?』

「先に帰ったよ。連絡先、教えてもらったんだ」

 校門に寄り掛かり、祈は空を仰いだ。

『そう』

「それにしても彼女には振り回されたよ」

『メモを挟んだ彼女?』

「ああ。言いにくい内容なのは分かるけど、投げやりというか、まるでもうどうとでもなれって感じで……」

『毒を食らわば皿までね』

「えっ?」

『でも彼女、ただ言うのが億劫だった訳じゃないと思うわ』

 イヴは落ち着き払った声色で言った。

 もう湯沸かしの音はしない。


『好きだったのよ』


 祈はスマートフォンを耳から離して画面を見た。

「えっ、それってつまり……」

『それじゃ、おやすみなさい』

 通話が切れる音がして、画面が待ち受けに戻る。

「……」

 祈はそのまま検索画面を出し、文字を打ち込み始めた。


 いつの間にか、空は美しい夕空に変わっていた。




     *




「……前言撤回。万事解決じゃない」

「何がですか?」

 祈が仏頂面で言い放つと月乃は紅茶のカップを口から離した。

 店内は今日もカウンター席に月乃、横に祈、そしてキッチンにイヴという構図だ。

 ありふれた午後。ただ、そこには一欠片の謎がある。


「宮本廣介の友人が新堂さ……月乃の本を持っていた理由だよ。分からないままだ」

 あれから月乃は祈に懐き、下の名前で呼ぶことを許諾してくれた。

「そういえばそうですね……」

 そもそも、この友人が月乃の本を持ち去ったのがこの一連の騒ぎの発端なのだ。

「……教科書」

 食器を拭いていたイヴがこちらを向いた。

「教科書?」

 突拍子も無い一言に祈がおうむ返しに言う。

「月乃が本を忘れた机の後ろにあったっていう非常扉。隣棟の非常階段に繋がっているのよね?」

「はい」

「隣棟には何があるの?」

「美術科の教室がいくつか……」

「あの時間にある授業は?」

「……植物学です……あっ」

「頼み事をした彼は確か美術科だったわよね」

「私の本を、植物学の教科書と間違えた……?」

「間違えたというよりはほぼ確信犯ね」

 イヴは指を二本立てた。

「話を聞いた感じからするとその人物はかなりガサツでその場凌ぎな性格。そして、月乃が本を忘れたのは隣棟に一番近い机」

「じゃあ、そいつはそこから?」

「彼はその日そこで寝過ごしてしまった。ついでに教科書を忘れていた。遅刻してさらに教科書を忘れたとなると無論教師の叱咤は免れない。そこで彼は机にあった似たような表紙の本を代わりに持って行き、非常扉を通って近道をした。頼まれて本を戻した彼もそこを通って図書館に入ったんでしょう。早朝は施錠されていたでしょうし」

「勝手に借りた事が後ろめたくて頑なに理由を言わなかったのか……やっぱり勝手な友人だな」

「もしくは中を見ちゃったんでしょうね」

 月乃が呑気にクスクス笑う。

「まぁ、結果的に彼はキューピッドになった訳だが」



 西垣早苗の告白の後、祈は宮本廣介に連絡しようとした。

 勿論メモの件は伏せて伝えるつもりだったが、早苗はそれを制した。


「今度は自分の口で伝えるってさ」

 早苗と廣介は今回の一件がきっかけで――祈が渡した連絡先も手伝って――話をするようになったという。



 祈は伸びをした。休日の午後はのどかで平和だ。

「なぁ、何で西垣早苗が宮本廣介を好きだって分かったんだ?」

 伸びをしたままの格好で祈はイヴに尋ねた。

「ただ本を渡すだけなのに彼女はそれが出来なかった。接点がなく、それも好意を寄せる相手だったらそれは難しいことでしょうね。それに、周りに気付かれないタイミングを狙ったり彼の行動パターンを知っていたりしたのもそう思った理由よ」

 成程。

「なんだか、素敵な話ですね」

 早苗と廣介の距離が縮まったことを、月乃は自分の事のように喜んでいた。

「……月乃」

「?」

「もし最初からメモの犯人が現れていたらどうするつもりだったんだ?」

 月乃は犯人が誰なのか知りたいと言っていた。

 それは恐らく、いや確実に怖かった筈だ。

 月乃は肩を竦めてはにかんだ。


「怖かったですけど……出来れば『お友達になって下さい』って、そう言おうと思っていました」




「……ただいま」

 仰々しい門をくぐって玄関扉を開けると家政婦の藤沢ふじさわが出迎えた。

「お帰りなさい」

 彼女は玄関に置かれた馬鹿みたいに巨大な焼き物の壺に花を生けているところだった。

「夕食が出来ていますよ」

「ありがとうございます。……母さんは?」

 藤沢は口籠った。

「今日はまだ……」

「部屋から出てないのか」

 祈が言い当てると藤沢は申し訳なさそうに頷いた。

「後ほどまた様子を見てみます」

「すみません。お願いします」


 藤沢が用意した夕食を食べ終わると祈は自室に入った。

 夕食は不味くなかったが、だだっ広いダイニングに鎮座するテーブルに冷たく並ぶ料理は、どうしたって途中から味気なく感じてしまう。

 あの雨の日に飲んだコーヒーの方がずっと美味しかった。

 人が居る筈の家で一人で食べる習慣は長く続いていたのでとうに慣れきっていたが、最近はまた孤独を感じるようになった。

 理由は分かっている。あの店に――ユーフォリアに行っているからだ。


 ベッドに仰向けに転がると祈はスマートフォンを取り出した。

 連絡先の画面を開き、そこに新しく登録された名前を眺めた。


《雑貨屋ユーフォリアの魔女》



『魔女っていうのはね』

『“魔法が使える女”じゃなくて、“魔法を掛ける女”の事を言うの』

『私はある目的の為にこの店をやっているんです』

『それが出来た時――私は本当の魔女になる』



「……」

 祈は起き上がり、電話のマークを押した。

 呼び出し音が鳴る間、妙な緊張感が祈を支配する。

『……はい』

 いつもの澄んだ声が電話のせいで少しだけくぐもって聞こえた。

 祈は意を決して一息に言った。

「コーヒー、美味しかったです。俺は夜枯 祈。灯ノ谷大学二年、建築学専攻。良かったら、その、友達になりませんか」



 沈黙。

 祈は構わなかった。

 この突然の提案をイヴにどう思われようが、この沈黙がどれだけの羞恥をもたらそうが、月乃の勇気に比べれば大したことはない。

 それに、祈は初めて心から願ったのだ。

 だから今この瞬間に伝えたいと思ったのだ。


『……待雪まつゆき雫』

 静かな声が返ってきた。

『雑貨屋ユーフォリアの店主でまたの名を――』

 息遣いが聞こえる。


『――イヴ』


 祈はゆっくりと息を吐いた。

 どうせこの安堵だってあの魔女は笑うんだろう。

「……じゃあ、おやすみ」

 電話を切ると検索画面が開きっぱなしだった事に気が付いた。


 ――毒を食らわば皿まで。

 意味は「罪を犯した以上は悪に徹しようとすること」。


 画面を閉じると再びベッドに寝転ぶ。

 そうして一人頰をほころばせた。

 俺も悪に徹してあの店に居着いてやる事にしたんだ。

 彼女の言う魔女がなんたるか、分かるまで。

 あそこは、居心地が良すぎる。

 果たしてこれは毒か薬か――。





 店の二階にある小さな部屋に、雫は立っていた。

 明かりも付けずに、今しがた切ったばかりの電話を見つめる。


「……友達、か」

 あんなにはっきりと、真正面から言われたのは何時いつ振りだろう。

 無責任で不確かなその言葉は今でも調子の狂ったピアノのような響きがする。

 あの雨の日以来、雫の周りで何かが小さく変わり始めている気がする。

 私はこれ以上、何も要らない――




 月が、沈んだ。

 

 くして日々は廻り始めた。

 すなわち、ユーフォリアと魔女とひとさじの謎の日々が。






 Witch, let's be friends.

【Coffee】

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