第ニ章 降らぬ先の手を
一
軽く柔らかかった風はいつの間にか鳴りを潜め、気付けば重たい湿気を含んだ空気が首元や背中に纏わり付くようになっていた。
祈はそれらを追い払うようにボタンを開けたシャツの襟元を摘み、バタバタと扇いだ。
「低気圧が来た」
とうとう重力に引導を渡し、だらりとカウンターの上に項垂れた祈を見て月乃がクスリと笑った。
「きっとすぐに梅雨になりますね」
彼女は今日も変わらず「本日のティーセット」――マドレーヌと紅茶――を愉しみながら読書をしている。
高校は衣替えの時期らしく、制服の上着の代わりに薄手のカーディガンを羽織っている。
「ハァ……」
梅雨は苦手だ。
そうでなくとも
「大学は今試験期間中なんですよね」
「ん?あぁ」
「……その割にはゆっくりしてるのね」
洗い物をしているイヴが背を向けたまま口を挟み、祈はその背をまじまじと見つめた。
「……」
あの友達宣言の後、イヴと口を利いたのはこれが初めてである。
言い出したのは自分だがやはり相手の反応が気になる。
「あまりする事が無いんだ」
すると月乃がえーっと声をあげた。
「羨ましいです。私なんかどんなに対策してもあんまり良い成績取れないのに」
「まぁ、高校と大学じゃ試験の形態も内容も違うし」
月乃の鞄からはみ出している付箋だらけのノートや単語帳を見やりながら祈は言い訳した。
大学生は試験期間中にやる事が無い、というのは嘘である。
事実、颯はこの時期になると決まって菓子やパンを持ち歩き、他学科の友人、サークルの先輩、教授の助手、果ては購買のおばちゃんにまで会いに行き、情報収集に勤しんでいる。
それが功を奏しているかと言われれば微妙なところだが、彼を含め多忙な皆と違い、時間を持て余し気味な祈は今頃慌てて試験勉強する必要も無いのだ。
寧ろ祈は今、別の事で頭を悩ませていた。
「そうだ、祈さんって何の研究をされてるんですか?」
月乃が興味津々に聞いた。
鞄から単語帳を取り出す気は無いらしい。
「建築関係」
「わぁ、すごくそんな感じがします」
月乃の感想はいつも率直だ。
「じゃあそろそろ卒業課題に取り掛かる頃ね」
そう、この女と違って。
「……」
祈の悩みの種はこれだった。
二年の夏目前、各研究室では卒業するのに必要な論文か作品かの選択とテーマの決定を迫られていた。
祈の研究室では何人かがグループで作品を、他のメンバーは論文を選ぶような空気になっている。
人付き合いは苦手な方なので論文にしようかと思っていたが、一人で全てやるよりも分担制の方が楽に思えてきたのだ。
勿論人数が多い分、質の高いものが求められるが、それは誰か有能なメンバーに頼ればいい。
「どうするかな……」
自由か、楽か。
堂々巡りの思考を分断するように店内にベルが鳴り響いた。
時代錯誤な音にどこの黒電話かと思えば、出所はイヴの着ている薄紫のワンピースの中だった。
「はい、雑貨屋ユーフォリアです」
白いスマートフォンを取り出したイヴは無意識に髪の毛を左耳に掛けた。
「お世話になります。はい。明後日の二時に
何やら約束の確認らしきやり取りの後、礼を述べてイヴは電話を切った。
「いろは屋さんですか?」
「ええ。今回は多めに置かせてもらえる事になったの」
「すみません、私が休みだったら手伝えたんですけど」
「いいのよ」
「どこか行くのか」
「明後日は納品日なんです」
見かねて訊ねると月乃が答えた。
納品って事は委託販売か。
「でもイヴさん、明後日は座長さんも老人会があるって……」
「平日だし、シノちゃんもきっと駄目ね」
知らない名前が祈の上を飛び交う。
「うーん……あ」
「……」
予想通り、月乃の大きな目が祈を捉えた。
*
「ごめんなさい。手伝わせてしまって」
イヴはそれだけ言うとまた流れる景色に視線を戻した。
祈とイヴは扉の近くに並んで立ち、電車に揺られていた。
イヴはいつもの無地のワンピースに麦わら帽子を被っている。
つばが大きいせいか、カウンターの中ではなくすぐ隣にいるからか、元々小柄な身体が余計小さく見える。
祈はイヴと常に一定の距離を保つように努める傍らで時々頭上の荷物棚に目をやり、取っ手付きの大きな籠が落ちてこないか見張っていた。
今朝、店から二人で運んで来たものだ。
地蔵門前という駅は隣県の西端にある。
地図上では隣県の県庁所在地と祈達の住む学園町との丁度真ん中あたり。
それらを結ぶ路線は山を抜けた後、街に入る。
目の前の車窓から見えるのはまだ生い茂った緑ばかりだ。
「……」
車内は
強張らせなくていい身体を強張らせていた祈は段々と喉が渇いてきた。
効きすぎた冷房が汗ばんだ首筋から熱を奪っていく。
一人でいる時、果たしてこんなに沈黙が耐え難かっただろうか。
いつもは月乃が会話の橋渡しをしてくれていた。
考えてみればイヴも祈も話し上手なタイプではない。
初めて会った時、お互いに分かっていた事じゃないか。
「いつもはどうやって運んでたんだ?」
「……え?」
イヴは我に帰ったかのように数拍遅れて振り向いた。
「あぁ、知り合いに頼んで車で運んでいたの」
そうしているのが楽だというようにイヴはまたちらと外を見た。
会話は続かない。
祈は不安になった。こんな未踏の地を這うような感覚で今日一日過ごさなければいけないのか。
「……どうして」
振り向くと揺れる黒瞳が祈を覗き込んでいた。
暗く透き通ったそこからは何も読み取る事が出来ない。
「どうして、友達になりたいの?」
電車がガタン、と音を立てた。
次の停車駅が近くなり、スピードを落とし始める。
先程までの思考がシャボン玉のように弾け飛んだ祈はイヴを見返した。
それは確かに疑問として投げかけられたのに、彼女の表情は何故か祈の返事を聞きたくないように見えた。
「どうしてって……」
祈だってあんな事をしたのは初めてなのだ。
殆ど衝動だ。
――俺は何故あんな衝動に駆られたんだ?
祈は理由を探してイヴとの記憶を最初から辿った。
「……魔女」
「?」
「今まで周りに自分は魔女なんて言う人はいなかったから」
結局、本心とは別のところから答えを出した。
――あの衝動の
心の宇宙を漂う星屑を小瓶に入れ、名前の書かれたラベルを貼り付けて引き出しに仕舞っておく事など、できはしないのだ。
イヴは怒るでも喜ぶでもなく「そう」と言った。
「
扉が開くと湿った空気が葉の匂いを含んで入り込み、冷えた車内の温度がほんの少し上がる。
近くに座っていた老夫婦がそろそろと電車を降りて行った。
「座るか」
「ええ」
二人は向かい合って座った。
「次は
景色が再びゆっくりと動き出す。
「あの店、一人で?」
「私だけよ」
求人らしき中吊り広告の『私たちにはあなたが必要です』の文字が嫌に目に付く。
「大変なのか?」
「こういう時だけ」
「いつからやってるんだ?」
「三年前」
イヴは少なくなっていく緑を惜しむように車窓を眺めた。
「祖父母の店なの。喫茶店をやってた」
だから改装の痕があったのか。
「二人が店を閉じようって時に私が頼み込んで、残してもらったの」
祈はイヴの事が知りたかった。
そうすれば、あの衝動の
「両親は?」
イヴはこちらを向かずに言った。
「私一人よ」
「……そっか」
大勢の前で数式の解答を間違えたような羞恥心が祈を襲った。
どうもおかしい。
俺は無神経な人間じゃない。
ズカズカと他人の領域に踏み込まぬ分別があった筈だ。
それがなぜか、このイヴという人間に関しては上手く機能しないのだ。
……やめよう。
他人に歩み寄ろうなんて、俺には無理だったんだ。
そういうのは月乃や颯みたいな、回遊魚体質の人にこそ向いている。
深海魚の祈はただ彼らが海の底まで泳いで来てくれるのを待つしかないのだ。
「……」
今日のイヴの言葉は心臓に刺さったまま溶けない。
答えは依然として沈黙している。
――あぁ、そうだ。
振り分けてしまったんだ。
あの店に初めて入ってイヴを見た時、なんとなく祈が感じている言いようの無い孤独や、誰にも分からないと信じていた驕りのような疎外感を理解しているように見えたから――。
すっかり街に入った電車は昼に近付くにつれ明るく、暖かくなっていく。
「
「次だわ」
「あ、あぁ」
けれどイヴは訊いた。
祈が友達になりたいと思う理由に、彼女は興味を持ったのだ。
それは深海魚が遠い水面を見上げて馳せる憧憬。
彼女はきっと、祈が伸ばした手を掴む理由を探している。
「……謝らないでくれ」
「え?」
「友達なら多分……当たり前だ」
彼女がそれを危ぶむ理由は分からない。
それでもこの手を掴む事は間違いではないと証明したい。
イヴとあの店はただの“居場所”ではない。
祈が孤独を感じずに済む場所なのだ。
駅の改札を出た二人は近くのベンチに荷物を降ろした。
待ち合わせスペースらしきそこは円形の植え込みを囲むようにベンチが並べられ、座っている人は皆スマートフォンを弄っている。
「先に食べようと思うのだけど、何かリクエストはある?」
祈は腕時計を見た。
十二時二十七分。
もうこんな時間だったのか。
「約束は二時だし、ここなら駅の中に飲食街があるわ」
「俺は何でも」
つい、颯にするように適当な返事をしてしまい、イヴが目を細めた。
「……分かったわ」
慣れてないんだ、勘弁してくれ。
駅中の商業施設は冷房が効いているせいか人が多かった。
荷物を持ってイヴの後を歩きながら、祈は左右に展開する様々な店を眺めた。
考えてみればこうして女性と二人きりで食事をするのは随分久しぶりな気がする。
「ここにしましょう」
イヴが立ち止まったのは洒落た雰囲気のイタリアンレストランだった。
ピザのような香ばしい匂いが空腹をくすぐる。
席に着いた二人は三種類の日替わりランチメニューから味違いのパスタを選び、店内の装飾を鑑賞した。
恐らく偽物だろうが、赤レンガを並べた壁と所々にぶら下がる観葉植物が料理とよく合っている。
横の窓からは駅前の広場が見えた。
広場の向こうにはビルが建ち並び、上に据えられたスクリーンの中ではヒットチャートが流れている。
パスタを待つ間、祈はヒットチャートの後に現れたお天気キャスターの男がこれからの気象情報を伝えるのを眺めていた。
程なくして料理が到着し、イヴはトマトの冷製パスタに、祈はペペロンチーノに口を付けた。
昼時だからかそれともこの店が人気なのかイヴ越しに見える店内はごった返していた。
セルフサービスの水を取りに行く客達と料理を運ぶウエイター達とが狭い通路ですれ違っている。
イヴは冷製パスタが気に入ったようで、せっせと小さい口に運んでいた。
食べ終わると腹に溜まった小麦が満足感を与えた。
イヴは「御手洗いのついでに会計を済ませてくる」と祈からペペロンチーノの代金を受け取り、レジの方へ消えていった。
財布を仕舞おうと鞄を開けた祈はスマートフォンが光っているのに気付いた。
メッセージは月乃からだった。
丁度昼休みなのだろう。
件名は『ありがとうございます』となっている。
――何のお礼だ?
「ただいま」
イヴが戻って来たので祈はスマートフォンを閉じた。
「ありがとう。それじゃあ行くか」
よっこいせと籠を抱える。
悲劇は店から出る直前に起こった。
両手に水を持った女性客がイヴの前からやって来た。
女性は水を溢さぬよう、足元ばかり見ている。
そこへ厨房からこれまた両手に料理を乗せたウエイターが勢い良く出て来たのだ。
気付いた女性が慌てて避けようと体を捻ったが間に合わない。
並々注がれた水は生き物のようにコップの中から逃げ出した。
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