二
ばしゃり。
鼻先数センチのところにイヴの驚いた顔があった。
黒い瞳を丸くし、自分に覆い被さる祈を見上げている。
「す、すみません!大丈夫ですか!?」
振り返ると顔を真っ青にした女性がペコペコ謝っていた。
ウエイターもその横で女性と祈に謝る。
「大丈夫です。気にしないで下さい」
祈は籠を抱えたまま頭を下げた。
二杯分の水を被った背中はシャツがびっとりと貼り付き、吸いきれなかった水分がびちゃびちゃと床を濡らした。
他のウエイターがふかふかのタオルを持って出て来て祈に差し出した。
「申し訳ございません」
「いや、本当に大丈夫なんで」
言いながら籠が無事か確認する。
濡れていないようだ。
他の客達が何事かと首を伸ばし始めたので祈は適当に謝罪とタオルの押し付けをやり過ごし、イヴと店を出た。
「さっきの――」
言い掛けてイヴは言葉に詰まったように黙った。
祈は視線を逸らして腕時計を見た。
「行こう。この天気だ、歩いてたら乾くだろ」
「どこかで代わりの服でも――」
「いいって」
「……ありがとう」
先に歩き出した祈の背に掛けられた言葉は心のこもったものだった。
電車で感じた憂慮と焦燥が嘘のように、その足取りは軽くなっていた。
いろは屋の店主は待ち合わせ場所に立つイヴを見つけると笑顔で駆け寄って来た。
「久しぶりね!」
「お世話になります」
イヴが軽く頭を下げる。
佐々木
祈と変わらない長身で、明るい茶髪を後ろでひとまとめにしている。
はきはき話す様は人付き合いの良い奥さん、といった雰囲気だ。
「こちらがお手伝いの方?」
「夜枯です」
祈も頭を下げる。
「初めまして。いろは屋の佐々木です。宜しくね」
「宜しくお願いします」
「なんか後ろ濡れてない?」
「えっ!?」
「車こっちよ」
慌ててシャツを絞る祈をよそに、瑶子はクルクルと指で鍵を回しながら階段を降りた。
祈達を乗せた瑶子の白いバンは駅から十分程の住宅街で止まった。
「はい、到着」
引き戸の玄関から通されたのはごくごく普通の一軒家だった。
飾り棚には木製の羊や熊が、床に置かれたブリキの缶には色味のないドライフラワーが刺してあり、瑶子と同じくどこもこざっぱりとしている。
「お店は反対側なの」
キョロキョロしている祈にイヴが教えた。
廊下の先の引き戸を開けるとなるほど店内に出た。
瑶子が手早く床の物を退かし、祈はそこへ荷物を置いた。
イヴはこれから瑶子と商談をするのだろう。
俺はこれにてお役目御免だ。
「助かるわ、若い男の子がいると」
瑶子は廊下に立て掛けてあったモップとバケツ、雑巾を祈に手渡した。
「え?」
「歳とると腕上がんなくてね」
そう言って高さのある商品棚の上を指す。
訳が分からず咄嗟にイヴを見ると申し訳なさそうに苦笑いしている。
どうやら上手いこと使われたらしい。
諦めた祈は仕方なく掃除道具を手に取った。
祈は掃除しながら店内を見物した。
いろは屋は部屋を一周するように膨大な棚が置かれ、ユーフォリアとはまた違った和風な雰囲気がある。
天井は高く、言わずもがなユーフォリアよりも広い。
商品も小物だけでなく、懐かしい小学校の椅子や机、ロッカーなど様々だ。
イヴは瑶子と机の上で持って来た商品の説明をしている。
その横顔は真剣そのもので、祈は無意識に何度も見てしまった。
腹ごしらえの後の腹ごなしに加え、午後の心地良い室温に眠気がにじり寄って来た頃だった。
ガターン!
「!?」
思い切り襖を張り倒したような音がすぐそばでし、祈は飛び上がった。
衝撃で入口の木戸がガタガタと揺れる。
「びっくりした……」
イヴと瑶子も揃って顔を上げる。
「何事?」
「表からしたように聞こえましたけど……」
祈は木戸を開けようとした。
「あ、ごめん鍵は中なの。取ってくるわ」
戻った瑶子が木戸を開け、三人は外へ出た。
「これ……」
コンクリートの地面に長い棒と藍色の布が折り重なっている。
重なっていない部分には「い」と「屋」の文字が見える。店の暖簾だ。
「嘘、ウチのだったの?」
瑶子はバツが悪そうな顔で暖簾を掛け直した。
「休業日じゃなかったんですか?」
「ウチはいつも出してるの。休みの日はそこの貼り紙で知らせてて」
瑶子が戸に貼られた紙を指した。
“本日臨時休業日”と書いてある。
「風強い時でも落ちた事無いのに」
「……風ではないと思います」
イヴがあたりを見回して言った。
「隣の家の洗濯物が飛んでいないし、向かいの家の小鉢も倒れていません」
「でも劣化でもなかったわよ。どこも擦り減ったり折れたりしてない」
掛け直した瑶子が不思議そうに暖簾を見つめる。
「じゃあ何で……」
「こんにちは」
店の前を通り掛かった老婦人が頭を下げた。
「あぁ松井さん、こんにちは。あれ、今日お一人ですか?」
老婦人は瑶子の問いに答える事無くゆったりと歩いて行ってしまった。
「気まぐれなの。いつもはお嫁さんが付き添ってるんだけど」
瑶子は二人にそう説明し、手をパンと叩いた。
「さ、中に入りましょ。六月だっていうのに日差しきつ過ぎ」
夕方前には商談が終わり、祈達は腑に落ちない様子の瑶子に見送られ帰路に着いたのだった。
*
いろは屋訪問から少し経ったある日、ユーフォリアに再び黒電話の音が鳴り響いた。
「はい。ああ、瑶子さん。この間はどうもありがとうございました」
祈と月乃はカウンターでトランプに興じている。
するとイヴが「えっ」と意表を突かれた声を発し、二人は視線をカードからイヴに移した。
「紫陽花、ですか?いえ、私では……」
イヴはちらっと祈を見たがすぐに前を向いて通話を続けた。
「そうですか。いえ、お気になさらず。はい、ではまた」
「――紫陽花?」
「ええ」
電話を切ったイヴはメモした紙をカウンターに置いた。
どういう訳か、祈達が帰った翌日から差出人不明の紫陽花がいろは屋の店先に置かれるようになったらしい。
「それで私達が送り主なのかと思って連絡したそうよ」
「俺知らないけど」
「それだけじゃないの」
イヴはそんな事は分かっているという風に首を振った。
「その紫陽花にはね、予言が付いているんですって」
「予言?」
「日付と時刻が書いてあって、その日のその時間になると」
祈は唾をゴクリと飲み込んだ。
なんだか、気味が悪い。
「――雨が降るの」
「……は?」
間抜けな声が出た。
イヴが昨日から設置した古い扇風機のブーンという音が大きくなる。
「それだけ、ですか?」
「それってさ、予言っていうより」
「……予報、ですね」
月乃がカードを混ぜ始めた。
「誰か親切な人がやったんだろう。別に脅迫とかじゃないんなら放っとけばいいんじゃないか?」
「いろは屋さんは困ってるんですか?」
「このままリビングが紫陽花だらけになるのは困るって言ってたわ」
「ま、風物詩だな」
祈は自分の分のカードを整理する。
月乃が今度は三人分に分けたようで、イヴの前にもカードが置かれた。
(あ)
祈は手持ちのカードからピエロの絵柄が覗いているのに気付いた。
――“JOKER”
赤と黒の衣装に身を包んだ道化師はなんとも言えない得体の知れなさを醸し出している。
「よしっ次は負けません」
月乃の意気込む声が湿気で重たくなった空気に吸い込まれた。
*
「助かる!恩に着る!」
「分かったから」
祈は空調の効きが著しく悪い書庫にいた。
颯の遅々として進まない課題を手伝う為なのだが、身体中をじっとりと伝う汗に早くも心が折れそうだ。
「住宅地図だっけ?パソコンから調べられないのか?」
「どこも満席」
こうなる事を読んでいた祈は早めに終わらせたのだが、今言っても仕方がない。
祈は手近にあった巨大な資料を開いた。
〈美古都学園町住宅地図〉。
濃紺の硬い表紙を開くと埃っぽい匂いがする。
パラパラとページをめくると見知った文字が目に付いた。
〈ゆうかげ商店街(東陣・西陣)〉。
祈は縦に並んだ四角を反対から四つ数えた。
今のユーフォリアがある箇所には違う店名が書かれていた。
――〈喫茶 紫陽花〉。
『祖父母の店なの。喫茶店をやってた』
『私達が送り主なのかと思って連絡したそうよ』
「紫陽花……」
偶然か?
イヴの祖父母の店の名前、雨の予報を告げる紫陽花。
「あー!それだよそれ!サンキュー」
横から颯が祈の持っている資料を指差した。
「じゃあ俺印刷してくるわ」
「なぁ颯」
「ん?」
「紫陽花って名前の喫茶店、知ってるか?」
「聞いたことないな……これに載ってたのか?」
「ああ。今はもう無いんだが」
「歴史学の
さすが交流の広い男。
祈は学期初めに行われた授業紹介でやたら眠気を誘う喋り方をするその教授の事を覚えていなかった。
チャイムが鳴り、八神は念仏のような講義を終えて教室を出た。
「あの、八神教授」
外で待っていた祈が声を掛けると八神は曲がった背中を僅かに伸ばして顔を上げた。
「ちょっとお聞きしたい事があるんですけど」
祈は思い切って一息に言った。
「ゆうかげ商店街の『紫陽花』という喫茶店に行った事がありますか?」
「紫陽花……ああ」
八神はつい最近の事のように話し始めた。
「祈さんに?」
「ええ」
帰り際、イヴがぽつりと漏らした話を聞いた月乃はつい前のめりになって喋った。
祈がイヴに友達になりたいと言った事。
レストランで助けてくれた事。
「祈さんは良い人ですよ」
イヴが限られた人間にしか心を開いていないのを、月乃は心配していた。
そんな彼女に友人が出来るなら、応援したい。
「だからイヴさんだってあの時、祈さんに相談するよう言ってくれたんでしょう?」
「あの時は手が空いてなかったからよ」
「じゃあ、イヴさんは何故訊こうと思ったんですか?」
『どうして、友達になりたいの?』
イヴは自分の手元を見つめた。
「彼なら……答えてくれるかも知れないって思ったの」
「大丈夫です。祈さんはイヴさんを傷つけたりしません」
本日最後の授業・環境デザイン学を受けながら、祈はノートの端に授業とは無関係な文字を走らせていた。
紫陽花・雨の予報・無風・落ちた暖簾・気まぐれな老婦人……
何をそんなに夢中になっているのか。
祈は自分で自分を嘲笑った。
この奇妙な出来事の謎を解けばイヴの事をもっと知れる気がした。
(馬鹿馬鹿しい)
何も関係無いかもしれないのに。
こんな事でイヴに近付ける訳が無いのに。
「では、緑化について各自割り当てられた地域で現地調査を行って来て下さい。期限は再来週のこの時間です」
授業が終わると受講生らはガタガタと席を立ち、口々に現地調査の計画を話し始めた。
「俺らはこの地区周辺だって」
颯がプリントを寄越すまで、祈はそれに気が付かなかった。
「地蔵門?」
「どうした?」
「あっいや、こないだ行ったんだ」
「本当か?じゃあ楽勝だな。いつ行く?」
「明日」
「言うと思ったぜ、土曜だもんな」
伊達に付き合いは長くない。
「そんじゃ二時に駅前な」
「ああ」
*
「あっつ……」
午後過ぎの地蔵門前駅は休日のせいか人が多かった。
日差しは然程出ていないにも拘らず、広場にいる人々は時々の雨が置いていく熱と水を含んだ空気に
「次はお天気コーナーです。松井さーん?」
画面が地方局のスタジオから屋外に変わり、スーツの男性が笑顔で話し始めた。
「はい、毎朝庭の紫陽花を見るのが好きな松井です。紫陽花と言えば梅雨、まだ続きそうです。それでは明日の天気です」
「あ、おまっちゃだ」
颯が男性を見て言った。
「おまっちゃ?」
「あのお天気キャスター。松井って名前だけどおっちょこちょいキャラだからそう呼ばれてんの。この辺の人らしいぜ」
「へぇ……ん?」
どこかで聞いた名だ。
『あぁ松井さん、こんにちは』
そうだ、あの老婦人と同じ名前だ。
「ごめん、ちょっと電話する」
「ああ」
祈はスクリーンを見たまま、スマートフォンを耳に当てた。
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