ニ
一通り陳列棚を物色した祈はカウンターに近付いた。
パズルのピースのように上手く小さな店内に収まったカウンターは明らかに切った痕がある。
よく見るとこの店自体、改築された箇所がいくつか見受けられる。
雑貨が並んでいるスペースは空間の三分の二が使われており、残りが喫茶スペースだ。
喫茶スペースは床が土間になっていて、カウンターと階段を遮る柱に掛かった黒板にはコーヒーやココアなどのちょっとしたメニューが書かれている。
喫茶。祈は心が浮き立つのを感じた。
女性はカウンター裏の水場で洗い物をしていた。
「……あの」
祈が咳払いして声を掛けると女性は顔を上げた。
「ここ、喫茶も利用出来るんですか?」
分かりきった質問だが、礼儀を考えて一応尋ねる。
女性は手を止めて黒板を指した。
「ええ。こちらから選べます」
祈は改めて黒板のメニューを見た。
コーヒーに紅茶各種、ココア、ミルク、レモネード、そして飾り枠に囲まれて「本日のティーセット」の文字。
祈は半乾きになった髪に手をやった。
まだ寒気は完全に消えてはいない。
「コーヒーを」
「かしこまりました」
女性は二つある椅子に促すと食器の入ったガラスケースからコーヒーマグとソーサーを取り出した。
深い藍で所々焦げ茶の焼き色が入っている。
コーヒーを待つ間、店内を観察する。
天井には巨大な梁が通っており、籠がぶら下がっている。
「お待たせしました」
「!」
すっと出されたコーヒーに祈は驚きを隠せなかった。
コーヒーは香り高く湯気を立てて、客の手に取られるのをソーサーの上でじっと待っている。
祈はコーヒーに詳しくない。
大学の自販機でたまに飲むくらいだ。
大学の自販機然りレストランのドリンクバー然り、安価で早いのが売り。
逆に喫茶店やコーヒーショップなどの専門店ではしっかりした値段で美味しいものが出てくる。
前者でよく目にするのは業務用のドリンクディスペンサーや小型のコーヒーサーバーだ。
不思議なのは今しがた提供されたコーヒーが注文してからすぐに出てきたことだ。
こんな小さな喫茶スペースなら裏でそれらの機械を使われていても仕方ないとは思う。
だが、祈から女性の立つキッチン部分は丸見えだった。
そしてそこにそれらしいものは一つも見えない。
「あの」
つい、口を開いた。
「はい」
「これ、今淹れたんですか?」
聞き様によっては失礼な質問に、女性はにこやかに答えた。
「ええ、淹れたてです」
「すみません、思ったより出てくるのが早かったので……頂きます」
バツが悪くなり、祈はマグに口を付けた。
――うん、美味い。
「……コーヒーだと思ったからです」
「えっ?」
女性は不必要に笑わない。
視線だけマグの上にやって目を合わせた時、そこでやっと微笑む。
「今日はこの天気で、お客様は来ません。来るとしたら私に直接用のある人か店に用がある人。貴方は入店しても私を探さなかったので店に用がある人」
祈は黙って女性を見た。
――何を言おうとしているんだ?
「貴方は大学生で、暇潰しの候補としてここを挙げていた。商品や内装には興味があり、一石二鳥。けれど傘を忘れてしまい、どこかで雨宿りした後ここへ来た」
祈は呆気に取られてマグをソーサーに戻した。
「何で分かるんですか?土曜だし、高校生だって私服ですよ」
「高校生はみんな街の外か表通りで遊ぶの。こっちの方はお年寄りしかいないもの」
女性は肩を竦める。
「貴方の鞄は大学生がよく持ってるブランドだし、やけに店の外観や間取りを眺めていたから専攻は建築関係かしら。土曜なのにこの時間にここへ現れたという事は大学の補習授業じゃない。授業が終わってからじゃ来るのは昼過ぎになるわ」
確かに午前中の授業を受けてから昼前にここへ来るのは不可能だ。
「貴方は初めからこの店に来るつもりだった……ちゃんと開店時間も調べて。計画していたことなのに濡れているのは傘を忘れたから。予想していない雨なら途中で断念して帰るのが普通よ。髪の毛や服の乾き具合から見て一度雨宿りしてる。そうなると注文するのは暖かい飲み物」
「でも、何でコーヒーって……」
「うーん、貴方はあまり喋らない人に見えた。店員に話しかけられるのも苦手なタイプ。私が貴方ならメニューを見て一番上にあるものを注文し、さっさと会話を終わらせたいと思うわ」
祈は唾を呑み込んだ。
やはりこの店主は最初から祈の性格を読んでいたらしい。
女性がまた笑った。
今度は営業用の畏まった笑みではなく、本心から――そして気の所為かどこか面白がっているような、そんな笑みだった。
*
「うわっ」
階段を降りて玄関ホールへ出ると直射日光が無防備な目を貫いた。
講義室のぼんやりとした明るさに慣れていた祈は玄関ホールのガラス戸を突き抜ける閃光に手で目を覆った。
先週の豪雨が嘘のように、晴れた日が続いていた。
行き交う人は皆あの雨の日の事などとうに忘れ、ぽかぽかと心地良い小春日和を楽しんでいる。
その傍らで祈の関心は例の雑貨屋に残ったままだった。
――あの後、大した会話もせぬままコーヒーを飲み干し、祈は店を出た。
よく考えれば彼女の驚くべき推理は観察眼とこの街に関する知識によるものだと分かりはしたが、それ以上に心を――特に隠している部分を見抜かれそうな気がしたのだ。
それが余計に祈の興味を引いた。
あの店主は今まで会ったどんな女性よりも粋で、情緒的で、変わっていた。
彼女は一体何者なのだろう?
「――し――おい、よがらし」
「ん?」
寝言とも返事ともつかぬ声で祈は自分を呼ぶ人物に向き直った。
「午後イチのデザイン論、休講だってよ。次の土曜に補講」
「ああ……サンキュ」
颯は入学時からの友人である。
選択コースが同じ為、殆どの講義を一緒に受けている。
「良かったじゃねーか。土曜出れる理由が出来て」
「ああ」
どうせ補講が無くても出て来るけどな、とは言わずにおく。
「なら、午後から暇だな」
思い出したように言うと颯が羨ましがった。
「あー、お前デザイン論の後入れてないのか。バイトもねぇし、いいなぁ」
派手な頭を振って空を仰ぐ。
燦々とたっぷりの日を浴び、ふさふさの金髪も心なしか元気そうに見える。
「まぁな」
祈は他の同級生と違ってアルバイトをしていなかった。
理由としては金に困っていないから、というのが一番にあるがそれは家が裕福だからではなく、主に趣味や友人が少ない事に起因していた。
建築やインテリアを眺めるのが好きな祈は専ら図書館で該当する本や写真集を読み漁り、共に行動する友人も颯くらいしかいないので交遊費もかからない。
加えて実家暮らしなので諸経費は家政婦を通して祈に与えられている。
一度だけ勉強がてら周りに黙ってコンビニで働いた事があるが、自分には向いていないということをありありと知らされ、短い社会体験はそこで幕を閉じた。
一方、颯の方はというとこれが外見から趣味まで拘る男で、そこに費やす金も時間も厭わない。
それも一つの個性であり、自分が終ぞ持ち合わせることのなかった側面なので、祈は真反対な颯と居るのが寧ろ楽しかった。
「じゃあな、俺はバイトまでちょっと寝るわ」
「またな」
祈は空いた午後の使い道をもう決めていた。
鈴が鳴るとすぐ横から「いらっしゃい」と声がした。
「わっ……どうも」
店主は並べ直していたらしい箸置きを食器の隣に戻すとくすぐったそうに笑った。
さっき店主の存在に気付かなかった祈がビクついたのが可笑しいらしい。
祈はしかめた面持ちになった。
見た感じ歳が近いとはいえ仮にも客である祈に対してこの店主は妙に遠慮が無い。気がする。
祈の周りにいる人間は颯を除いて基本的に皆遠慮がちに話し掛けてくる。
それが嬉しいわけでは決してなかったが。
店主は淡い水色のワンピースを翻して他の棚を弄り始めた。
「あの、聞きたい事が――」
「イヴさんっ」
祈の言葉は再び扉の開く音とその勢いで本来よりもうるさく鳴った鈴の音にかき消された。
店に飛び込んで来たのは制服を着た女子高生だった。
前に垂れ下がったふわふわの髪の毛を耳にかけると幼く可憐な顔が現れた。
「す、すみません」
女子高生は目の前に突っ立つ祈を見上げると目を見開き、縮こまって頭を下げた。
そんなに圧があるか俺は。
「どうしたの?」
祈が若干傷付いていると店主が尋ねた。
「珍しいですね、お客さん」
女子高生はててて、と店主の方へ駆け寄りながらちらと祈を見た。
それは果たして店主に言って良い事なのか疑問である。
「えっと、ちょっと相談が……」
どうやら二人は知り合いらしい。
お決まりの位置と言わんばかりに揃ってカウンター席に腰掛けた。
「相談?」
祈はつい耳を傾けた。
別に盗み聞きしようという訳ではないが、この狭い店内ではどうしたって聞こえてしまう。
「本が盗まれたみたいなんです」
それは気の毒に。
「どこで?」
「学校です」
「先生に言ってみんなに探してもらえないの?」
「それはダメです!」
女子高生は顔に似合わず大声で制止した。
そして今度は聞き取れないくらいの声で呟いた。
「その本、官能小説なんです……」
残念ながら聞こえてしまった祈は必死に箸置きに神経を集中させようとした。
やはり変わった店主の元へ来るのは変わった客だ。
今時の女子高生はもっとこう、流行りの感動モノとか恋愛小説を読むんじゃないのか。
「詳しく聞かせてくれる?」
「はい」
女子高生は丁寧に話し始めた。
祈は箸置きを凝視する。
ふむ、これはウサギだ。背の部分に箸を乗せるのか。
「昨日の放課後、図書館の机に置き忘れて、すぐに戻ったんです。でもその時にはもう無くて……司書さんに届いていないか確かめたんですが、その日は何も無いって」
こっちは亀か。これは首のところに乗せるんだな。
「誰かが持って行ったってことかしら」
「もしかしたら間違えて持って行ったのかもしれないと思って、今朝探しに行ったんです。そしたら変な所に立て掛けてあるのを見つけて」
「変な所?」
「もう使われていない本棚です。この間の館内清掃で廃棄処分が決定した書架で、今は隅の方に寄せられています」
見つかったのなら良かったじゃないか。
ところが女子高生は息を吸い込んで訴えた。
「棚の一番上にあったので、踏み台を取りに行ったんです。でも、戻って来たら――」
「……無かったのね」
何だって?
女子高生はうな垂れた。
「元気出して、月乃。一度は戻って来たんだからまた見つかるかもしれないわ。取り敢えず明日もう一度探してみたら?」
「そうします……」
女子高生はしゅんとしたまま「本日のティーセット」を注文した。
「それで、貴方は何を聞きたかったの?」
キッチンの中から店主が問い掛けた。
急に矛先がこちらに向き、祈は箸置きから遠のきつつあった意識を完全に逸らした。
ええと、何だっけか。
「あ……いや、何でもない」
「そう」
店主は軽く返すと冷蔵庫から取り出したチーズケーキを切り分けた。
「イヴさんのお知り合いですか?」
女子高生が物珍しげに祈に話し掛けた。
「えっ?いや……イヴって名前なのか?」
「いえ。イヴさんはこのお店での呼び名です。イヴさんは魔女ですから」
さらりと付け加えられたワードに祈は首を回した。
「魔女?」
からかわれているのかとふわ毛の少女をまじまじと見る。
「はい」
少女はニコッと微笑んだ。
どうやら聞き違いではないらしい。
「彼女は月乃。うちの常連さんよ」
店主が手際良くティーセットにティースプーンを置きながら紹介した。
「
「あ、ああ。宜しく。魔女ってどういう……」
「お待たせしました。本日のティーセット、紅茶とチーズケーキです」
「わあ、美味しそう」
歓声と共に祈とのやりとりが無かったかのように女子二人だけの空間が出来上がる。
……「本日のティーセット」め。俺だけがもやもやするじゃないか。
「何でそんな名前を?」
喫茶スペースの端にもたれて尋ねる。
「名前なんて何でもいいのよ。そうでしょう?」
店主は口元に薄く笑みを湛えたままだ。
「私も聞いていいかしら」
店主がカウンターに頬杖をついた。
「どうしてうちに来てくれるの?」
祈は身を硬くした。
あの目だった。
初めて会った時に見たあの深淵を見透かす目が、祈を見つめていた。
「それは……」
『貴方は大学生で、暇潰しの候補としてここを挙げていた――』
確かあの日、彼女は祈の目的を見抜いていた。
「……暇潰しで……すみません」
祈は正直に言った。
「でも、こういうのが好きなのは本当で……」
「それは分かってるわ」
聞きたいのはそこじゃない、と言われたような気がした。
「魔女っていうのはね」
イヴは広い瞼を伏せ、静かに紡いだ。
「“魔法が使える女”じゃなくて、“魔法を掛ける女”の事を言うの」
「え……」
その横顔は厭に綺麗だ。
「私はある目的の為にこの店をやっているんです」
真っ直ぐに祈を射抜いたその瞳の奥に、雪の結晶にも似た純白の光が舞った。
「それが出来た時――私は本当の魔女になる」
*
「あの」
次の日、大学近くの通りを歩いていると声を掛けられた。
「……?」
声の主を探してキョロキョロしているとくい、とカーディガンの裾を引っ張られた。
「わっ」
申し訳なさそうに上目遣いで祈を見上げていたのは月乃だった。
ブルーグレーのブレザーに膝丈のスカート、首元に赤いリボンの制服姿だ。
「えっと……?」
「イヴさんのお知り合いの方、ですよね?」
断じて知り合いでは無いのだが。
「もしご迷惑でなければ少しお時間頂けませんか……?」
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