第一章 本を食らわば書架まで

 夜枯よがらし いのりは伸びをした。

 身体を起こし、先程まで読んでいた建築史の大判資料をバタンと閉じる。

 時計を見ると十一時を過ぎたところだった。


 まだ、こんな時間。祈は小さく呻いた。

 大学内の図書館の最奥に位置するこの席は普段講義をサボる連中や昼寝する連中が頻繁に使用するので、視界は殆ど遮られている。

 したがって祈がいくら呻こうが溜め息を連発しようが気にする者は一人もいない。

 それ以前に、今日は土曜日。

 補講や特別講義などがいくつかあるが、基本的には休みである。

 一人暮らしの学生が冷暖房や食堂を目当てに休日も大学に来る事もあるが、祈は実家暮らしなのでその必要も無い。

 それでも祈が休日に大学に来ている理由は一つ。

 家に居たくないからだ。


「ハァ……」

 何度目かの溜め息を吐くと仕方なしに机の上に散乱する資料やらプリントやらを片し始める。

 殆どが専攻である建築史に関するものばかりだが、その中に数冊紛れているのはアンティーク家具や南フランスのインテリア雑誌、地元の雑貨屋を網羅したMAP本だ。

 机の大半を占拠していたA3版の資料集の上にそれらを重ねたところで、祈は無造作に波打つ髪をがしがしと掻いた。

 ――やる事が、無い。    

 積み上げた本の中からふとMAP本を手に取り、付箋を貼ったページを開く。

 そこには小粋な庭先を写した小さな店が紹介されていた。

「……ゆうかげの方か」

 祈は飾り気の無い茶革のショルダーバッグを肩に掛け、図書館を後にしたのだった。



 煉瓦が敷き詰められた道に降り立つと祈のスッとした後姿が綺麗な影になった。

 目指すのは大学から少し離れた寂れた商店街。

 商店街は近くにもう一つあり、それこそ終日人が絶えない栄場であるが、毎日正月のようなはしゃぎぶりが嫌いで祈は敬遠していた。

 反対に人の気配はおろか死人が切り盛りしているのではないかと思わせる「裏」の商店街は暗く静かで、知り合いに会う事も無い。

 前々から開拓し、あわよくば身を隠せる馴染みの店でも見つけたいと思っていたのだ。

 ともかく、上手くいけばあと半日くらいは時間を潰せるだろう。




     *




 鉢植えの植物や飛んで行きそうな物を屋内に運び終えた雫はそのまま店内の片付けを始めた。

 月乃が飲んでいたココアとクッキーのセット――コーヒーマグ、小花柄のナプキンを敷いた編み籠――をカウンター裏のキッチンに持って行き、それぞれ片付ける。

 そして花の剪定と水換え。

 来客に渡す店の名刺を整理していたところでぽつ、と雨粒が窓を叩いた。

 顔を上げるとギラリとした陽射しが目に入った。

「珍しいわね」

 狐の嫁入りだ。

 光の中を舞うようにしたしたと落つる滴は大粒で、全てが鏡の如く光源を映し出し、反射する。

 美しい――目が眩みそうだ。

 四月半ばの休日に似つかわしい、どこか晴れ晴れとする雨だった。  




 やはり予報というのは往々にして当たるものらしい。

 先程の鮮麗な景色は何処へやら、すっかりどんよりと鉛一色となった空を窓越しに見遣りながら、雫はなおも作業を続けていた。

 月乃を帰して正解だった。

 今にもあの切れ間の無い雲から大量の濁流が吐き出されそうだ。

 雨が降るとなれば塗装やドライフラワー作りなどの乾燥した空気を必要とする作業は出来ない。

 代わりに作りかけだったアクセサリーの作製を再開する。

 レジ横に設けた小さなアトリエテーブルにはイヤリングとピアスの金具や台座、その他各パーツが転がっている。

 前屈みになり、手元のアンティークランプを引き寄せ、メインとなる紫陽花の花弁のトップとそれらを組み合わせていく。

 こうしている時間はいつも不思議な感覚に包まれる。

 誰もいない小さな店で少しずつ命を吹き込まれていく物たち。

 その時だけは、空間そのものが何か力を得ているような気がするのだ。

 だから雫はこの店も商品も特別だと思っている。

 言うならば、魔法のような。



 三組目が出来上がった頃、再び雨粒が窓を濡らした。

 バラ、バラと間を空けて降り始めた雨はあっという間に豪雨へと変貌し、すぐにトタン屋根の上を叩きつけるビー玉の如く轟音を響かせた。

 雫が店を構えるゆうかげ商店街は歴史が古く、建物もアーケードも殆どが建設時のままなので灯りらしい灯りも無い。

 横並びに何軒かある瀬戸物屋や服飾店も主人は居る筈なのだが、一様に暗い。

 雫はすっと席を立ち、入り口の木製スツールの上と窓際の棚に近付いた。

 花のような乳白色のかさにはほの暖かいオレンジが、海底色のステンドグラスの蓋には朱めいたものがそれぞれ灯る。

 慣れた仕草で一連の流れを済ませると雫はまた席に戻った。

 鈍色にびいろの商店街の中、そこだけ灯った明かりは祈りのように静かに揺れていた。




     *




 祈は人の姿がないのをいいことに小さく舌打ちをした。

 図書館の本やらノートやらが入っている鞄は上着で包んだので事なきを得たが、祈自身は頭のてっぺんから足のつま先まで素潜りでもして来たかのようにずぶ濡れだ。

 まったく、昨日確かに今日の天気を聞いた筈なのに。

 今頃図書館の玄関先で出番のない傘が嘆いていることだろう。

「っくし!」

 まずい。

 このままだと間違いなく風邪をひく。

 そうなればこの先必然的に家に居る確率が高くなる。

 それはごめんだ。

 祈はどこか雨凌げるとこはないかと周りを見渡した。

 大学のある学園町の中心部から大分歩いたそこはひどく殺風景だった。

 跨線橋の下に古いトンネルがあり、一方通行の道路がどこかへ続いているがその先は道端の巨大な柳の木が覆い被さって見えない。

 さながら廃墟だ。

 ひたすらに打ち付けてくる雨から逃れるべく、祈は小走りでトンネルの中に入った。


 犬のように頭を振ると飛沫が舞った。

 薄手のシャツの袖と裾を絞るとコンクリートがビチャビチャと音を立てて色付く。

 何か温かいものでも飲みたい気分だ。

 ここはどの辺りだろうか。

 鞄からMAP本を取り出し、〈美古都の隠れ家を完全網羅!おうち系飲み屋から古民家カフェまで〉と銘打たれた表紙をさっとめくる。

「――ゆうかげ商店街西陣裏口から四つ目、跨線橋……ん?」

 目的の店の短い案内文と地図を照らし合わせ、祈は眉間に皺を寄せた。

 ゆうかげ商店街に行くには中心部から見て北へ北へと進まなければならないのだが、どうやら遠回りしたらしい。

 今居るのは街の西端に位置する場所だった。

 しかし、幸運なことに商店街の裏側――アーケードの裏口の近くである。

 跨線橋を渡らずに下の道を通ったので直線移動せずに迂回してしまったという訳だ。

「……」

 祈に予定を変更する気は無かった。




 ボーンボーンと鈍く球を付く音が正午を告げた。

 雫は作業する手を止め、出来上がったイヤリングを机に並べた。

 作業机の脇に重ねた赤格子柄の丸い缶の中にそれらを仕舞うと肩をぐきりと鳴らす。

 壁に掛かった振り子時計を振り返ると見計らったように腹が鳴った。

 カウンターを横切り、直線階段を登る。

 肩幅程の狭い木製階段は体重の軽い雫でも足を乗せるとミシミシと音を立てる。

 二階にあるのはトイレと物置、それに小部屋が一つ。

 ――雫はここに一人で住んでいた。

 障子を開けるとこちらもガタガタと悲鳴をあげた。

 壁に掛けていた生成りのエプロンを身に付けると一階に降り、カウンター裏のキッチンに立つ。

 雨はまだ止みそうにない。

 雫はのんびりと昼食の準備を始めた。




「『ユーフォリア』……ここだ」

 祈は庭先に小さな看板を見つけると不思議そうにその一角を見物した。

 アーケードの裏口から入って四軒目の建物は木造二階建ての普通の家で、小綺麗な小庭と玄関先、ドアを除けばおおよそ店らしくない。

 他の店舗は古いなりにもガラス張りだったり軒先にワゴンや商品棚があったりと「店」の体裁を保っている中、この建物は商店街の中でも浮いていた。

 和洋折衷の住宅――所謂いわゆる文化住宅だ。

 祈は人っ子一人いないアーケードを振り返った。

 白地に青で「ゆうかげ商店街」と書かれた看板は錆に蝕まれ、台風が来れば簡単に攫われそうだ。

「……」

 扉を開けると内側の鈴がチリンチリンと入店を知らせた。


 店内は木の香りが柔らかく渦巻いていた。

 木造の程良い矮小さは美しい物がぎゅっと詰まったある種の宝箱に感じさせる。

 まず祈を出迎えたのは大量に天井にぶら下がったドライフラワー。

 葉だけのものもあれば薔薇やラベンダーなど、様々な種類が束ねられている。

 入ってすぐに目に入る位置にある平たい棚上には桜のデザインの便箋や封筒、陶器の箸置きににサシェ、さらにはアイシングで桜が描かれたクッキーが籠の中に並んでいる。

 一番目立つ場所であることから、ここは季節に関する物や目玉商品の為のものなのだろう。

 祈をほっとさせたのはこの店の商品が必ずしも女性向けの物だけではなかった点だ。

 季節台の隣の洒落たケーキスタンドには煌びやかなアクセサリー類が飾られているが、床に置かれた巨大な缶の中には荒削りなスツールや車輪、塩ビパイプがあった。

 近年はインテリアを趣味に挙げる男性も少なくない。

 そもそも雑貨屋に入るのに性別は関係ないのだが、世の雑貨屋は女性向けの商品が多く、店自体もそれに合わせてデザインされていることが多い。

 そうなると男一人で入るのはやはり気が引ける。

 祈は自他共に認める無愛想だからだ。

 まったく、何が悲しくて己で己を無愛想などと評さなければならないのか。

 周りの人間が事あるごとに「もっと笑った方が良い」だの「その気がなくても圧がある」などと言うのでそのうち自分でも「ああそうなのかもしれない」と思い始めた。

 確かに祈は滅多に笑わないが別にそれはただ沸点が高いだけで、人と関わるのが嫌いなのではなく言ってしまえば面倒なのだ。


「いらっしゃいませ」

 凛とした声が届いた。

 店の先まで響く、透き通った声だ。

 祈はびっくりして物思いに耽っていた頭を起こした。

 声の主は店の奥まったところにあるカウンターの中に立っていた。

 華奢という言葉が似合う。

 鎖骨を際立たせる白いワンピースは艶のないリネン生地で、ふわりとした裾と袖口から覗く手足はやはり細い。

 美しい黒髪は肩くらいの長さでばらりと束になっている。

 女性はずば抜けて美人と言うほどでもないが、無性に惹かれる顔立ちをしていた。

 極めて印象深いのはその目だ。

 瞼が大きく伏せがちで、遥か遠くを、そして相手の深淵を見透かすような目。

 それはどこか祈の心をざわつかせた。

 例えるなら女王ではなく、反乱者。

 隠しきれていない静かな何かが、彼女の中から滲み出し、逃げ出そうとしてるみたいだ。

「こんにちは」とでも言えたら良いのだろうが祈は不器用に頭を下げただけだった。

 それだけで祈の性格を読み取ったのなら感服だ。

 女性は「ごゆっくりどうぞ」と一瞬微笑み、またカウンターの中に消えた。

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