序章 花明かり

 


 月が、沈んだ。

 だがこの霧懸かった通りを朝日が照らすまでにはまだ猶予ゆうよがある――。



 アイアンの枠飾りが付いたオーク製の扉が開かれると小さく心地良い鈴の音がそっとその場に漏れた。

 不純なものが何一つ無いまっさらな空気を連れてそれまでただ冷たいだけであった空間に吸い込まれていく。

 中から出て来たのは一人の女だった。

 暁霧ぎょうむの中でも分かる小柄でどこか精悍な雰囲気をしたためた顔。

 黒く柔らかな髪は女の所有物の中で恐らく最も美しく、庭へと続く短くも立派な石段を降りる度に冷たい風が白いワンピースと一緒に揺らした。

 女は庭の小さな椅子に近付いた。

 白い塗装が剥がれかけた華奢な脚が緑の中に佇んでいる。

 手に持っていた焦茶の焼き板をそこに立て掛け、数歩下がって完成したひと空間を眼中に収めると女は満足気に息をついた。

 あと少しもすれば闃然げきぜんと時が止まったかのようなここら一帯にも陽が当たり始めるだろう。

 誰が何と言おうとまた新しい一日がやって来るのだ。


 板が置かれた椅子に釣鐘形の下向きの白い花が俯くように寄り掛かる。

 焼き板には素朴な白字でこう書かれていた。


 《euphoria》




 ――薄ら闇に古く大きな鉄がそびえ立っている。

 その扉の向こうにあるのは教室群から離れた大きな建物。

 他の建物より広く設計されたそこは端から端まで、そして上から下まで様々な書物で埋め尽くされていた。

 広いくせに通路は狭く見通しが悪い。

 早朝の冷気が空間の箱を一層冷えさせる。

 しばらく棚の間を進み、それらしい書架を見つけると持っていた物を適当に置く。

 全く、何で自分がこんな事を。

 内心でぼやきながらその人物はそっと建物を出た。


 鮮やかな植物が表紙に描かれた一冊の本が心細そうに古びた棚の上から図書館を見下ろしていた。




     *   




 光を宿したしずくが視界の端に留まった。

 他の棚の整理をしていた手を止め、窓に目を遣る。

 まだ冬の明けたばかりとはいえ、確かに陽は薄く曇った硝子ガラスをまっすぐに通り抜けてごちゃついた陳列棚に射し込んでいる。

 あれ、としずくは思った。

 昨日の予報では雷を伴う雨だと言っていたが、今朝方の雨はほんの数分降っただけの驟雨しゅううだった。

 乾きの悪い窓に残った滴はまるで飴細工のように一粒一粒が煌めいている。

月乃つきの、傘は持っているの?」

 雫は思い出したようにカウンターに座る一人しかいない客に声を掛けた。

 ココアの入ったマグカップを両手で包み、金盞花きんせんか――通称『今日の花』――に見入っていた少女は顔を上げた。

「はい、一応折り畳み傘を」

 月乃と呼ばれた少女は桜色のマグカップを置いて目線を雫の方へ向けた。

 雫よりも背が低く、巻いた長い髪は紅茶のような色をしている。

 おまけにいつも頬の辺りが紅潮しているので、その可愛らしさはあどけない子どもそのものだ。

 ぴょん、と椅子から降りると少女は雫の前を通り、窓際の木で出来た梯子椅子に腰掛けた。

 彼女のふわふわとした髪が鼻先を掠めると薔薇のようなくすぐったい香りがした。

「そういえば今朝少し降っていましたね」

「予報だと一日中降るって言ってたわよ」

「これからまた降るんでしょうか」

「どうかしらね」

 雫は籠にリネンのハンカチを詰めると長いスカートをなびかせて梯子椅子はしごいすの横に立った。

 雲はやはり分厚く、神が指をひと鳴らしすれば容易く一雨落とせそうだ。

「せっかくお洒落して来たのに……」

 月乃が肩を落とす。

 彼女が落ち込むのも今日の身なりを見れば分からないでもない。

 普段の高校の制服姿ではなく、ややフリルやらリボンやらが多い気はするがそれでも彼女に似合いの女の子らしいワンピース。月乃の一張羅だ。

 彼女が何故せっかくの休日を雫の店に来る事に費やしてしまうのかは神のみぞ知るところだが、こうして自分の為にお洒落をして会いに来る人間がいるというのは人付き合いの少ない雫にとって素直に嬉しいことだった。

「風邪でもひいたら大変でしょ」

 これには月乃も口をつぐむ。

 月乃の通う高校は普通とは少し異なっており、一日でも休むと面倒なことになるのだ。

「!」

 微かだが低い音が響き二人は同時に顔を見合わせた。

 月乃が弾かれたように帰り支度を始める。

「やっぱり今日は帰ります。明日晴れたらまた来ますね、イヴさん」

 遠雷は月乃の意思を変えるのに充分だったようだ。

 次の来店を約束するのも忘れない。

「ありがとう。気を付けてね」

 小走りで帰って行く月乃を店先で見送ると、雫は腕まくりした。

 来たる雷雨に備えて庭の物や看板を避難させなければ。

 今日はもう誰も来ないだろう。


 ここを必要とする者が、本当にいないのならば。

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