01.堕ちた国とヴァンパイア
さぁ、
気がつくと、街は真紅に染まっていた。深く、深く沈み込んだ紅。それは血によるものなのか、はたまた燃え上がる炎によるものなのか。耳を澄ませても声はない。人は命を失うと同時に一切の音も失うらしい。ただ時折燃え朽ちた家屋が崩れ、バキバキと嫌な音を立てて炎に沈んでいく。俺の下半身は崩れた柱にしっかりと捉えられていてこの場から動くことは叶わない。幸い、まだこの柱に炎は移っていないようだが、それも時間の問題だろう。
一体この街が、俺たちが、何をしたというのだろう。敵国の攻撃により沈んだのではない。事もあろうか、同盟国の手によって消されたのだ。俺たちは何もしていない。この街で敵国の諜報員を見た─。そんななんの根拠もない証言によってこの街は存在を消された。世界はそれくらいまでには狂っている。両親も、学校の奴らも、みんな殺された。なぜ俺だけが生きているのか。こんなに痛く虚しい思いをするのならいっそ俺も死んでしまえばよかったのに─。
瞬間、俺の視界の端、首を回さずに見える限界ぎりぎりの位置に、さっきまでは存在していなかった物体を捉えた。どうせもうすぐ死ぬのだからと唯一動く右腕で力任せに体をよじり物体の方を向く。ぷちぷちと聞きたくない音がなるが気にしない。痛みも限界を超えると分からなくなるらしい。視界の中央に物体を据え、目を凝らす。それは─。それは、あまりにも美しいものだった。この地獄ともいうべき状況の中、まるでその全てに一切の興味がないというようにその場にヤツは佇んでいる。どす黒く濁った紅がヤツとは絶妙にマッチし、輝かしくすら見えてくる。肩から下りる漆黒のコート。ところどころ破けていて、数十年、いや数百年の時間の経過を感じる。コートから覗くヤツの姿は、明らかに人間のそれとは異なっていた。鋭い爪、黒い羽。顎先はシャープに尖り、耳もつんと飛び出している。口元から僅かに見える、恐ろしいほどに鋭く尖った牙を使って、ヤツは食事をしていた。死人をひとり、またひとりとつまみ上げ、首筋に噛み付く。既に死んでいるからもともと顔に赤みなどないのだが、噛み付かれた死人はさらに死人らしい顔色となりその場に崩れていく。しかしそれを見ても恐怖という感情は微塵も浮かばない。どころか今俺はこの光景を美しいと感じている。俺もいつの間にか狂ってしまった。そうと分かっていても、ヤツから目は離せない。身動きがとれなくなる。その姿は何と利己的で残酷なのだろうか。まるで当たり前のことであるかのように淡々と食事を済ませる。何にも縛られず、何にも従わず、己の欲求のままに生きている、─少なくとも俺の目にはそう映っている─その姿は、自由の真逆にいた俺にとっては憧れに値するものだった。
ヤツに気を取られていて気がつかなかったがそういえば背中が熱い。いつの間にか、俺の足を捉えていた柱にも炎が移ったらしい。いよいよ死を目前にし、俺はそれを受け入れる態勢に入る。最後にいいものを見た。そんなことを考えながら目を閉じる。が、俺はふとあることに気がついてしまった。
俺が、仲間が、この街が、あいつらの思惑通り今ここで全滅したら─。あの忌々しい王族どもはどんな顔をするだろうか。口元に気味の悪い笑みを浮かべ、作戦の成功を讃え合うだろう。よくやったと旨い酒を交わし、俺たちから巻き上げた米を口にし、絢爛な風呂に浸かって、俺たちには永遠に訪れることのない明日に向かうために、女と床につくのだ。突然、激しい吐き気に襲われ、すぐにそれは乗算で怒りに変換されていく。ダメだ。それだけは絶対に許せない。ただで死んでやるわけにはいかない。死ぬならあいつらにも同等の苦しみを与えてからでなければ気が済まない。死ぬのはあいつらを皆殺しにしてからだ。
あっという間に怒りに支配された俺はまた周りを見失う。いつの間にかヤツは俺の方へ向かってその足を進めていた。しかもあと3,4歩で俺の手が届く、というところまで接近している。もしかしたら俺に気づいてはいないかもしれない、と思える距離ではない。真っ直ぐに俺を見据えている。今死ぬわけにはいかない、という事に気づいてしまった俺はさっきまでとは違い、恐怖を感じる。人は生きる意味を持ってしまったとき死ぬことが恐ろしくなるのだ。弱った心臓が必死に脈打つのが分かる。ヤツは俺の目前まで来てその足を止めた。
「やはり生きていたか。」
低く、この状況には不釣り合いなほどに落ち着いた声でヤツは言った。その声は見た目の恐ろしさ、不気味さとは相反して、優しく、慈愛に満ちた音に聞こえた。しかしそう感じるのはやはり気のせいかもしれない。そんな慈愛に満ちた声を響かせながら、ヤツは俺の足が柱の下敷きになっていることになんの配慮もなしに、荒々しく掴み拾い上げた。おかげで折れなくてもいい骨まで折れてしまった。声にならないうめきが漏れる。ヤツは俺を自分の顔のある高さまで無理矢理に持ち上げ、覗き込む。ヤツの瞳は赤く輝いていた。俺たちの周りを囲む黒ずんだ紅とは全く異なる、美しい赤。まるでルビーが溶け込んでいるようである。
殺される、そう直感した。必死にもがくが既に瀕死状態のおれに抗う術などない。そもそも今俺がまともに動かせるのは左腕と口くらいなものだ。必死の抵抗も虚しく、ヤツの鋭い牙はおれの首筋を捉える。おれは最期に虚しく呟く。
「ああ、おれもあんたみたいに自由に生きたかった。おれもあんたみたいに、気にくわないやつの血を吸って殺してやりたかった。」
ヤツの牙がピタリと止まった。右上の牙がかすかにおれの首筋に刺さり、真っ赤な血が首をつたう。数秒の空白が、死を目前としたおれには永遠のように長く感じられた。
「やってみろ。お前にそれができるかどうか。」
そう言って、今度は躊躇なくおれの首をその牙で貫いた。意識が遠くなる。痛い、などという感覚はもはや無い。ただただ、世界が黒く染まっていく。もう音も聞こえない。静まり返った意識の中で、おれは国に殺されなかったことを心底安堵した…。
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