第10話 ここがあるよ。

「な、なに?」

「ごめん、メール」

 突然の爆音に心臓が飛び出るぐらい驚いた樹に、立夏がそう答えていた。

「え?」

 そう。立夏は普段スマホをポケットに入れているため、着信をバイブにしているのだが、トレーニングウエアを脱いだ時に離れていても音が聞こえるよう、設定を変えておいたのだ。

 彼女は樹から離れると、大慌てでトレーニングウエアをひっくり返し、ポケットからスマホを引き抜いていた。

「母さんからだ」

「なんて?」

「・・・急患の方が運ばれてくるから、朝ごはんは中止だって」

「土曜の朝なのに、お医者さんて大変だね」

「・・・うん」

 母親を褒められてるはずなのに、そう呟く立夏の顔はどこか寂しげだった。

「立夏さん?」

 そんな自分を心配そうに見つめる視線に気付いた立夏は、

「ごめん、なんでもない。あ!!採寸は終わったの?」と笑顔で樹に話し掛けていた。

「あ!!ごめん。あと2ヶ所」

「じゃあ、測っちゃおう」

「うん、ごめんね。じゃあ、もう1回立って」

「うん」

 そう返事して立ち上がった立夏に、樹がメジャーを持った手を伸ばしていく。

「次は乳下がりね」

(え?乳下がりって?)

 と、頭の中に浮かんだ疑問を立夏が言葉にするより早く、樹は彼女の右肩にあてがったメジャーを下に伸ばし、ブラの上から乳首に当てていた。

(!?)

「OK、次は左」そう言いながら、左の胸も同じように測って行く。

(な、なにこれ?)

 だが、樹は戸惑う立夏を置き去りにして、今度は真横に伸ばしたメジャーを彼女の左右の乳首にあてがい、乳首と乳首の間の距離を測っていた。

「な、なにしてるの、これ?」

「なにって、乳首と乳首の間、乳頭間を測ってるんだよ」

(そ、そうじゃなくて・・・)

 そう。測ることに夢中で樹は意識していなかったが、彼女は押し当てたメジャーを固定するために、それと一緒にブラの上から立夏の乳首を摘まんでいたのだ。

「はい、これでおしまい。お疲れ様」

 メジャーを緩めながら樹が見た立夏の顔は、‶ぽわっ″と赤くなっていた。

「どうしたの!?顔、真っ赤だよ」

「え!?」

 まるで心の中を見透かされたようにそんなことを言われ、立夏の顔が見る見る間に耳まで真っ赤に染まっていく。

「あ!!もしかして熱中症?」

「え?」

「横になって待ってて、今、氷枕と、何か飲み物持ってくるから」

「いや、あの、違う・・・」

 だが、立夏が言い訳するより早く、樹は脱兎の如く部屋を飛び出し、階段を駆け下りてしまっていた。

「・・・どうしよう」

 1人残された彼女が途方に暮れていると、‶どんどんどんどんどん″と階段を駆け上がってくる音が聞こえ、

「立夏さん、おまたせ」

 と樹が部屋に駆け込んで来た瞬間、立夏は慌てて横になり、布団を頭まですっぽり被っていた。

「立夏さん?」

 あらためて名前を呼ばれ、バツが悪そうに顔だけ出したものの、彼女は当惑していた。

(思わず布団を被っちゃったけど、どうしよう?)

 彼女が思わず布団を被ってしまったのには理由があった。

 もし仮に自分が「顔が赤くなったのは熱中症じゃない」と言ったら、当然樹は、「じゃあ、どうして?」と聞いてくるに決まっている。

 そうしたら何と答えていいか分からない。というのがあったからだ。

(まさか正直に「樹が乳首を摘まんだから」なんて言えないし)

 とはいえ、このまま熱中症のフリを続けていたら最悪の場合、いや、間違いなく母さんのところに連れていかれる。

 そんな事に思いを巡らせる顔が気分悪そうに見えたのか、

「頭、上げれる?」

 樹はそう言いながら、心配そうにタオルを巻いた氷枕を差し出していた。

「・・・ありがとう」

 立夏は頭を浮かせ、を頭と枕の間に置いてもらっていた。

「あ!!冷たい、気持ちいい~。極楽ぅ」

 ほっとした表情で笑顔を見せる立夏に、

「よかったぁ」

 と、樹も胸をなで下ろしたように安堵の表情を浮かべていた。

「ポカリ飲む?」

「うん」

「あ!!起きなくていいよ」

 身体を起こそうとする立夏に、樹は慌てて声を掛けていた。

「え!?」

 樹は、蓋を開けたペットボトルに曲がるストローを挿し込み、寝たままの口に届くように角度を付けると、その先を立夏の口元に運んでいた。

「はい。こちらを向いて。気管に入るといけないからゆっくり飲んでね」

「あ、ありがとう」

 立夏はストローをゆっくりと口に含むと、何口か飲んでそれを離した。

「もういい?」

「うん、ありがとう。すごいね」

「え?」

「ストロー。こんな飲ませ方どうやって思いついたの?」

「ううん。私が思いついたんじゃなくて、バイトのみんなに教えてもらったんだ。ストローは必需品だって」

「必需品?」

「うん。意識が朦朧もうろうとしてる人を抱き起して何かを飲ませるのって大変だし、かと言って寝転がってる人の口にペットボトルの飲み口を直接持っていくと、ドバドバ出て流れちゃってほとんど口に入らないか、気管とかに流れ込んで窒息させる危険もあるから、飲ませるんならストローか、タオルとかに滲み込ませて唇に含ませるか、でも、もしそのどちらもなかったら・・・」

「なかったら、なに?」

「少量ずつ口移し」

「え!?それって?」

「唐突に出て来たキーワードが熱中症の応急処置と結びつかず戸惑う立夏に、

「マウストゥマウス」と、樹はタコみたいに唇をすぼめていた。

「え~~~~~~っ!!それマジ!?」

「だって他に方法がないでしょ」

「た、確かに人の命がかかっている時に、そんな躊躇ちゅうちょしてられないもんね。手遅れになったら大変だし。・・・そっか、そうなるか?なるよね」

 自分を納得させるかのようにそう繰り返す立夏。

「あの、立夏さん、・・・ごめんね」

 そんな彼女に、樹がタイミングを見計らうように謝ったのはその時だった。

「え!?」

 突然謝られ、立夏はワケが分からず驚きの声をあげていた。

「徹夜して疲れているのに採寸に付き合わせちゃったから・・・」

「ち、違う。それは違うよ」

 どうやら樹は、彼女が熱中症になったのは自分が採寸に誘ったせいだと責任を感じているらしいと知り、立夏は大慌てで否定にかかった。

「そんなことない。樹は悪くないよ。ボクなんかより徹夜で仕事した樹の方がずっと疲れてるはずだし、それに採寸してって頼んだのもボクだし」

「でも・・・」

「悪いのは、・・・ボクの衣装作りを樹に丸投げした双葉だよ。樹は悪くない」

 立夏は必死だった。

 まさか自分が言ったウソがここまで樹を追い込んでしまうとは思ってもいなかった。

 けれど、今さら熱中症がウソだったなんて言ったら、怒って一生口を聞いてもらえなくなりそうな気がして本当のことも言えず、立夏は‶しどろもどろ″になりながら「樹はわるくない」と弁明し続けるしかなかった。

「・・・例えばこのことを100人に話したら、絶対100人全員が樹は悪くないって言うから・・・」

「ありがとう、立夏さん。優しいね」

「え!?」

 急にそんなことを言われ、立夏は言葉に詰まった。

「立夏さんの弟さんたちが羨ましいな。こんな素敵なお姉さんがいるなんて」

「そ、そんなことはない。・・・と思う」

 あまりに突然に話しの舵が自分に切られ、それでなくとも‶しどろもどろ″だった立夏は、どうしたらいいのか分からなくなってしまいそうだった。

「少し休んで。学校に行くのは夕方でも、ううん、明日でもいいから」

 そう言いながら、汗で額に貼り付く立夏の髪を優しく掻き分ける。

 その、言葉と指づかいから伝わって来る、自分を気遣う気持ちに立夏は何も言い返せず、ただ樹を見つめていた。

「・・・うん、そうする」

「じゃあ、私がここにいるから、ゆっくり休んで」

「え!?樹は休まないの?」樹のその言葉に驚いた様子の立夏に彼女は、

「ううん、そんなことない。立夏さんが寝たら私もちゃんと休むから気にしないで」と答えていた。が、

「どこで休むの?」と、今度は立夏が下から覗き込むように樹の顔を見上げていた。

「・・・えっと、

 樹がそう言いながら、指で差したのは、いま彼女がいる、ベッドとテーブルの間の狭いスペースだった。

「え、そこ?」

「うん」

「ここでどうやって休むの?」

「どうやってって、クッションを枕にしてカーペットの上でゴロ寝・・・」と言った瞬間、

「だめだよ、そんなの」と、樹の提案は立夏によって一蹴されていた。

「それやったら腰とか背中とか、身体中が痛くなるから」

「でも、立夏さんことが心配だし、近くで横になれる場所ってしかないから・・・」

(!?)「あるよ」その時、何か思いついたらしく立夏が突然叫んだ

 。

「え?どこに?」

 樹が不思議そうに見つめる中、立夏はそう言うとベッドの真ん中から端へと身体をずらし、掛け布団をめくっていた。

 そして、「ここが空いてる」と言いながら、ベッドの半分空いたスペースを‶ぽんぽん”叩く。

 「え?いいの」それを見て驚く樹に立夏は、

「いいのって、これ樹のベッドだよ」とツッコんでいた。

「あ、そっかぁ!!」

「ぷっ」

 心のそこから驚いた様子の樹に、立夏は思わず吹き出して大笑いしていた。

「え!!え!!なに?」

「だって」

 言葉が出てこないぐらい笑いっぱなしの立夏に樹は、

「え~?なに?」と言いつつも、その屈託のない笑顔に誘われるように自分も笑ってしまっていた。

「もう、可愛いなぁ樹は、ほら、早く来て」

 そう笑いながら布団を‶ぽんぽん″叩く立夏を見て、彼女はある事に気付いた。

「立夏さん、下着のままなんだ、よかったら私のパジャマ着る?」

「え!?」

「風邪ひくといけないし、私はこのスエットがあるから。よかったら着て」

「いいの?」

「うん。ちょっと待ってて」

 樹はそう言うと、ベッドの下の引き出しからパジャマを取り出し、

「はい」と手渡していた。

「ありがとう」

 それを受け取った立夏はさっそくズボンに脚を通していく。

「あ、これ8分丈なんだ。涼しくていいね」

「え?」

 樹はその言葉の意味が分からなかった。

 何故ならそのパジャマは、彼女にはピッタリのサイズだったからだ。

 けれど、穿いた立夏の脚を見て樹は愕然としていた。

 彼女にはピッタリの裾の位置が、立夏の足から10センチぐらい上にあったのだ。

(脚、長っ)

 いま採寸したばかりなのだから、彼女の脚の長さは分かっているはずだった。

 だが、こういう形で見せつけられると、その長さを改めて思い知らされてしまう。

 そんな樹の思いを知るよしもなく、立夏はパジャマの上に袖を通し下からボタンを留め始めた。

 が、その手が途中で止まった。

 というか、立夏はボタンを留めたいのだが留められず、四苦八苦していた。

 熱中症が悪化したのか?

「どうしたの?」

 樹は心配そうに彼女に声を掛けた。

「・・・ボタンが」

「ボタンがどうしたの?」

「胸がきつくてボタンが・・・」

「え?」

 そう。立夏は大きな胸が邪魔をして、パジャマのボタンを留めるのに四苦八苦していたのだ。

(が~ん)

 ついさっき採寸して分かっていたはずなのに、改めてみせつけられると(以下略)

「ごめんね。せっかく用意してくれたのに」

 着れないと判断した彼女は、パジャマを脱ぎ畳み始めた。

「・・・む、胸が、格差が、」

 だが、樹は改めて見せつけられた現実に打ちのめされ、一人うわ言を呟いていた。

「・・・つき、いつきっ」

「え!?」

 その声がようやく耳に届いた彼女の目に飛び込んできたのは、また下着姿になって、畳んだパジャマを差し出す立夏の姿だった。

「ありがとう、樹の気持ち、すごい嬉しかった」

 パジャマを手渡しながら‶にこっ″と微笑むと、彼女は再びベッドの半分のスペースに寝そべっていた。

「ねぇ、何か着れるもの探してこようか?」

 そう言う樹に立夏は、

「ありがとう。でも大丈夫。この方が掛け布団がヒンヤリして凄く気持ちいいよ。樹も早くおいでよ」と笑顔で誘う。

「そ、そお?じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて・・・」

 そそくさとベッドに入ろうとする樹に、

「え!?樹は脱がないの?」と立夏が驚いた様子で声を掛けていた。

「え!?」と、逆に驚く樹に、

「だって、せっかく布団が冷たくて気持ちいいのに、服を着たままなんて勿体もったいないよ」と甘えるように言う。

「・・・じゃ、じゃあ」

 そう言うと、樹はスエットを脱ぎ、下着姿になってベッドに、立夏の横に寝そべった。

「えいやぁ」

 と掛け声をあげながら、立夏が勢いよく布団を樹に掛ける。

「あ~、つめた~い」

「ね~。意外とヒンヤリしてるでしょ」

 ベッドは樹が保育園の頃に買ってもらったもので狭く、2人は身体を密着させ、鼻の頭がくっつくほどの至近距離で互いの顔を見つめ合っていた。


   

                                〈つづく〉

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