第159話:可愛いけれどすごい人
正直な話。幸恵が琴の名家であると聞かされて、お嬢様であったとしても、俺にとっては幸恵は勉強を教える生徒であり、同級生であり、気の許せる友人である。そこに何か特別な思いとかはなくて、名家のお嬢様だからといって他の人と比べて態度を変えるなんてこともなかった。
幸恵は幸恵だし、それ以上でもそれ以下でもない。それと恥ずかしい話だが、琴という、言ってしまえばマイナーな楽器の家元と言われても、いまいちすごさがピンと来なかったのもある。
琴の曲なんて聞いたこともないし、楽器の見た目はなんとなくわかるだけで実際にどういうふうにできてるとか、どの弦がどの音色を出すのとかも知らない。すごさがわからないから、自分の中で彼女の持つ才能をうまく判断することができなかったのだ。
しかしどうだ。今はもう、わからないで済ましていいものではないだろう。
遠くからでもわかる、他の琴とは違った一回り大きな琴が、低く重みを感じる音を響かせる。その音に合わさるように周りの琴が高く、それでいて透き通るような音色を響かせた。
今は箏曲部の通し練習の2曲目。一曲目の力強く華やかな曲とは打って変わって、静かに、音がそこに積もっていくかのような大人しい曲が流れる。
初めて聞いたけど……なんかすげぇな。
吹奏楽のような派手さはないが、引き込まれる強さのようなものが琴にはあった。上手い下手はもちろんわからない。でも一つだけ言えることは、聞き入ってしまうほど、彼女たちの演奏はすごい。
ステージの中央。ひときわ目立つポジションには、先ほどの大きな琴を真剣な表情で弾く幸恵がいる。普段はあんなにほわほわとしていて、何かと抜けてるところのある彼女だが、寒気がするほどの集中力に自然と圧倒されていた。
勉強をしている時の集中した表情とはまた違う。演奏者としての瀬川幸恵が、そこに座っている。
やっぱすごい人だったんだな、あいつ。
改めて瀬川幸恵という人を知って、勝手に遠くのもののように感じる。
曲が終わると、部長らしき人が「休憩挟んだら、いったん話し合いね~」と合図を送る。幸恵含め部員の皆は「は~い」と受け答えをすると、各々ステージを下り始めた。
そして幸恵は、すぐさま俺と日角の元に速足でかけてくる。
「優くん、来てくれたんですね!」
「いちおう、お呼ばれしたからね」
秋も深まり肌寒さも増してきているというのに、ステージから降りた幸恵はじんわりと汗をかいていた。そのことに気づいたのだろう、彼女は「ちょ、ちょっとだけ待っててください!」と焦った様子で体育館の端に行くと、タオルを持って戻ってくる。
「ごめんなさい。ステージの上って暑くって」
「そうなのか?」
あんまりここと変わらないような感じがするが、幸恵の言葉に隣にいる日角が「わかるな~」と苦い顔をする。
「スポットライトとか、夏は地獄ですよね」
「特に体育館は冷房ないからね~。窓は全開にしてるけど、やっぱり暑いか~」
バンドマンとして何度かステージに立った経験からだろうか、やっぱり音楽関係をやっている二人は何かと通じ合うところがあるらしく、お互いにうんうんと頷く。
「大変だな」
「でも、演奏は楽しいですよ」
無邪気に笑う幸恵の笑顔と、さっきの真剣の表情が重なる。演奏する時って人が変わったみたいになるのだろうか……ハンドル持つと性格が変わる、みたいな。
「それで、どうでしたか。私たちの演奏は?」
「……なんていうか。すごかった。本当に」
というか、そんな言葉しかでないほど、圧倒されてしまった。
「本当ですか!? まだまだ荒い部分もあるんですが、そう言ってもらえると嬉しいです」
あれでまだ荒い部分あるの!?
素人目線では本当に完璧なように見えたのに、それよりも上を目指してるなんて。
「すごいな。幸恵」
「えっ? どうしたんですか急に?」
あまりに唐突な方向転換だったのだろう。本当に言葉の意味を理解できず、幸恵は困惑している。
「そうやって真剣に向き合ってて、すげぇなって思って。かっこよかった」
あまりにもすごすぎて、俺とは住む世界すら違うんじゃないかって思いも芽生えたけど。それ以上に強く感じたのは、幸恵がどれだけ琴に真剣に向き合って、努力をしてきたんだろうという、尊敬の念だった。
きっとあそこまで真剣に向き合うまでに、いろんなことが彼女の中であったんだと思う。俺だって勉強をすることにすごい努力を費やして、今でようやく自分の物にできてると思っている。でも俺の場合は家とか関係なく自分のためだし、やめたかったらやめていいような代物だ。
けれど彼女は、たぶん違う。家の関係で琴は切っても切れ離せないだろうし、嫌だと言ってもやらないといけないような場面もあるように思う。それを考えると、本当にすごいという言葉しか出てこない。
率直な思いを伝えたつもりだった。しかし幸恵はなぜかピクリとも動かず、少ししてから「あっ、その……」と顔を真っ赤にしながら慌て始める。
目をキョロキョロと動かして、俺の顔を見て、また動かしてと、なんだか世話しない。最終的にはタオルで顔を隠しながら「ありがとうございます……」と消え入りそうな声で答えた。
「大丈夫か?」
「その……あまりそういうふうな褒められ方をされたことがなくて。嬉しくて……その……」
恥ずかしそうに肩を狭める彼女に、何だか俺の方も照れくさくなって頬を掻く。すると「私の隣でイチャつかないでくれないかな~」と不満げな声で日角が割って入る。
「いや、イチャついてるとかではないだろ!」
「そ、そうです! まだイチャついたことはないです!」
「幸恵!?」
「これから予定があるみたいに言わないでよ」
幸恵の天然から来るであろう言い間違いに的確なツッコミを入れる日角。まあ、さすがにその発言はいろんな人の誤解を招くだろうから、訂正はありがたい。
「それよりも、話し合いに行かなくていいの? なんかステージで皆さん待ってますよ?」
「あっ、本当ですね! それじゃ優くん、また」
シッシッ、と追い払うように幸恵をステージの方に向かわせる日角。何がそんなに気に食わないのか、少し怒ってるようにも見える。
「日角?」
気になって声をかけたが、彼女は俺の方を向いて、グッと顔を近づけた。鼻先が触れるだろうかってほどの距離まで詰めると、難しい顔をしてそっぽを向いてしまった。
その行動が何を意味するのかわからない俺は、頭を悩ませながら最後まで幸恵たちの演奏を聴くのだった。
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