第8話:朝からはやめてくれ本当に

 今日はなんだか、調子がいい。

 いや、調子が良いからなんだと思うかもしれないが、調子がいいとその日の気分が良くならないか? 俺だったら今日はなんだかいいことでも起こるんじゃ? とよくわからない期待をしてしまったりする。

 実際、そんなことが起こらないのは知っているけれど。


 だがそれでも気分がいい。気分がいいだけで、見えている景色が少しだけ変わってくる。なんていうか……俺の語彙力の関係だけど、明るく見えるっていうのかな。顔を下げないようになる。いつもだったらつま先の少し先を見て、何も考えないようにしている。むしろそれが当たり前と思って生活している。けれど今日は顔が上がっているし、天気もいいから見える景色が明るく見えるのだろう。

 いいな、こういうの。風も珍しく、湿気もなく温かく爽やかなものだ。こういう日が毎日続けばいいのに。


 駅のホームで電車を待ちながら、ふとそんなことを思った。


『まもなく、三番線に電車が――』


 アナウンスが入るので、電車が来る方向を見る。朝が早いこともあり、ホームには同じように登校、そして出社するためのサラリーマンやOLがいる。これだけの人が全員乗れば、それこそほぼ満員電車だろ。運よく座れるなんてことはまずないし、人混みの中で痴漢を恐れながら電車に乗るしかない。正直嫌だ。さっきの清々しい気持ちが雲散霧消していく。

 良いこととか、気持ちの良い状況というのは往々にして長く続くものではない。むしろ些細な嫌なことが一つでもあれば、速攻で意識はどん底に落ちていく。いや……さすがに言い過ぎか。少なくとも今回に限った話では、そこまでどん底じゃない。多少苦い顔をした程度だ。


 電車がホームに入ってきて、滞りなく扉が開く。押し流されるように、押しつぶされるように中に入って行く。すぐに電車の中はぎゅうぎゅう詰めになった。


 さすがに動けないな……今日ぐらい空いててもいいのに。

 なんて考えていたら、「相馬?」と目の前の女性が声をかけてきた。明るい髪色、少し釣り上がった目、薄く化粧をした顔、やや薄いが潤いのある唇。改めて見るとパーツ事に整っていて、ここまで美少女だったのかと思いたくなるそんな少女。というか、それは浅見紗枝だった。


「浅見?」

「やっぱ相馬じゃん。近すぎてわからなかったわ」


 浅見は周りの迷惑を考えて、なるべく静かな声で話す。まあ周りには学生グループが三組くらいいるので、そっちの方が充分煩い。それに輪をかけて椅子に座っている叔母様たちの方が喧しいので、そこまで気を使う必要はないかもしれないが、いい心がけだとは思う。


「浅見もこの時間だったのか」

「うん。けど今日は」

「ああ。あまりにも多い」


 普段から混む時間帯であるのはそうなのだが。今日に限って凄く込んでる。実際、浅見との距離感がほとんどなく。彼女が抱えているリュックが俺のお腹を圧迫していた。ちょっと苦しい。


 電車が揺れるたびに浅見の方に押しやられる。足を踏ん張ることで堪えてはいるが、背中から押されるので正直焼け石に水だろう。


「悪い」

「しかたないよ、込んでるし。それよりも、相馬の方こそ平気? なんか苦しそうだけど」

「正直に言おう。そのリュックが腹を圧迫している」

「あらら。ちょっと待ってて」


 浅見は俺のためにリュックを下ろした。


「いいのか?」

「前に背負ってるのは窃盗対策もあるけど、相馬が目の前にいるなら大丈夫でしょ?」

「まあ、お前の物なんか盗まないしな」

「因みに今日は体育があるから中に体操着が入ってるけど」

「その情報を教えられて、俺は一体どうすればいいでしょうか?」

「相馬が欲しそうなのがこれくらいだと思って」

「お前が俺をどう見ているのかよくわかったよ」


 因みにそこまで変態じゃないからな俺は?


「汗が染みこんでた方が好み?」

「そういう問題じゃない。公衆の面前で俺を辱めるな。そういうフェチの話しをするんじゃないよ」


 誰が聞いてるかわからないじゃない。


「私は意外に好きだけどな。こないだの体育の時に思ったし」

「はぁ? どこに俺の匂いを嗅ぐ瞬間が……いやあったな」


 授業終わりに腕を組まれたな。あの時か。


「というかお前、匂いフェチだったのかよ」

「女の子は、好きな男の人の匂いは好きなんですよ?」

「……からかうな」


 冗談だとわかってても、こうストレートに言われると色々と困る。冗談だとわかってても。


「まあ、好きな男の人っていうのは冗談だとしても」

「……」

「相馬の匂いが好きなのは本当」


 浅見は少しだけ体を寄せる。彼女の顔が俺の首元に収まる。ドキリと心臓が跳ね、密着されることで女性特有の柔らかさとか、甘い匂いだとかが嫌でもわかった。腕を組まれた時以上の密着度。後ろから抱きついて来た時よりもより恥ずかしく、心臓が激しく鼓動を打っているのがわかる。


「うん。この匂い好きなんだ」

「そ……そうか」


 それから数分、いやもしかしたら体感時間なだけで数秒しか経っていないのかもしれないけど、俺からしたら数分の間そのまんまだった。

 お陰様で下腹部に違和感が生まれ始め、意識的に彼女から腰を逃がすようにして、少しだけ不安定な立ち姿になる。それでも彼女は離れようとはしなかった。


「あの……浅見さん」

「ん~? どうかした?」

「そろそろ……その……」

「え~? 相馬がフェロモン出してるのが悪いんじゃ~ん」

「フェロモンって……別に俺は」

「相馬の匂いが好きっていう女子。結構多いよ? 知らなかった?」

「そうなの?」


 だとしたら少し恐いな。いつ俺は匂いを嗅がれているんだろうか。でも、嫌いと言われるよりは、好きと言って貰った方が俺としても嬉しい。


「本当。嫌な虫が付きそうで困るよ」

「えっ?」


 あまりにも声が小さすぎて、周りの喧騒にかき消された。しかし何かを言っていることが聞き取れたので「なんだよ?」と聞き返すが、「別に」とはぐらかされた。


「相馬」

「ん?」

くまではこれでいいでしょ?」

「まあ……別にいいよ」


 俺がちゃんと我慢すればいい話しだし。正直、こいつみたいな可愛らしい容姿の女性に、こうやって体を寄せられて喜ばない男子はいない。それは俺だって例外じゃない。ただきちんと線引きだけはしないといけない。こいつは別に俺の匂いが好きなだけであって、けして俺が好きな訳ではないので、そこはうぬぼれてはいけない。

 けど……まあ。俺も結局男なんだから、滾るモノってのが存在するんだよ。我慢すのは我慢する、けどもうすでにアソコが熱をもって雄々しく叫んでいるんだ。この状態があと何分も続くと思ったら、幸福なようで地獄だよ。

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