第4話:真後ろに回るな

 本日は、やってしまったと心から思う。


 数学の宿題を、やるのを忘れてしまったのだ。


 しかし言い訳をさせて欲しい。俺はちゃんとやるつもりではいた。しかし昨夜遅くにやっていたバラエティ番組が面白すぎて勉強が身に入ってなかったのだ。これは不味いなと思い、その日は切り上げ翌朝早めに起きてやるつもりだった。

 そしたら盛大に寝坊した。

 もはや顔洗って飯を胃に放り込んで家を出ることしかできなかった。

 まあ一度くらい……と思わなくもなかったが、元来の生真面目な性格ゆえか、それがなんだか許せなかったのだ。幸いにも数学は五時限目、昼休みの間に終わらせればなんとかなる。


「ごちそう様でした」


 サッと弁当を食べ終えた俺は、筆記用具と教科書、昨日配られたプリントを取り出し、問題を解き始める。内容は昨日やっているから覚えているし、正直わからないところは教科書を見ながら解けば問題ない。思ったより難しくないし、時間もそんなにかからないだろう。


 そう思っていた時だった。


「そ~う~ま!」


 俺の肩越しから顔を出てくる。女子特有の甘い香りに、サラリとした髪が頬と首元を撫でる。くすぐったさにゾワリとした鳥肌が立った。

 ゆっくりと横を向くと、そこには整った顔がある。

 大きな目、艶のある唇、少し赤くなった頬。贔屓目なしでも十二分に可愛らしい顔に、頬が熱くなるのを感じる。彼女は俺の席の後ろ、窓際最後尾を運良くも獲得した女子、浅見紗枝あさみさえ


 浅見は顔をあげると、「宿題?」と訪ねてきた。


「ああ。昨日夜できなかったから、今の内にと思って」


 それだけ言って、俺はまたプリントに戻る。最近、こいつに構っているせいで勉強が疎かになってきてるし、それに今は集中したいので話してやれる余裕がない。というかこいつなんでいんだよ。昼休みはいつも席にいないはずだよな……戻ってきてるのか?


 昼休みは個人の時間だ。俺はいつも友人と飯を食べに、隣のクラスに足を運ぶ。だいたいその時にはこいつも居ないから、浅見も浅見で別のところに行って飯を食べているのかと思ってたが、どうやらそうではないのかもしれない。

 まあ別に、こいつの行動範囲なんて知りたくもないけどな。


 浅見のことは頭の片隅の更に奥に追いやり、宿題に集中する。が、後ろになんかしらの気配があると落ち着かないな。


 眉を顰めて後ろを見ると、浅見は首を傾げて俺を見た。


「そこにいられると、やりにくいんだけど……」


 素直に苦情を伝えると、「そうなの? じゃあ……」と、なぜか斜め後ろから真後ろに移動してきた。


「いやなんでだよ!?」


 それも結構気が散るんですが!?


「斜め後ろが嫌みたいだったから、いつもみたいに真後ろになればいいのかな~って」

「真後ろは真後ろでも、机挟んでの真後ろだろ? これはもう、距離感0じゃねぇか」


 頭の後ろに浅見の気配を感じて、少し猫背気味に前かがみになる。身長差としてどうなのかわからないが、うっかり頭を後ろにやってよからぬところに当たってはいけない。配慮は大事だ。


「あんまり変わらなくない?」

「変わるわ」

「ふ~ん」


 特に意識をしていないのか、生返事が返ってきた。なんだか意識してる自分が馬鹿らしく思える。

 そうだよ。こいつが距離感バグってるのは今に始まったことじゃない。いい加減俺も慣れないといけないな。

 決意と共に少しだけ背筋を正すと、後頭部にポヨンと柔らかいものが当たる。その瞬間、ヒヤッとしたものが背筋を流れ、当たってはいけない何かに当たってしまったのだと、また猫背になる。


 不味い。怒られるのはまず間違いない。出来るだけ納得のいく言い訳を考えなくては。というか、真後ろにいる浅見も悪いよな。そうだよ、うんそうだ!

 そう自分に言い聞かせるが、こういう場合怒られるは男子の宿命。理不尽だろうが仕方がないと思う自分もいた。

 ゆっくりと後ろを振り向くと、浅見は頬を指先で掻きながら、少し照れた顔を見せていた。

 その表情に、自分の顔から火が出るんじゃないかってくらい熱くなるのを感じる。


「……相馬のエッチ」

「……すみません」


 お互い気まずそうに視線を下げる。


「宿題。早くやんなよ」

「あっ、おう」


 促される形でプリントに向き直るが、後頭部の感触とあの表情が頭から離れずにぐるぐると回っている。全然集中できない。


「……わかんないとこでもあるの?」


 ちょっ! ちょっと待って!


 浅見はその位置のまま机の上のプリントを覗き込む。おかげで、彼女の小ぶりながら弾力のある果実が後頭部に感じることができる。

 柔らかく包みむような包容力のあるそれに、俺は頭の中が真っ白になった。もはや宿題どころじゃない。


「あ……浅見さん」

「……何?」

「その……色々と、その……当たってますよ?」

「……知ってるよ?」


 知ってるなら普通離れるものじゃないんですかねぇ!

 こいつの行動が全くわからず、俺はプチパニック状態だった。このまま浅見が離れずにいたら、色々と爆発してしまいそうだ。

 ただそのギリギリのところで、柔らかいそれは離れていく。


 安心する心と、名残惜しさに、溜め息が漏れた。体から力が抜ける。


「相馬。耐性なさすぎ」


 後ろで笑ってるのが雰囲気で理解できた。

 仕方ねぇだろ! こちとら年齢=彼女いない歴(童貞)なんだからな! 女性の体に免疫なんかできるかってんだ!


「またしてあげよっか?」


 耳元で囁かれ、顔が茹で蛸になる。


「浅見!」

「相馬が怒った~」


 笑いながら離れていく。教室を出たところまで目で追って、溜め息が溢れた。

 ドッと疲れた。結局のところ、俺はあいつにからかわれたってことなんだろう。だとしても、ああやって押し付けるのはちょっといただけないな。ああいうのは、本当に好きなやつにやるべきだ。それこそ、俺みたいなのに使っていいものじゃない。

 そう。だからこうして意識するのも、お門違いなんだ。あいつは別に、俺の反応を楽しんでるだけ。


 けれども、不意に見せたあの表情が思い出される。恥ずかしそうに頬を染め、視線をそらした彼女の姿。からかってるようには見えなかった、浅見の姿。あれは……。


 ……自惚れは童貞の悪癖! 絶対にないから安心しろ! さあ集中集中!


 無理矢理頭の中を切り替えて、プリントに向き直る。終始、浅見の顔が離れなかったが、その度に無理矢理切り替えてプリントを進め、なんとか五時限目の数学には間に合った。

 その後、浅見とはなんとなく気まずい雰囲気になるけれど、結局授業中ちょっかいを出されることになる。しかしそれは、また別のお話。

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