Scene20 どたんば

 嵯峨野の通りに出てもなお、指の間には真砂子の指がある。

 その手は、予想以上に、あたたかい。

「お茶でも飲みませんか?」

 真砂子は提案してきた。

 たしかにちょうど休憩時きゅうけいどきかもしれない。口の中も渇いている。それで僕たちは、目に付いた和風茶房に入ることにする。

 大きな黒いテーブルにつき、椅子に座る時になって、僕たちはようやくつないでいた手を離す。手にはうっすらと汗をかいている。

「いかがでしたか、野宮神社?」

 真砂子はテーブルに肘を載せて静かに聞いてくる。

 彼女の顔と正面から対峙した時、ぎょっとする。

 瞳が青白く光っている!

 僕は思わずのけぞる。椅子が傾く音が店内に響く。

「え、どうしたんですか?」と真砂子は慌てて立ち上がる。

 目を押さえると、こめかみの辺りが軋みだす。

「橋田さん、大丈夫ですか?」

 恐る恐る目を開けると、そこには真砂子の顔がある。黒々とした眼球は、僕に狼狽の光線を発している。

「だ、大丈夫だ……」

 かろうじて答えた時、真砂子は僕の額に手を遣る。そのぬくもりがダイレクトに伝わり、こめかみの痛みを緩和する。

「熱はないみたいですね、疲れちゃったんですかね?」

「ごめん、また眩暈がして幻覚を見たんだ」

「疲れとかストレスだと思いますよ。最近何かと忙しかったから……」

 椅子を元に戻し、僕がきちんと腰掛けるのをちゃんと見届けてから、真砂子も自分の椅子に座る。僕はとりあえずグラスに入った水を口に含む。冷たさが一直線に腹まで落ちていく。 

「たしか、野宮神社はどうだったかという話だったよね」

「無理しなでください。少しゆっくりされた方がいいんじゃないですか?」

 真砂子は無造作に口を開けたまま僕の顔を覗き込んでくる。

「ほんとに大丈夫だよ。野宮神社、良かったよ、すごく。パワースポットだった」

 僕は今何が起こったのかを考えようとするが、意地悪な2枚貝はまた、わずかに開いた記憶の隙間をぴたりと閉じてしまう。

 

 僕たちの前に飲み物とスイーツが運ばれた時になって、真砂子は表情を崩す。

「わあ、かわいい」

 彼女は白くてまん丸な菓子を見て声を上げる。

「これは何ですか?」

 僕たちと同年代とおぼしき女性店員が感じの良い笑顔で答える。

「『どたんば』っていうお菓子でね、知る人ぞ知る名物なんです。求肥ぎゅうひの皮の中に、丹波たんば産の黒豆とあんこが入れてあるんですが、そのあんこに秘密があるんですよ」

 真砂子はそれを小さく切って、品良く口の中に収める。そうして、控えめに咀嚼してから、目を大きく開けて、うれしそうに言う。

「分かった、ミルクが入ってる」

「正解です。練乳味のあんこなんです。これが、案外お抹茶と合うんですよ」

 店員は得意げにそう言った後、僕たちのテーブルを離れ、他の客に応対しはじめる。

「これ、感動的に美味しいです。やみつきになりそう。橋田さん、知ってました?」

 僕は彼女の顔を見ながら首を横に振る。

「食べます?」

 真砂子はその白い菓子を小さく切り分ける。

「俺はいいよ、君が食べなよ」

 そう言っても彼女は聞こうとせず、何かを企んだような顔で、それを僕の口元に、あーん、と差し出す。

「遠慮しないでください、本当に美味しいですから」

 僕は周りの客を気にしながらも、それをぱくりと口に入れる。まず最初に練乳の甘みが入ってきて、次に大粒の丹波黒豆がざっくりとほぐれ、最後は白あんの後味がすべてを包括していく。じつに計算された味わいだ。心まで満たされる。

「味もいいですけど、見た目もかわいらしいですよね。特にこの白くて薄い皮がきれいです。まるで、絹で織られた白い着物の生地みたいに滑らかです。中のあんこもやわらかくて、なんだか、美しい女の人の肌みたいにしっとりしています」

 真砂子は口の中で溶かすかのように「どたんば」を食べ、抹茶をすする。

 さっきの眩暈の余波は、こめかみにくすぶっている。


「何年ぶりですかね、こんなに楽しいの」

 真砂子はおしぼりの先を細く尖らせて、口元を拭く。

「充実した人生を送っているように見えるけど」

 僕は言う。

「ほんとうですか? 全然ですよ」

「少なくとも、高校生の頃と比べると、数段魅力が増した気がするよ」

「ということは、あの頃は、よほどひどかったんですね」

 真砂子はおしぼりをテーブルの上で畳みながら言う。

「そういう意味じゃない」

「いいんですよ、無理しなくて。橋田先輩、やさしいから。だいいち、高校の頃のこととか、ほとんど忘れてますよ。と言っても、忘れられないこともありますけどね」

 僕はホットコーヒーに口をつける。和風モダンにしつらえられた店内の雰囲気にマッチする、ビターな味わいだ。

「高校生の頃って、自分じゃ大人ぶってましたけど、今思えば、やっぱりまだまだ子供でしたね」

 真砂子は茶碗の中にいとおしげな視線を落としている。

「でも、三つ子の魂百まで、じゃないですけど、心はあんまり変わってないような気もするんですよね。あの頃からたいして成長してないっていうか」

「いつまでも若いってことじゃないの?」

 真砂子は僕を見てから、何かを諦めたような表情を浮かべ、それから再び両手で茶碗を包み込む。

「橋田先輩と一緒に水族館に行ったのが、高校時代の一番の想い出でした。覚えていますか?」

「覚えてるよ」

 僕の胸の中のキャンドルに火がともされる。

「今でも、夢みたいです」

「だけど、あれから君も、いろんな経験をしたんだろう。もっといいこともたくさんあったはずだ」

「そりゃ、年を取った分、それなりに経験はしましたけど、今ほど楽しいことはなかったです」

 真砂子は茶碗をうやうやしく置く。その低い音が黒木のテーブルにかすかに響く。

「俺もだよ」

 僕はそう言いかけた。

 だが、やめておく。その時、なぜか夕薫の顔が浮かぶ。

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