Scene18 神聖な恋

「いよいよ、ですね」 

 声の先には太く「野宮神社」と綴られた看板が現れる。

 こめかみが痺れている。上半身は夢の中にいて、下半身は現実にある。

 女の後をついていくと、墓地に突き当たる。右に曲がると人々が賑わっている。木立の隙間からは丹塗りの建物も見える。に到着したらしい。


 今の幻覚の中で、何を聞き何を見たのかをさっぱり覚えていない。それらはほんの一瞬だけ脳裏をよぎり、ほとんど何も残さぬまま消えていく。まるで意地悪な2枚貝のように、その隙間をこじ開けようとすると、ぴたりと閉じて見えなくなってしまう。そうして、こめかみの痙攣と不思議な香りだけを残す。


「六条御息所と再会した光源氏は、この野宮で、夜通し愛を語るのです。彼女は、長いこと積もりに積もった恨み辛みを光源氏にぶちまけます。源氏の方は、もはや何を言っても言い訳になることが分かりきっているので、防戦一方です。でも、別れを前に、2人は愛をたしかめ合うんです」

 透き通った真砂子の声が、渇ききったのどを潤すミネラルウォーターのように、こめかみの奥に浸みる。


「でも、残念ながら、タイムリミットが来てしまいます。平安時代の男女は朝になると別れなければなりません。特に男は、朝帰りの姿を誰かに見られるのはひどく格好悪いことだったのです。2人とも未練たらたらで、源氏は後ろ髪を引かれまくりながら、あえなく帰途につきます」

「ドリカムは、うれしはずかし朝帰りって歌ってたけど、今と平安時代とでは、ずいぶん違うんだな」

 頭がショートしたからか、軽はずみな言葉が勝手に出てくる。しかも真砂子は、今度はドリカムに反応しない。またエラーをしてしまったかもしれないと、ますます目が覚めてくる。

 すると僕たちの前に、黒い鳥居が現れる。真砂子は鳥居の真正面に立ち、そこから神社の全景を見渡す。

「六条御息所は源氏と再会してしまったゆえに、心が乱れて、せっかくの決心が根底から揺れ動きます。こんなことになるのなら再会しない方がよかったと深く後悔します。でも、悩みに悩んだ末、結局、伊勢に下ることになるんです。つまり、この野宮は、光源氏と六条御息所の別れの舞台になったんです」

 真砂子はどこか寂しそうだ。

「この黒木の鳥居も、『源氏物語』に出てくるんですよ。いかにも仮に建てられた野の宮っていう雰囲気ですよね」

 境内の様子を眺めていると、朱色の毛筆で記された「恋愛成就」の文字に気づく。

「あれ、ここは別れの舞台じゃなかったっけ?」

「そうなんですよ。でも、今はなぜか、カップルたちのパワースポットとして有名になってるんです。『源氏物語』を誰も知らないんですかね?」


 2人で黒木の鳥居をくぐり、境内へと足を踏み入れる。

 手水ちょうずをつけ、正面の小さな本殿に揃って参詣する。カップルたちは、本殿の脇にある「神石」の前にずらりと列を作っているようだ。

「何の列だろう?」

「お亀石ですね。あれをさすると1年以内に願いが成就すると言われてるんです。みんな、あれ目当てに来てるんですよ」

「詳しいね」

 真砂子は表情を変えぬまま静かな笑みを浮かべ、列に並ぶ。

「何か、願い事でもあるの?」

「橋田さんの思いが夕薫ちゃんにきちんと届いて、無事、熊本に行けるようにってことです」

 迷いなく答える。

 僕は、ありがとう、と言いつつも、胸の中は複雑に渦巻く。

「橋田さんは、何か、あるんですか?」

 そう言われると、僕にはすぐに思い浮かぶような願い事がない。すると真砂子は、なぜだかおかしそうに笑う。それからふっと真顔に戻ってこう言う。

「橋田さんには、幸せになってほしいです。これまでしんどい思いをされてきた分、これからは思いっきり人生を楽しんでほしいです」

 僕の胸はぐちゃぐちゃになる。


 お亀石を撫でたあと、僕たちは境内をそぞろに歩く。

「やっぱりさかきの木がたくさん植えてありますね」

 真砂子は言う。彼女の薄い影が僕のつま先のほんの前を進んでいる。

「光源氏と六条御息所の別れの場面でも、榊は登場して、いい仕事をするんですよ。2人の間を手引きするんです」

 真砂子は緑色の葉の付いた小さな枝をぽきっと折る。

「あ、大目に見てくださいね。家に帰って、花瓶に生けとくんです。この場所の神聖さをずっと保っておきたいと思って。私もパワーをもらわないと」


 それから僕たちは、手入れの行き届いた境内をさらに奥へと歩く。

 杉の大木に囲まれ、榊の木も茂り、地面には苔が広がっている。風景はすべて深緑色に塗られている。

 歩を進めながら、水族館での光景をまた思い出す。

 あの時真砂子は僕のすぐ後ろを歩き、僕を見ていた。手をさしのべれば彼女は握り返したはずだ。でも僕は、何もしなかった。

 今この瞬間は、あの時間とつながっている。予想だにしなかったストーリーが用意されていたのだ。

 もし、今手をさしのべれば、彼女は応えてくれるだろうか?

 そんなことを考えているうちに、僕たちは手をつないでいる。

 どちらが先に手を出したのかは分からない。

 でも、確かに僕たちは、手をつないでいる。真砂子のぬくもりが、僕の手を通じて体全体に染みこんでくる。

 真砂子は僕の指の間に自分の指を入れてくる。そうして完璧に手を握り合った上で、杉の木立を見上げながら「神聖ですね」と、どこか他人事のようにつぶやく。

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