Scene17 永遠に記録されない女

 ずっとここで待っておりました。

 ずっとです。


 いったい、どれほどの月日が経ったのでございましょう?

 ある時から、数えるのをやめました。つらくなるばかりで、たいして意味などないことに気づかされたのです。


 それにしても、待っている間はずいぶんと長く感じられたのに、いったん過ぎてしまいますと、月日の経つのは、思いの外、早いものでございますね。


 白い着物を着た女は、ゆっくりと振り返り、僕を見る。その目には眼球がない。

瞳は青白く光っているだけで、それがほんとうに僕を見ているのかさえはっきりしない。

 女は着物のつまを整える。その所作と連動して、女の全身から、花のような香りが立ち上がる。


 ここは野宮ののみや。ご存じの通り、俗体に染みついたけがれを落とすための場所です。

 こんな神聖な所で恋心をあたため続けることなどもっての外だと肝に銘じておりましたが、それでも、いつかあなたさまがここへ来てくださるであろうことを信じて、お香をしのぼせておいたのでございます。これは、いつぞやあなたさまに褒めていただいた香り。

 覚えてくださっていますか?


 僕には覚えがある。

 彼女の寝所にいつも漂っていた香りだ。上品で奥ゆかしく、そして、どこかなつかしい。

 たしかに僕はこの香りに感じ入り、褒めた。


 いくら神に仕えようとしたところで、所詮わたくしは1人の女にすぎないのでございますね。

 最初こそそんな自分に嫌気がさしておりましたが、御祓みそぎを重ねるたびに、開き直るようになりまして、不思議と身体が楽になってまいりました。

 どうせわたくしなどには俗体を捨てることなどできやしないのだと、達観するようになったのでございます。

 わたくしが日々おこなっているのは形ばかりの御祓。心の中は、女のままなのでございます。


 この地で光源氏の君とお契りになられた六条御息所さまも、もしかするとこんな心境になられたのだと思うと、いくぶんか心が慰められるというもの。


 どうせ私は名もなき女。

 永遠に記録されないのです。


 目のない女から立ち上がる香りがふっと強くなる。どうやら風が吹いてきたらしい。

 風は白い着物をひらひらさせ、辺りの草木を揺らし、枯れ草の匂いをも運んでくる。


 すべての香りがなつかしく、胸に刺さる。

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