Scene16 恋人への過信

 既視感デジャブはどんどん濃くなっていく。へと向かって運ばれているような気がしてならない。

「男の人からすると、六条御息所みたいな女性は、うざったがられるんですかね?」

「六条御息所みたいって、どんな女性?」

「重い女、ですかね」

「どうだろうね、その女性のことを好きか嫌いかによるんじゃないか?」

「好きだったら、許せるってことですか?」

「まあ、そういうことじゃないかな」

 真砂子は思いの外真剣な表情だ。

「私なんかは、六条御息所に共感するところがあるんです。貴婦人なんだけど、すごくピュアなんです。紫式部は、単なる悪女として彼女を描いたわけじゃないと、勝手にそう信じてるんですけど」

 真砂子は青竹の匂いの中にある風景を慈しむように眺める。まるで彼女には空気中の水素分子の散らばりが見えているかのようだ。

「ところで、六条御息所が伊勢に旅立つ直前に御祓みそぎをしたのが、じつは、この野宮なんですよ」

「え? ここ?」

 僕は歩を止めて、足下を指さす。

 真砂子は、はい、と答える。その黒々とした瞳が僕の目を真正面からとらえた瞬間、首筋を冷気が駆け上がる。大脳に組まれているメモリーがショートして動かなくなったような冷たさだ。


 これまでかすかにざわめいていた竹藪がぴたりと静かになり、いちだんと薄暗くなってくる。まるですべての風物がモノクロームの絵画になってしまったような、高品質な静けさが世界を覆う。


ものがこの先にある。


 だが、僕はどうしてもそれを

 なぜなら、それは、僕がきわめて長い間ずっと先送りしてきた悲劇だからだ。どこかできちんと向き合って、清算する必要があるのだ。

 そして、それがまさに、今なのだ。


 真砂子はこの世界に僕をつなぎ止めるかのように、話を続ける。

「伊勢神宮は歴代の天皇が祀られるきわめて神聖な場所だから、俗人のけがれた体で仕えるわけにはいかないんです」

 僕には真砂子の声もきちんと聞くことが出来る。

「だから、この辺りの野原には、神に仕えるための御祓の場所がいくつか設けられていたんです。それが野宮で、だから『野の宮』って呼ぶんだと勝手に決めつけています」

 真砂子が無邪気に笑ったその背後で、完璧な竹林は再びざわざわと動き出す。モノクロの世界から、一瞬で色彩を取り戻したかのようだ。

「そんな神聖な所に、俺なんかが足を踏み入れてもいいのかね? すでにかなり穢れまくってると思うけど。さっきから妙にそわそわしてるしてるのは、場違いなところに行こうとしているからかもしれない」

「大丈夫ですよ。かの光源氏だってこの道を通ったんだから」

 真砂子は寛容さあふれる表情でそう言う。

「六条御息所が伊勢へと下るニュースを耳にした光源氏は、急に寂しくなって、未練を感じるんです。それで、いてもたってもいられなくなって、月の夜にこの道を通って彼女に会いに来るんです」

「自分の妻を呪い殺した女性に、わざわざ会いに来るのかい?」

「元々は愛し合った仲ですからね。そういう都合がいい行動って、やっぱり男心なんですか?」

 僕は考え込む。

「人それぞれじゃないかな」

 そうかわしながらも、心の深いところでは、その気持ちが分からないわけでもない。女性に対する過信があだになってその人を失ってしまった瞬間、たちまち自分の慢心に気づき、胸が張り裂ける。秋江を失った当時の心境だ。


「それにしても、光源氏って、平気でタブーを犯すんだな」

 僕は話題の矛先を変える。

「光源氏は、手に入れたいと思ったものは、どんな手を使ってでも自分のものにしてしまうんです。それができるところがある意味偉大なところなんですが、橋田さんはどうなんですか? 男の人って、離ればなれになると思った瞬間、その女の人に会いに来たくなるもんなんですか?」

 真砂子は占い師のような表情をこちらに向けて、質問を元に戻そうとする。

「その時になってみないと、分からないね」

 とりあえずそう言っておく。

 真砂子もそれ以上質問をしてこない。

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