Scene15 物の怪かドリカムか

 竹林が高密度になるにつれて、既視感デジャブはますます色濃くなっていく。

「六条御息所は光源氏との逢瀬おうせを毎晩、一日千秋の想いで待ちわびるわけです。ところが、光源氏には葵の上という正妻がいました。2人の仲は冷め切っていたのですが、結婚して数年後に、葵の上はようやく懐妊するんです」

「恋の泥沼にはまってたんだな」

 ついさっきまで前を歩いていた真砂子は、今は僕の隣に来ている。

「平安人たちの間では、貴族男性には複数の妻がいても大目に見られていたんです。暗黙の了解だったようですね。だから、禁断の恋っていう感覚は、今よりもかなり薄かったんだと想像されます」

「なるほど」

「愛する人に放置され、泣かされた女性も多くいたわけです。六条御息所も完全にそのパターンでした。でも、彼女の場合は、皇后になろうとしていた人だし、特にプライドが高かったわけですから、その心中たるや、想像するのもおそろしいほどです」

「で、どうなったの、結局?」

「六条御息所の嫉妬の火に油を注ぐ事件が起こってしまったんです」

 竹が風でこすれ合う音が耳に入ってくる。

「葵の上の懐妊でますます源氏が訪ねてくれなくなって、六条御息所は胸を焦がすほどの苦しみを味わいます。そんな自分を情けないと思いながらも、どうにかして恋人の姿を一目見たいと思い続けるんです。彼女の歌が、すごくせつないんです」


影をのみ みたらし川の つれなきに 身のうきほどぞ いとど知らるる


 真砂子は自らの和歌のように暗誦する。

「折しも、光源氏が大衆の前に登場するという情報が届きます。賀茂川の河原で御祓みそぎの儀式が盛大に行われることになったんです。彼女は、密かに牛車を出すことにします。愛しいあの人の姿を一目でもいいから垣間見たい、『影をのみ みたらし川の』っていう、片想いの心ですね」

 僕たちの横を、人力車がすり抜けていく。2人の若い女性が乗っていて、寒そうにしながらも、スマホで自撮りを楽しんでいる。威勢の良い漕ぎ手はすれ違いざまに挨拶して、嵯峨野の通りの方にエッセラホイと消えていく。


「儀式の当日、六条御息所は、牛車を少しでも前に出そうとします。それが、葵の上方の反発を買うんです。『源氏の君の愛人にそんなことをさせるな』と、六条御息所の牛車を後ろの方に追いやり牛車まで壊されて、屈辱を味わわされるんです。彼女が最も怖れた『人笑へ』です」

「プライドを賭けたぶつかり合いに負けたわけだ」

「しかも、大衆の面前での赤っ恥です」

 想像するだけで、おぞましい。

「それからというもの、葵の上に対する嫉妬を爆発させて、彼女自身、自分をコントロールできなくなるんですね。ついに、魂は物の怪となって、出産に苦しむ葵の上に取り憑きます。物思いに悩む魂はこうやって彷徨さまよい、あなたに会いに来たのですよと、葵の上の顔を使って、光源氏に向けて、甘えるように語りかけるのです」

 真砂子はそう言い、もう一首、別の和歌を暗誦する。


嘆きわび 空に乱るる わがたまを 結びとどめよ したがひのつま


「俺には、ちょっと、意味が分からないね」

「『したがひのつま(つま)』というのは、着物の端の部分です。下半身で2つに分かれているところですよ。そこをしっかり留めておけば魂が抜け出さないという言い伝えが平安時代にはあったようです。ちゃんと着物を押さえて、私をつかまえておいてくださいねって頼んだんですね」

「なんか、ドリカムの歌に出てきそうなフレーズだな」

「はは、たしかにそうかもしれませんね。ドリカムですか。高校生の時によく聴いていましたね。なつかしいです」

 真砂子の表情は氷山が崩れるようにほぐれていく。

 というより、僕には、何となくエロティックな和歌に聞こえてしまう。他の男に抱かれたいと思わなくて済むように、ちゃんと私の相手をしてください、という意味だ。

 だがそんな解釈を口に出すのはやめておく。なにしろ隣を歩いているのは、高校時代の可愛い後輩だ。


「その後、出産を終えた葵の上は、憔悴しょうすいしたまま息を引き取ります。もちろん、六条御息所には自覚はありません。だって、取り憑いたのは、彼女の物の怪なんですから。でも、体に不思議な匂いが付いていることに気づくんです。それは物の怪を調伏する時に焚く芥子けしの匂いでした。それで彼女は、自分の魂がやらかしてしまったことを悟るんです」

 真砂子は苦笑いを噛みしめながら、上方を仰ぐ。その動きにつられるように、僕も同じ方向に目を遣る。竹林は狭い空に向かって伸び上がっている。整然とまっすぐに並ぶ兵士たちのようでもある。

「まだ続きがあるんですよ」

 真砂子は、ドリカムの表情を保ったまま言う。

「深い罪悪感にさいなまれながらも、いつまで経っても光源氏のことが忘れられない六条御息所は、1人娘が斎宮さいぐうとして伊勢神宮に仕えることになったのを機に、自分も一緒に伊勢に下る決心をするんです」

「伊勢?」

 再びデジャブの足音が聞こえだす。

「当時、伊勢神宮は皇族を祀る絶対的な存在でしたが、なにしろ都から遠く離れているということで、そこに下向げこうする女官たちは皆、胸の奥に深い哀愁を抱え込んでいたと言われています。六条御息所は、光源氏から離れるために、心を鬼にして、あえて、その厳しい道を選んだわけです」

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