Scene14 失恋した貴婦人の行く末

『松風茶や』を出て、外の空気が頬に触れると、さっきよりも太陽がまぶしく感じられる。だが、体感温度が上がった感じは全くせず、依然として風は冷たい。

 僕たちは冬枯れした嵯峨野の通りを北に向かって歩く。

「目的地は、どうやらこの先にあるみたいです」

 真砂子の視線の先にある小さな看板には太い毛筆で「野宮神社 500M」と書かれている。

「のみやじんじゃ?」

「いいえ、ののみや、ですね。『源氏物語』にも登場します」

「初めて行くの?」

「そうなんです。いつか行ってみたいなって思い続けてたんですけど、なかなかチャンスがなくて。そのうち行けるだろうと高をくくっていましたが、まさか、橋田さんと一緒に来れるだなんて、夢みたいです」

 いや、夢みたいなのはこっちの方だよ、と僕は心の中で答える。

 夢?

 その瞬間、また眩暈の予兆を感じる。もしかすると、現実だと思っているこの世界が夢なのではないかと思うくらいに、しつこい。

 再びになだれ込んでいく。


 あな、心憂こころう……

 わたくしは、あれからずっと、この世界を彷徨さまよっているのでございます……

 

 真砂子は僕の少し前に出て、野宮神社へと続く道を探し始めている。

 僕は目をできる限り大きく開いて嵯峨野の町並みをざっと見回す。手入れの行き届いた路地には品のある店舗が軒を連ね、外国人を含む観光客たちは、店内に並べられた商品を手に取り、ためつすがめつ眺めている。振り仰ぐと、透き通った青空に鳥が舞っている。

 あらゆるものが、何の疑いもない、美しい風景だ。

 ああ、やはりこの目の前の風景こそが、僕にとっての現実なのだと胸をなで下ろす。さっきからいろいろと考えすぎている。

 冷たい息を鼻の中に吸い込んで、再び視線を目の前に移すと、微毒のような眩暈の中、真砂子のベージュのトレンチコートは真っ白な着物にすり替わっている。その裾は時折風になびき、ひらりと裏返る。それと同時に、ほのかな香りが立ち上がる。


❸ 

「どうやら、この道を行けば、野宮神社に着くみたいですね」

 目をこすって確認すると、真砂子が歩くたびに、トレンチコートの裾がひらひらと揺れている。渇ききった口の中で、唾をひとつ飲み込む。

 すぐ横には「野々宮」というバス停があり、そこから石畳の脇道が西に伸びている。見たところ、ずいぶんと細い道だ。 

六条御息所ろくじょうのみやすどころってご存じですか?」

 たぶん知らない、と僕は答える。

「『源氏物語』に出てくる女性たちの中でも、1位2位を争うほどの貴婦人です」

 小径こみちに入った途端、辺りは薄暗くなり、今までとは別の空気に包まれる。道の両側は壮大な竹藪に囲まれていて、風の中に土の香りが漂っている。


「あれっ?」

 僕の口から声が漏れる。

「どうかしました?」

「いや、この風景、夢で見たことがあるような気がしてね」

「以前来られたことがあるんじゃないですか?」

「それはないね。いくらなんでも、1度来た場所くらいは覚えているよ。この道は間違いなく初めて通るのに、何度も夢に出てきたように思えるんだ」

 真砂子は興味深そうな顔を僕に向ける。

「それって、既視感デジャブですかね?」

「そんなことが、この世にあるんだろうか?」

「あるかもしれませんね」

「前まではそのたぐいの話は絶対に信じなかったんだけどなぁ。最近、少し変わってきたんだ」

「何かあったんですか?」

 竹藪の影が彼女の顔に落ちている。

「最近何かと夢を見ることが多くなってね」

「お疲れなんですよ」

 真砂子の言いぶりはどこまでも優しい。

 既視感デジャブを振りほどくために、景色を広く見渡す。狭い道なのに思っていたよりも人が多く、遠くから人力車も近付いてくる。

「六条御息所は、元々皇太子妃で、将来の皇后になると噂されるほどの身分の高い人でした。平安朝では、皇后になるということは女性たちの最上の憧れだったんです」

 真砂子は話を再開する。

「つまり、その時代は階級社会だったわけだ。まあ、今も大して変わらないけどね」 

 僕は頭の中につっかかりを残しながらも彼女についていく。

「今以上に、身分がものをいう世界だったんです。男も女も、野心に燃えていたわけです。それが、六条御息所の場合、不運にも、夫の皇太子が亡くなってしまって、そこから人生が急転落するんです」

「なるほど」

「それで、ひっそりと身をやつして、世間からの『人笑へ』にならないようにしていた、そんな時、光源氏と出会ったんです」

「で、そのまま恋に落ちるわけだ」

 真砂子はやわらかな表情で首を縦に振る。

「2度と恋なんてしないと固く心に決めていた貴婦人が落ちる恋ですから、それはもう……」

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