Scene13 女と男、それぞれのプライド
❶
「嵐山天竜寺前」のバス停に着いたのは、京都駅を出てから50分以上も経ってのことだった。あと少しで正午になろうとしている。
「おそばでも食べて、あったまりません?」
真砂子は嵯峨野の通りから1本入ったそば屋を指さして言う。さほど腹の減っていない僕にとっても、それはいいアイデアだった。さっきから不吉な影のように続く眩暈も少しは楽になるかもしれない。
『松風茶や』と書かれた深緑ののれんをくぐると、古木で作られた店内に魚の焼ける匂いが染みこんでいる。奥出雲にある祖母の家とよく似た匂いだ。
「素敵なお店ですねぇ」
真砂子は店内をゆっくり見回しながら言う。
「なんだか、島根にいるみたいです」
彼女も僕と同じことを感じている。
テーブルについて、湯呑みに注がれた豆茶を口に入れると、冷え切った体内にぬくもりが瞬時に行き渡る。真砂子は天ぷらそばを、僕はにしんそばを注文し、品書きを閉じる。
「ひょっとして、もっとモダンなお店がよかったですか?」
おしぼりを軽く握りながら、真砂子は聞いてくる。
「いや、こんな情緒のある店をイメージしてたよ」
「やっぱり、橋田さん、変わってないですね、昔から」
「どういうこと?」
「人を傷つけないということです」
「そんなことはない。これまでたくさん人を傷つけて、その分、じゅうぶんに年を取ったよ」
「じゅうぶん若いと思います。でも、年を重ねるって、素敵なことでもありますよ。橋田さんは、昔よりもかっこよくなってますよ」
真砂子は豆茶をすする。僕も彼女に倣って湯呑みに口をつける。さっきより豆の香りが濃くなったような気がする。
「お世辞がうまくなったね」
「いえ、お世辞じゃないですよ。私、お世辞なんか言わないです」
「君こそ社会人になって、魅力が増したよ。お世辞も覚えたし」
真砂子は微笑を浮かべながら首をかしげ、豆茶に口を付ける。
❷
「ひとつ、お伺いしていいですか?」
湯呑みをテーブルに置く寸前に真砂子は聞いてくる。僕はいいよと答える。
「すごく、聞きにくいことでもあるんですけど、橋田さんは、もう離婚されてるんですか?」
「すごく、痛いところを、ストレートに聞くね」
「だから、私は上手とかそういうのは言わないんです」
「わかったよ。まだ正式には離婚していないけど、実質的には離婚している」
真砂子の頭の上には、大きなクエスチョンマークが浮かび上がっている。
「全く連絡が取れないんだ。調停を申し立てることもできるんだろうけど、なにせなかなか時間がなくてね。だから自然放置ってことになってる。でも、妻は100%帰ってこない」
真砂子は口だけで機械的な笑みをつくる。
「どんな方だったんですか?」
「どうだろうね? ひとつ言えるのは、俺よりもはるかにてきぱきしてたな。姫路に来てから、通信教育で会計士の資格を取って、いろんなところに出て行ってた」
「仕事のできる方だったんですね」
「一緒に仕事をしたことがないから分からない」
「会社で出会われたんですか?」
「いや、大学の同級生だよ」
真砂子は口をとがらせて、驚いた顔を見せる。
「じゃあ、お付き合いは長いんですね」
「付き合いは長いかもしれないけど、すでに終了してしまった。あまり思い出したくもない」
「どんなとこが好きだったんですか?」
僕は何も答えずに、頭頂部を掻く。
「さぞかし魅力的な方だったんだろうな……」
明子がそうつぶやいた時、僕たちの前には、それぞれのそばが運ばれてくる。黒くて重厚な器からは、勢いよく湯気が立ちこめている。
僕が汁をすすったのを確認して、真砂子も器を手に取る。
「それにしても、どうして出て行っちゃったんですかね?」
「それは、俺にも分からない。事実は本人のみぞ知るってところだ。ただ、どうやら男も一緒だったようだ」
真砂子は目だけこちらに向ける。
「いわゆる、駆け落ちってやつだね。ドラマとかでよくあるけど、まさか自分の身に降りかかるとは思ってもみなかったよ。まあ、でも、後になって思ったんだけど、俺にも非はあったのかもしれない。妻のことを信用しすぎてたんだ」
真砂子は真顔で考え込んでいる。
「信用しすぎるっていうのは危ないことだって、彼女が出て行ってから初めて教わったよ」
「奥さん、後悔してると思いますよ」
僕は眼球だけ真砂子に向ける。
「たぶん、絶対幸せにはなっていない」
「そんなこともないと思うよ」
「いや、私の勘はよく当たるんです。たぶん、信用しすぎてたのは奥さんの方だと思いますね。家を出て行っても、橋田さんなら許してくれる、夕薫ちゃんのことも、橋田さんなら何とかしてくれるって、甘えまくってたんだろうと思います」
そんなこと、これまで考えたことはなかった。そもそもこの問題をきちんと誰かに相談したことすらなかった。
「でも、橋田さんみたいな人、そうそういるもんじゃないです。奥さんは衝動にまかせて出て行ったかもしれませんが、その相手が橋田さん以上の人だとはとうてい考えられません。きちんとした人だったら、正攻法で奥さんを手にするはずです。橋田さんなら、その男の人と同じことしますか?」
僕はにしんを小さく噛む。
「たぶん、戻れるものなら戻りたいって、今頃奥さんは思ってるはずです。夕薫ちゃんのことだって気になってますよ、絶対。でも、戻ってはこないでしょうね。女のプライドみたいなものがあるんですよ。戻ることは、自分を否定することでもあるし、負けを完全に認めることにもなりますから」
汁をすする。ノーガードだったので、舌をやけどしてしまう。
「もし戻ってきたとすれば、それはそれで、虫がよすぎますよ。そんなにお仕事がお出来になる方ならなお、戻ってこれないはずです」
ありがとう、と僕は言いたかった。だが、言葉は出さない。だからこそ、その思いは、心の中で静かにあふれ出す。
「橋田さんとしては、復縁することは考えていないんですか?」
真砂子は畳みかけてくる。
「考えていないね。プライドなら、こっちにもあるから」
僕はヒリヒリする口で断言的に答える。
真砂子は新たにそばを口に入れ、ゆっくりと噛みしめる。
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